カーテンの隙間から差し込む朝日が爽やかな目覚めを促す。私は大きく伸びをして身体を起こした。
 一人で使うベッドは広々としていて少し寂しい。もとは一人用だったというのに宿儺と寝るようになってからは、窮屈で温かい空間がすっかり居心地よくなってしまった。

 新調したばかりのソファとラグマットを通り過ぎてユニットバスへ。顔を洗ってしっかり目を覚ました私はキッチンへ向かう。冷蔵庫から取り出すのは、夜の間に食パンを卵液に浸しておいたバット。宿儺が泊まっていかない日もおいしい朝食が食べたいと、作り方を教えてもらったのだ。

 バターを溶かしたフライパンで、たっぷり卵液が染み込んで重くなったパンを焼いていく。片面に焼き色がついたらひっくり返して蓋を閉じ、弱火にする。
 蒸し焼きにしている時間を利用してレタスを千切ってトマトを切る。宿儺が用意してくれるサラダはもっと豪華だが、一人ならこんなもので良いだろう。

 できあがったフレンチトーストにたっぷりのはちみつをかけて完成。好きなだけ甘くできるのも一人の特権だ。あとからはちみつの量が随分減っていると溜め息をつかれるのはわかっているが、それはそれ。

 スティックタイプのカフェオレをお湯で溶かして、お皿と一緒にローテーブルに並べる。
 テレビは付けない。丁寧に、いただきます、と手を合わせる。我ながら、ここにいない人間に合わせた生活習慣が身に沁みついているものだ、と思う。そのことに悪い気はしないし、むしろ根拠のない安心感が心の奥底に広がっているように感じられる。

 フレンチトーストは一晩漬け込んだだけあってモチモチしていてなかなかの出来映えだと思うが、やはり宿儺が作ってくれたほうがずっとおいしい。材料の分量も焼き時間も言われた通りにしたのに違いがでるのは、火加減の調節が若干異なるためだろうか。
 それともベッドと同じで、二人で食べるとごはんもよりおいしく感じられるのかもしれない。宿儺もそう思って私の傍にいてくれていたらいい、と考えたら、どうにも頬が緩んでしまった。部屋に誰もいなくてよかった。

「……ごちそうさま」

 朝食をしっかり取ると身体中にエネルギーがよく廻る。任務に出かける下準備としては申し分ない。

 呪霊を祓う力はさほど無いが自衛に特化している私には、主に脅威度不明の目標の偵察任務が与えられる。目的地に向かうため、呪具を入れたケースを担いでマンションの一階にある駐車場へと向かった。

 出入口付近の駐車スペースでない場所に見慣れない車が停まっているのを、おや、と見遣った時だった。目の前で突然車のドアが開いて、現れた黒ずくめの人物に車内へ押し込まれると、スタンガンを押し当てられて私は気を失ってしまった。


***


「虎杖。アンタ、私達に黙って変なことに首突っ込んでるんじゃないでしょうね」
「え? 俺?」

 虎杖が自販機の前で飲み物を選んでいると、いつの間にか釘崎が横にいて、きつい視線を送ってきている。

「とぼけんなよ。ここんとこ外泊多すぎだし、伏黒が五条先生に聞いてみてものらりくらりかわされたって言ってたし。なに? 五条先生の妹さんってのが、なんなの?」
「えーっと、それ知ってんのに先生説明しといてくれなかったの?」

 ここにはいない担任教師への非難を込めて、虎杖はがしがしと頭を掻いた。これまで外泊先で特に問題は起きていないしまあいいか、と自分を納得させ、口を開く。

「宿儺がさあ、先生の妹に会いに行けって言うんだよ」
「なにそれ?」
「わからん。二日と空けずに訪れろー逆らえば一日ごとに百人、次に代わった時にその状況に関わらず無差別に殺してやるーっとかって」

 低い声音を作っておどけてみる。自分の中に巣くっているもう一人からなにか文句を言われるかと、目の下辺りに注意を向けてみるが、宿儺の目や口が開くことはなかった。

「で、会いに行ってなにしてんの」
「……料理教室?」
「はあ?」

 釘崎がすっとんきょうな声を上げるのを、虎杖はうんうんと肯定した。俺もなに言ってるかよくわかんない、と。

「最初のうちは俺も、代わってる間のことちゃんと見張るつもりだったんだけどさ。なにかするつもりじゃないかと思って。でもなんか……フツーなんだよな。飯作って、食って、本読んだりテレビ見たり」
「なんか……思ったのと違うわね」
「だろ? しかも最近は宿儺が先輩に料理教えたり、それだけじゃなくてなんとなーく距離が近くて。先輩もちょっと嬉しそうな感じで……恋愛ものの映画見てる気分なんだよね。ちょい恥ずかしくって、正直、代わってる間はほとんど寝てます」
「待って。ねえ、それ……」

