高専の校庭。日当たりの良い場所に生えている立派な樹の木陰という午後休憩の穴場で、私がのんびりとおやつを食べている時のことだった。
「ぃ、しょっと。くあ〜〜〜っ」
私が寄りかかっている木の幹の反対側で、どかっと誰かが腰を下ろしたらしい音。それに続く盛大な欠伸。
振り向けばツンツンした薄茶色の髪が目に入った。
虎杖悠仁くん。私の兄、五条悟が受け持っている学生の一人。
私は既に卒業しているので学生さんたちとは接点はないけれど、有名人である虎杖くんについては知っている。なにしろ両面宿儺の器だ。
サクサクサク。
ひとまず食べかけのお菓子を咀嚼し終えてから、私は突然の闖入者の様子を伺おうと腰を上げた。
「こんにちは、虎杖く……あれ? 寝てる?」
木の幹を背もたれにして規則正しい寝息を立てている虎杖くん。閉じた両目。その下にある傷跡のようなものが時々開いて、両面宿儺が出てくるのだとか。
なんだか無性にそわそわする。胸の奥から湧き上がってきたのは好奇心、だろうか。千年前から存在しているという呪いの王。話に聞くだけではなく直に交流してみたいと思ってしまった。
「宿儺さーん? こんにちはー」
聞いた話では頬の辺りからにゅっと両面宿儺の口が現れるのだったか。
虎杖くんの横顔に向かって小声で話しかけてみる。
「よかったらおやつ一緒に食べませんかー?」
左手に持つお菓子の袋をガサガサと振ってみるも、反応なし。
「すーくーなーさーん? 仲良く一緒に寝てるのかな……」
諦めの溜め息を漏らした、その時。
ぐぱっ、と。閉じた瞼の下から眼球が覗き、頬が裂けて口腔が開いた。
「──女。余程死にたいと見える」
怒気を孕んだ低く唸るような声。
おお、聞いた通りだ。目と口が開いた。
私は素直に感心していた。お怒りについては、ごもっともだと自分でも思う。虎杖悠仁と両面宿儺が仲良しこよしであるはずがないことはわかっている。こう言えば出てくるかなと確信犯で口にした言葉だったので、怒られるのは想定の内だった。
「いえそういうわけではないんですけど」
「ふん。命が惜しくば軽々な口は控えておけ。俺の寛容は安くはない」
「じゃあこれで許してもらえませんか? かりんとうです。どうぞ」
菓子袋から取り出したかりんとうを一つ、両面宿儺の顔の前に差し出してみる。
すると一つ目が歪んだ。人間の顔であれば額に青筋が立っているだろうと容易に想像のつく、不機嫌を露わにした目付きに。
「あ、そっか。平安時代にはなかったですよね。かりんとうって、揚げたお煎餅に黒蜜とかかけてすっごく甘くしたような感じで……」
「舐めているのか貴様」
第一声よりもいっそうドスの利いた声音に遮られる。
「身の程を弁えろ。怯え、畏怖し、平伏せよ。呪いの恐ろしさを知る呪術師であるならば尚更にだ」
サクサクサク。
両面宿儺の言葉を聞きながら、私は行き場を失ってしまったかわいそうなかりんとうを自ら咀嚼していた。それを見て宿儺の目の瞳孔が開いていくのには気付いていたが、この手のお菓子は食べ始めたら止まらないものなのだ。見逃していただきたい。
「でも、私、別に──」
指に残った黒蜜をぺろりと舐め取りながら、返答。
「あなたのこと、怖くないもの」
「──ケヒッ、ヒヒッ!」
すると宿儺の口が、嫌らしく獰猛な笑みに形を変える。
「成程、道化か貴様。だが道化にしては不愉快だ。殺す」
「そんなあ。私はただ、宿儺さんとお喋りしてみたかっただけなのに」
「いくら戯言を重ねようと結論は変わらん。次に身体の主導権を得た時が貴様の最期だ」
「──ふ、えっくしっ!」
突然のくしゃみが会話を遮った。音の主は本体のほうの虎杖悠仁だ。自分のくしゃみで起きたらしい彼はぐいーっと伸びをして目を開ける。
宿儺の顔はもう引っ込んでしまっていた。
「んあ? 誰?」
「こんにちは、虎杖くん。私、五条悟の妹です。いつも兄がお世話になってます」
「妹っ!? 似てないっすね! こちらこそお世話されてますっ!」
びしっ! と礼儀正しく頭を下げる虎杖くんがおかしくて、私はクスクスと笑ってしまった。
「高専生……じゃないっすよね?」
「もう卒業してるよ。でも時々来てるの。兄さんが報告書やるのめんどいって押し付けてくるから、代わりに書類仕事してるんだ」
今日私が高専を訪れているのも兄の報告書を代筆するためだ。休憩のため校庭に出てきたところ、たまたま虎杖悠仁と遭遇することになった。
