高専を訪れたのは些細な用事を済ませるためだった。今朝から体調が優れないので億劫だったが、もしかしたら顔を合わせることができるかもしれない彼の顔が脳裏をちらつき、私の背中を押した。虎杖くんと代わっていない時の、ぐぱりと頬が開く姿は、それはそれで面白みがあるのだ。
「あれ、来てたのか。お疲れさん」
だというのに、廊下でばったり兄に会うことになるとは予想外だった。特級呪術師は忙しいはずなのにどうしてこうタイミング良く高専にいるのだろう。
「兄さん、書類仕事は来週まで引き受けないから」
「会っていきなりそれ? オマエ僕のことなんだと思ってるの?」
「面倒な仕事押し付けられる便利な相手をいつも探してる……」
「ひっどいなあ。仕事のできる妹を信じてるからだっていうのに」
口を大袈裟にへの字に曲げて肩を竦めてみせる五条悟。白々しい態度にはいつも、なにか含みがあるような気がして必要以上に真意を勘繰ってしまっていたのだが、最近はこれが兄の外での普段の振る舞いなのだと理解していた。
それは兄が教師として虎杖くんたちに接するところを見る機会が増えたためでもあるし、私自身の変化のためでもあるのだろう。以前は常に誰かから後ろ指をさされているような不安が付きまとっていたが、この頃はそれがなくなった。だから兄のことも、色眼鏡なしで見られるようになったのだと思う。
信じているとか、オマエがいると助かるとかの兄の言葉は、以前からそれだけの意味しかなかったのだろう。私が勝手に曲解して、便利な道具扱いされていると思い込んでいただけ。
そういうふうに考えられるようになったのは、私が少しずつ自分自身の価値を認められるようになったから。そのきっかけをくれた、呪いの王のおかげだ。
なんて、兄に言ったら、ひどく顔を歪めるのだろうけれど。
***
軽く雑談をしてから兄と別れ、駐車場へと向かう。だんだんお腹の痛みがひどくなってきた。早く車に乗って帰宅したい。
憂鬱が背中にずしりとのしかかる中、ふと分かれ道の片方から現れた人影に、身体の重りがふっと軽くなるのを感じる。
「あ。おっす、先輩」
「虎杖くん。こんにちは」
自然と頬が緩んでしまう。あまりにも顔を作れないでいると、ふやけた顔を外で見せるなと彼の内側にいる存在に怒られてしまうので、多少は気を引き締めなければ。
と、噂をすれば、というやつか。虎杖くんの頬がぐぱっ、と開いた。
「月のものか」
「ちょ、おま、いきなりなに!?」
開口一番の爆弾投下に、お年頃の高校生が顔を赤らめ素っ頓狂な声を上げる。
「確認しただけだ。顔が白く、前屈みの姿勢で、腹を気にしている」
「それはセクハラっていうんだよ! ダメ絶対!」
「喧しいぞ、小僧。ソレとは今更なにを隠すこともあるまい」
「だーかーらっ、オマエはさらっとそういうことを……!」
二人──見た目には一人だが──のやりとりに、私はクスクスと笑いを漏らしてしまう。いつだったか目にしたのよりも二人の雰囲気は柔らかくなったような気がしていた。
「宿儺、正解。いいよ虎杖くん、私は気にしてないから」
お腹をさすりながら、私は二人の言い合いに口を挟んだ。実のところ、どんどん痛みが増してきて、一刻も早く帰りたい。
「わかっちゃうとは思わなかったなあ」
「ふん。オマエとはそれなりの長い付き合いになったからな」
「そっか……そうだね……」
あの日校庭の片隅でかりんとうを手に話しかけた時から、振り返れば確かに多くの時間を積み重ねてきた。そして、これからもきっと。
どこまで続くかわからないという未来への不安は無きにしも非ずだけれど、一瞬一瞬の大切さは決して損なわれることのない、かけがえのないものだ。
「そういうわけで今日は調子が良くないから、泊まりに来るのは無しにしてもらっていい? また今度、ゆっくりできる時に」
別れの挨拶を告げて、駐車場への歩みを再開する。虎杖くんの姿が見えなくなったところで、身体を折るくの字の角度を深くした。なんだか今回のは、いつにも増して重いみたいだ。
「おい小僧。今の時代、鴨肉はどこで調達できる」
「はあ?」
私が去ったあとに宿儺と虎杖くんはそんなやり取りをしていたようなのだが、当然、私の知るところではなかった。
***
「いや、あの……今日は無しって、言ったよね……?」
玄関ドアを開けたところで、私は途方に暮れていた。
自宅に帰ってきて安心したせいか、生理痛はどんどんひどくなっていたのだ。身体もだるくて動くことすら面倒だったが、不意になったインターホンとモニターに映る見知った少年の顔は無下にできなかった。
「ごめん先輩、こいつがどうしてもって言うから」
近所のスーパーの買い物袋ともう一つ、高級食料品店の紙袋を手に持った虎杖くんが、頬を指差しながら困り顔で言う。
「小僧、いいから早く上がれ。代わるぞ」
「ここオマエんちじゃないんだけど!?」
「……まあ、いいよ、上がって」
買い物まで済ませてきたのに追い返してしまうのは、傍若無人な王様と自分の良心との板挟みになった虎杖くんがあまりにもかわいそうだ。
すんません、と言いながら靴を脱いで廊下に上がる虎杖くん。するとその顔にすうっと紋様が浮かび上がって、顔つきは剣呑なものに変化する。
「オマエ、夕食はどうするつもりだった」