 釘崎は難しい顔で、ぎゅっと寄せた眉間を指で押さえる。

「付き合ってんの?」
「いや、俺も聞きたいってそれ」
「聞けばいいでしょうが」

 ん、と顎で虎杖の頬の辺りを示す釘崎。

「おま……勇気あんなあ。どーなの? 宿儺」

 呼び掛けて少し待ってみるも、応答は無い。

「無視? 自分は勝手に出てくるくせに……おーい、宿儺?」
「つまんないわね。せっかく面白そうな恋バナができそうだったのに」
「恋バナ、かあ……」

 虎杖は自販機前のベンチに腰を下ろして、なんとはなしに空を見上げた。嫌味なほどに澄みきった青空を、鳥の影が横切っていく。

「どうしたのよ、アンタ」
「なんか、フツーだなあって」

 釘崎が訝しげに首を傾げる。虎杖自身にも思いがうまく言語化できているわけではない。慎重に言葉を選びながら、ぽつりぽつりと語る。

「宿儺って、悪い奴なんだよ。それは俺が一番よく分かってる。すぐ人殺そうとするし、性格歪みまくってるし、呪いそのものなんだ。でもそれが、あいつの全部じゃないんだな……って、最近思う」
「案外いい所もある、って? 相手は千年封印されてた呪いの王よ?」
「そこまではいかないけど……ただ、あいつも飯食うんだなあって」

 呆れ顔の釘崎がくれた相槌のおかげで、だんだんと考えがまとまってくる。
 実際、いい所もあるのかもしれない。見ようによっては。
 けれどそれを見出す役は、自分ではない。虎杖悠仁と両面宿儺は決して和解することのできない相反する存在だ。その役をこなすべき人物は別にいて、宿儺はきっと、それを見つけたのだ。

「飯作って食って、風呂入って寝て、しかも彼女っぽいのもいてさあ。そういうのもできるんだって思ったら……そういうののためなら身体貸してやってもいいのかな、って」
「バーカ。お人よしなのよ、アンタは」
「てっ」

 軽い拳骨を額に食らう。あまり痛くはなかったが、より本気の拳を食らう前に反応したのは身体に沁みついた条件反射だった。

「まあとにかく、なんかヤバいことになってるんじゃなくてよかったわ。あとで伏黒にも説明しときなさい。心配してたんだから」
「おー……っと、わりぃ、ケータイ鳴ってるわ。もしもし」

 着信音とバイブレーションを賑やかに鳴らすスマホをポケットから取り出して耳に当てた虎杖は、相手の第一声を聞いて首を捻ることになった。


***


 気が付けば私は、両手両足を縛り上げられて固い木の床に転がされていた。ほこりとカビのにおいが鼻につく。壁板の隙間からは潮の香りがする隙間風と、微かに波の音が流れてきていた。

「……っ」

 私の額に嫌な汗が滲むのには十分すぎる条件が整っていた。つい最近も夢に見たばかりのせいか妙にはっきりと思い出してしまう、遠い過去の日の出来事。私の心に根深く突き刺さった呪い。

 狭い小屋の中で私を見張っていた黒ずくめが戸を開けた。入ってくる人影に一瞬、記憶の中の顔が重なるが、すぐに幻影は掻き消える。私を捕らえた首謀者らしき男はまったく見知らぬ顔だった。

「お前の兄、五条悟を呼び出せ」

 端的に用件を告げた男が床に放ったのは私のスマートフォンだった。次いで男が呼び出し場所として告げた地名から、ここが兄が以前呪詛師の討伐のため訪れた港町の付近であることを知ることになる。
 となると私を拘束している連中は呪詛師の生き残りだろうか。その割には呪力を感じないが……。

「生憎だけど、私が助けてと言ったところで、兄は来ない」
「ならば呪霊が出たとでも言えばいい。我々は頼んでいるのではなく、命令をしている。お前に選択肢は無い」

 男は私に近付き膝を折ると、私の腕を拘束していた縄をナイフで切った。スマホを操作させるためだ。
 すかさず、私は自由を得た両手で印を切る。首謀者らしき男と見張りの両方を影縛りの術式で拘束し、逆に人質として逃げる算段だったが──術式が、発動できない。