「あはは、五条先生っぽいやー」
「頭使うから甘いもの手放せないんだよね。一緒に食べる? かりんとう」
「あざっす! いただきますっ!」
サクッサクッ! 私があげたお菓子があっという間に口の中に消えていく。さすが高校生、食欲旺盛なことだ。
「そういえばさっき、なんか喋ってた? 俺が起きる前」
「ううん。別に何も」
「んー、なんか声が聞こえた気がしたけど」
「楽しい夢でも見てたの?」
「かな。まあいいや」
虎杖悠仁は優しい少年だと兄から聞いている。宿儺による処刑宣告をわざわざ話すことはないだろう。
***
学生たちはとうに校舎をあとにした夕刻。頼まれた報告書の代筆を終えて兄、五条悟のもとを訪れると、彼は椅子にふんぞり返って電話をしているところだった。
仕方がないので扉の横で電話が終わるのを待つ。それじゃ、と兄が気のない声で別れを告げるまでさほど時間は掛からなかった。
「兄さん。頼まれてた報告書、できあがったよ」
「お疲れさま。いやー助かるよ……って、ちょっと待ちなさい」
書類だけ渡してさっさと立ち去ろうとした私の肩を掴んで呼び止める兄。
「まだなにかあるの?」
「任務引き受けてくれない? 明日なんだけど」
「随分急だね」
「それがさ、来るはずだった準一級の呪術師が都合つかなくなっちゃって。呪霊は待ってくれないでしょ? 代打、頼んだ」
「準一級って……そんなの私じゃ祓えないよ」
私の力は知っているでしょ、とジト目を向けてやるのだが、兄はどこ吹く風でチッチッと人差し指を振る。
「だーいじょうぶ。悠仁と同行だから。彼、もう一級並の力はつけてるから任せといて平気、平気」
「じゃあ、私が付き添う意味って……」
「もしもの時のため、ってだけ。いけるでしょ?」
もしも──両面宿儺が出てきたらお前が止めろ。
兄の言葉の裏にある意図を汲み取って、私は小さく頷いた。
「よしよし。よくできた妹がいるとお兄ちゃん助かるなあ」
よくもまあ、白々しい。無遠慮に頭を撫でてくる兄の手を、私はぽいっと払い除けた。
兄はわざとらしく手をさすりながら、これまた作ったように口をへの字に曲げている。
「ひどいなあ。そういうことすると僕の任務と交代させてやるぞ。たまには悠仁の戦うとこ目の前で見てみたいし」
「……一応聞いとくけど、そっちはどんな任務?」
「マグロで有名な港町に潜んでる呪詛師の捜索と殲滅」
「無理。虎杖くんに同行するほうでよろしく」
***
任務先の中学校校舎に現地集合。虎杖くんと共に帳の中へ足を踏み入れる。
校舎の中は呪霊の生得領域が展開された異空間となっていた──これはまだ、想定の範囲内。
前を虎杖くん、後ろを私、という隊列で目的の呪霊を捜索するうち、不意打ちを食らってしまう──これもまあ、褒められたことではないがよくあること。
だが、ここから不運の連鎖が始まる。
相手の術式がよくなかったのだ。脳、あるいは精神に作用するタイプの術式なのだろう。私は呪力による咄嗟の防御が間に合ったから無事だったが、前を歩いていた虎杖くんは術式をもろに食らい、気絶してしまった。
効果的な一撃を加えたことに満足したのか、潜んでいた呪霊が姿を見せる。毒々しい、歪な体躯の大蛇が鎌首をもたげて、二人の獲物に向かって凶悪な牙を剥く。
虎杖くんが目を覚ますまで私が呪霊をいなすしかないか──と、前に出ようとしたところで。
「──図が高いな」
地鳴りのような一言で、その場の空気が凍り付いた。
倒れていた虎杖悠仁の身体がむくりと起き上がり、パンパンと制服についた土埃を払う。
前髪をかき上げる、その顔には黒々と文様が浮かび上がっていた。
「そこの呪霊。特に理由はないが死ね。代わるための縛りが、オマエの始末だ」
冷酷な眼差しに射竦められた大蛇のような呪霊は、巨大な体躯をガタガタと震わせて怯え切っている。
力のある呪霊であろうと、彼が立っているというだけで命が脅かされる。圧倒的邪悪。
「だが、まあ……ケヒッ、ヒヒッ」
嫌らしく口の端を持ち上げて両面宿儺が嗤う。悪辣に細められた双眸が射竦めるのは──私、だった。
「他の術師を巻き込むな、などという縛りは設けていないがな」
次に身体の主導権を得た時が貴様の最期──その状況がこんなにも早く訪れてしまうなどということは、まったくもって想定外だった。