こちらを睨み付けて、開口一番にそんなことを聞いてくる。世間話のような質問と顔とがまったく合っていない。
「……適当に、済ませようと」
「ふん。どうせ抜くつもりだったのだろう」
言い当てられて、妙に座りが悪くなる。支度するのが面倒だしお腹も痛いし、帰る前に出来合いのものを買ってくれば良かったのにそれも失念してしまっていて、適当にお菓子でもつまんで寝てしまおうかと思っていたところだった。
宿儺は我が物顔で買い物袋をキッチンに運んでいく。
「邪魔だ。向こうで大人しくしていろ」
「……作ってもらっても、お腹痛くて食べられないかも」
「オマエの都合など知ったことか」
溜め息をつかれて、私はすごすごとリビングに戻った。
身体を丸めてソファでうずくまる。腰は中に鉛が入っているように重いし、締め付けられるように痛いし、全身の倦怠感もどうしようもない。女性の身体の構造上仕方ないとはわかっていても、耐えるしかないこの数日間のことを思うと果てしなく気が滅入る。
唯一の救いは、キッチンから鰹だしのいい香りが漂ってくることだ。誰かが自分のために世話をしてくれているという状況は、それだけで心が安らぐ。ましてやそれが、私にとって唯一無二の存在であるのだから尚更だ。
「血が足りんのなら、牛の内臓でも食っておけば良いのだがな」
使い慣れた私の家の鍋をかき混ぜながら、宿儺が声をかけてくる。
「今、ホルモンなんて食べられないよ」
「選り好みなど、贅沢なことだ」
「仕方ないじゃない……」
「ふん。まったく面倒なものだな。血の気は失せて目合いもできぬとは、面白みがまるで無い」
「じゃあなんで今日来たの……?」
「……」
返事はなく、代わりにコンロの火を止める音がする。
「そら、これでも食っておけ」
キッチンからリビングに戻ってきた宿儺は、ほかほかと湯気を立てるどんぶりを二つ手にしていた。
ローテーブルに並べられたのは鴨ねぎうどんだった。ツヤのある鴨肉と焼き色のついた長ねぎの上に三つ葉が散らされ、見た目から無いはずの食欲を誘い出してくる。なにより鰹だしのいい香りにほっこりと安心させられて、これなら食べられそうだなと思わされてしまうのだ。普段より少なめの量で盛られているのも良かった。
「ありがとう……」
口ではなんだかんだと言いながら、こちらの体調に合わせた食事を用意してくれたことに、素直な感謝の言葉が滑り出てきた。そもそもこうして世話をされていなければ録な食事を取れなかったのは明らかだ。そう思うと、多少の憎まれ口は水に流すべきだと思ってしまう。
ソファから転がり落ちるようにしてラグに座る。ローテーブル越しに宿儺と向かい合う。
「いただきます」
両手を合わせながら宿儺の顔を盗み見る。眉間のシワに、それでいい、と書いてあった。
鴨ねぎうどんのおかげで身体が温まったからか、少し楽になってきた。いつもなら私の役割になっている洗い物は宿儺がなにも言わずにやってくれた。
私からはなにも返せないのにこんなに世話を焼いてもらって良いのだろうか。ソファの上で膝を抱えている私のもとに、キッチンの片付けを終えた宿儺が戻ってくる。
「具合は」
「さっきより、いいよ」
「そうか」
短く応え、私の横にどかりと腰を下ろす宿儺。
「来い」
「ひゃっ!?」
宿儺は丸くなっている私をボールかなにかのようにひょいと持ち上げ、足の間に私を座らせてしまった。私のお腹にはがっしりと腕が回され、背中は宿儺の胸板にくっついてしまう。
かぷ、と耳の先を柔く噛まれる感触がした。
「ちょっ……」
「つまらんな。実につまらん」
「待っ、今日、は……!」
「わかっている」
私の耳を弄ぶのを適当なところで切り上げた宿儺はため息をつきながら、頭の上に顎を乗せてきた。
「使いもしない血を胎に集めては捨て、集めては捨て、まったく無駄なことだ」
「それはむしろ私が言いたいんだけど……」
「オマエもそう思うなら、いっそ使ってしまうのも一興か?」
ケヒヒ、と含み笑いが降ってくる。
大きな手が、服の上からゆっくりと私のお腹を撫でた。円を描くような動きに宿儺の言わんとしていることを理解した私は、瞬間的に耳まで真っ赤に染まってしまった。
「や、待っ、そん、えっ……!?」
「ケヒヒヒ! そう取り乱すな。考えておけ」
今度は片手で頬を挟まれ、ぐに、と潰される。やめてほしい。そんなことをしたらどうしようもないほど湯立った顔の熱さがバレてしまう。
まさか宿儺の口から未来の話が出るなんて思ってもみなかった。横暴で荒々しいところが目立つが、意外にも内面は思慮深くて、執着心と表現するのがしっくりくるような情も備えた彼のことだ。遊びで子を作ってぽい、ということは無い……と信じたい。
私の一部を宿儺が食べて、宿儺の一部を私が食べて。互いの存在がかけがえのないものとして噛み合って、くっついて。満たし合う温かいものが溢れ出て、もう一つの温もりを生み出すような──そんな未来が、いつか訪れたら。
その日々はきっと、温かな光に満ちている。
2021/5/23
紆余曲折ありまくり生死の境を綱渡りした末に幸せになる二人、というのが私の大好物なので、めいっぱい殺伐をやったあとはめいっぱい甘く幸せにしたくなります。そんな願望を詰め詰めにしてみました。