「二度言わせるな。選択肢は無い」

 感情を感じさせない、冷ややかな男の目が私を捉えた。直後、ナイフが閃く。

「ぐ、うっ……」

 太ももに肉厚の刀身が突き立てられ、顔を歪めた。脚の太い血管を避けているため致命傷にはならず着実に痛みのみを与える、私の人質としての価値を保ったまま従わせるために無駄の無い一突きだった。
 偶然にできることではない。私を捕らえた男はそれだけの技量を持っている。必要ならば何度でも同じことができる、と言外に述べている脅しなのだ、これは。

 術式が使えない上に、呪力による防御もままならない。この場にいる二人とも、呪詛師であるからには相応の呪力を持っているはずなのに、私にはそれを感知できない。
 おそらくは周囲一帯の呪力を制限する、術式か呪具かを用いているのだろう。その効果範囲内に五条悟を誘い込むことが彼らの勝算であり、私はそのために利用されようとしている。

 そして、人の命を奪うことになにも思うところなど無いような冷たい目をした男は、私に利用価値が無いとわかればいとも容易くナイフを私の心臓に突き立てるだろう。
 今の私にできることは、悔しいが男の言う通り、たった一つしかなさそうだ。

「……わかった。兄を呼ぶ」

 私は一度両手を上にあげて降伏の姿勢を示し、床に落とされていたスマートフォンを手に取った。

「もしもし兄さん。私。今ね、兄さんが前に呪詛師討伐の任務で行った港町に来てるの」

「そう、お土産にマグロ買ってきたところ。マグロといえば、包丁の正しい使い方教えてもらったね。ちゃんと覚えてるよ」

「本題なんだけど……呪霊が出たの。特級相当で、取り巻きもいくつか」

「この前の任務、本当に対処すべきだったのは呪詛師じゃなくて呪霊のほうだったのよ」

「そういうわけだから応援お願い」

「私の救助は……大丈夫。気にしなくていいから」

 通話を終了すると、男が私の手からスマホを取り上げた。画面に表示されていた『五条悟』の文字を確認して頷き、再び床にスマホを置く。

「五条悟から連絡があれば応じ、確実に奴をおびき寄せろ。それ以外では触るな。……おい」

 男が見張りに目で合図すると、縄を持って近付いてきた黒ずくめがもう一度私の腕を拘束した。兄からの連絡があれば見張りが縄をほどく手筈なのだろう。
 男はナイフを手に小屋を後にする。刃物一本に命を握られているのが、私には不快で堪らなかった。


***


「どうした? 虎杖」

 電話に出てからというもの、奥歯にものが挟まったような顔をしている虎杖に、釘崎が怪訝な顔を向ける。

「間違い電話、かな? ちょうどさっき話してた先輩からだったんだけど、五条先生に話してるみたいな感じでさ」
「ふうん。間違いですよって、一言送っとけばいいんじゃないの?」
「それが緊急っぽかったんだ。呪霊がたくさん出て、特級もいるって」
「はあ!? だったら早く五条先生に……って、今あの人出張中だったわ。伊地知さんか誰かに連絡してみて、手の空いてる術師がいるか……」
「馬鹿か。餓鬼どもが」
「あぁん!? 今なんつった!」
「釘崎抑えて! 宿儺! 今の宿儺だから!」

 声を遮られ、あまつさえ罵倒されて即座に沸騰しかける釘崎をどうにかなだめ、虎杖は頬にぐぱりと開いた目と口に意識を向ける。

「なんだよ宿儺、呼んでも出てこねえくせに」
「俺が小僧ごときに応じる義理がどこにある。──代われ、小僧」
「無理。こんなとこで代われるわけないだろ。どうしたんだよ、急に」
「愚鈍めが。アレは俺に呼び掛けていた」
「……先輩のこと? なんでそうなるんだよ」
「包丁の使い方、と言っていただろう。教えたのはあの術師ではなく俺だ」

 言われてみれば、と虎杖は記憶を掘り返す。宿儺が料理を教えているところなら交代中に少し見ていた。途中で妙に気恥ずかしくなって見るのをやめたが、確かに先輩と宿儺が包丁を握っていたのは覚えている。

「アンタに話してたんだとして、なんで五条先生に話してるふりなんかするってのよ」

 無謀にも宿儺相手に口を尖らせる釘崎。
 確かにそうだ、と虎杖も感じる。宿儺に話し掛けていたのだとすると、違和感ばかりが残る。

 ──包丁の使い方、ちゃんと覚えてる。

 包丁。宿儺はなんと言って教えていた?
 確か──力を入れるタイミングが逆だ、と。
 逆。

 ──呪霊が出た。
 ──呪詛師じゃなくて呪霊に対処するべき。

「呪霊は出てない……呪詛師に捕まってるんじゃないか、先輩!?」

 内容を逆の意味で捉えてほしいというメッセージを、一か八か宿儺にだけ伝わるようにして送ってきた。会話の相手を五条先生だと偽っていたのは、傍で誰かに聞かれているから。だとすれば、かなり差し迫った状況に陥っているのだということは想像に難くない。

「理解が遅い。脳の代わりにおが屑でも詰まっているらしいな」
「うっせーな。てことは先輩、助けを呼ぶために、オマエに……?」

 ──救助はいらない。
 震える声で言っていた、あれはつまり。
 ──助けて、宿儺。

「乞われれば応じる。アレとはそういう縛りを結んでいるのでな」
「なんだよそれ……いつの間に」
「構うな。単なる暇潰しだ。さて──理解は済んだろう、小僧。代われ。無関係の人間に手は出さん、という縛りは付けてやる」

 虎杖の頬に開いた口がにやりと口角を上げる。ぎょろりと剥いた目は釘崎を向いていて、それに対して釘崎はケッ! と喧嘩相手にそうするように威嚇している。
 頼むからあまり煽らないでくれと釘崎に目線で訴えつつ、虎杖は考える。

 やはり宿儺は邪悪だ。虎視眈々と周りの命を狙っている。おいそれと身体を使わせることは許されない。
 でも、きっと。今の宿儺は──

「わかった。……信じるぞ、宿儺」
「──ケヒッ、ヒヒッ!」

 虎杖が神妙に頷けば、嘲りを露わにして宿儺が嗤う。

「信じる、だと? 小僧、なにを勘違いしている。俺とオマエの間にあるものは利害を秤に乗せた縛り、ただそれだけだ。信頼などと虫唾が走る」
「あーそうかよ! ったくもう……。でも、先輩が言ってた場所までは俺が行くぞ。オマエ電車なんか乗れないでしょうが」
「おい。私も行くからな」

 それまで傍観していた釘崎が、腕を組んで虎杖を睨み付けている。

「釘崎、あぶな……」
「危ない、とか言うなよ。宿儺絡みなら下手に誰かに頼れないってのはわかるけど、私くらいいいだろ? 一人で抱えんな、馬鹿のくせに」
「……サンキュ。ってわけだから宿儺、あっちに着いて、釘崎と離れてからオマエに代わる。あと縛りは、誰も殺さない、だ。呪詛師が相手でも殺すな」
「ぬるい。これだからつまらんのだ、オマエは」

 はーウザ、と大袈裟に吐かれた溜め息は了承と解釈し、会話を打ち切る。
 虎杖は釘崎と頷き合って、共に校門へと駆け出していった。


***


 壁板の隙間から差し込む日光が弱くなってくる。そろそろ夕暮れの時間帯だろうか。
 頭がぼうっとしてくる。朝食以外なにも口にしていないからだ。一般的に人は飲まず食わずでも数日は生きられるというが、体質の関係でエネルギー消費の激しい私の身体にもそれが当てはまるかどうかは甚だ疑問だ。
 
 思考が霞むままに気を失うことを許してくれない程度には、ナイフで刺された脚の傷がズキズキと痛む。大した痛みではないはずなのだが、他に気を逸らすことのできない状況ではどうしても意識が向いてしまう。
 そんな状況の中で私は、死にたくないなあ、と取り留め無く考える。

 そうだ、私は死にたくない。今死ぬことが恐ろしい。
 一か月ほど前の私だったらきっと、唐突な人生の幕切れをあっさりと享受していただろう。呪詛師の命令を蹴って刺されているか、はたまた指示通りに兄に助けを乞うていたか。
 呪力を抑制する仕掛けを施したところで、呪詛師が五条悟に敵うはずもない。効果範囲外から術式で吹き飛ばせば一網打尽だ。ただしその場合、呪力による防御ができない状況に陥っている私は、呪詛師もろとも無下限呪術に圧殺される。過去にそうであったように、兄はそれを躊躇いはしないだろう。呪詛師の命令を聞いても聞かなくても、私はここで終わってしまうのだ。

 生き残るためには、兄以外の人物に助けを求めるしかなかった。
 いつぞやの夢での光景が脳裏に閃いて、そうするべき相手はたった一人しかいない、と感じた。
 私がただの私として生きていることに価値を認めてくれた人。宿儺。
 彼に、私のメッセージは──生にしがみつくための足掻きは、伝わっただろうか。

 呪詛師を欺いて虎杖くんに──その先の宿儺に声を届ける。兄のイタズラによって虎杖くんの連絡先の表示名が『五条悟』に変わっていたからできたことだった。私の命はほんの偶然によって首の皮一枚繋がっている。

 脚の傷は熱を持ってじんじんと疼くし、身動きがとれないせいで体中が痛い。全身が飢餓感を訴えて、もう頭が回らない。そのうえ、恐怖と不安と無力感が無慈悲に圧し掛かってくる。
 辛い。とても辛い。心臓を一突きにされていたほうがきっと楽だ。
 それでも私は死にたくない。生きていたい。
 遠い過去の日に消え去ったはずの生きていることの実感が、今は強く私の胸に芽吹いていた。
 まるでそれ自体が呪いであるかのように、生きることが辛いのは当たり前だ。私のこの、生きることへの執着は、呪いの王が刻み込んだものなのだから。

「あ……」

 不意に自分の身体へと訪れた変化に、私は細く声を上げていた。呪力が戻っている。呪詛師が講じた罠が解除されたのだ。

 次いで小屋の入り口から物音が響く。どうにか身体をよじってそちらを見遣れば、見張りをしていた黒ずくめの男の身体が宙に浮いていた。
 片手だけで見張りの首を掴んでいるのに、男の靴底が地面から離れるほどの高さに易々と持ち上げている──片腕をポケットに突っ込んだ、その制服は呪術高専のもの。
 ぱっ、と手を離されて、男の身体が崩れ落ちる。締め上げていた時間はほんの数秒だった。失神しているだけだろう。

 ──本当に、来てくれた?
 床に転がされた体勢では制服姿の首から上が視界に収められない。
 逸る心音への答えは──術式によって示された。
 キンッ、と研ぎ澄まされた金属音。次の瞬間、不可視の斬撃が私の手足の拘束のみを器用に断ち切っていた。肌すら撫でることのない、あまりにも優しい呪いの力だった。
 手のひらを床につき、脚の痛みを無視してなんとか身体を起こして、彼を見上げる。

「……す、くな」

 この場所に転がされてから何度も胸に思い描いた、文様に彩られた酷薄な眼差しがそこにある。
 いつものように睥睨されたというだけで、私の中で張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまった。

「すくな……すく、なぁっ……!」

 安堵と、嬉しさと、今更になって膨れ上がってきた恐怖とがない交ぜになって、目の奥がどうしようもないほど熱くなる。みっともなく涙を浮かべて滲んだ視界の中で、彼が身を屈めて近付いてきたのがわかった。
 ナイフによる刺し傷が温かいものに包まれ、痛みが遠のいていく。卵を抱く親鳥のような、反転術式の温もりだった。

「拾いに来てみればなんだ、その無様な成りは」
「う……だって、怖くて……」

 ぼろぼろと落ちる涙は、いくら手で拭っても留まるところを知らない。一緒に情けない言葉までもが溢れてきてしまう。

「私……怖くて、辛かった……もうあなたに、会えないんじゃないかって……」
「やかましい。もう黙れ」

 宿儺は吐き捨てるようにそう言って、私の顎を掴んで顔を持ち上げる。苛立たしげだった口調とは裏腹に、穏やかに触れるだけの口付けが落とされた。
 それが止めどなく溢れていた涙と弱音に栓をした。大荒れに見舞われていた心に、瞬く間に凪が訪れる。

「俺ではないものから植え付けられた恐怖など、疾く捨て去れ」

 低く落ち着いた声音は恐怖とは正反対の安心感をもたらしてくれる。
 つい数秒前まで泣きじゃくっていたというのに、私は力なく笑うことすらできていた。

「じゃあ……私もう、なにも怖くなれないよ」
「は。言うではないか」

 満足げに口角を上げる宿儺。その笑みは私の中のなにかも満たす。
 私を私のままに認めてくれたひと。私が生きていたいと思った場所。
 呪いの腕に包まれることの温かさを、他の誰もが認めなくても、私だけは知っている。


20210403

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