食器類は自然乾燥派だ。洗ったあと水切りかごに置いておけば、朝の食器は帰宅時には、夜の食器は翌朝には、すっかり乾いていてそのまま食器棚に収納できる。
 わざわざ食器に残っている水滴を拭うひと手間をかけてまで夜のリラックスタイムに食器や調理器具を片付け始めたのは、宿儺のもとから離れるための口実を他に思い付かなかったからだった。

 先程の猛烈な怒り。
 あれはもしかして──図星だったのだろうか。
 邪悪を煮詰めたような性根を有する呪いの王でも、やっぱり一人きりの食事は寂しいのかもしれない。
 食べることは生きることの礎だと、宿儺は言った。食卓を囲う相手がいないということは、たった一人で生きてきたということなのだろう。畏怖され、憎悪され、敵意を向けられ、それらすべてを捻じ伏せて嗤うことの孤独。私のようなつまらない人間がそれを推し量ろうとするのは、彼の矜持を傷つける行為だったかもしれない。

 もう一度、ちゃんと謝るべきだろうか。それとも蒸し返さないほうが良いのか。
 悶々としながら片付けをしていたせいで手元が疎かになっていた。

「いたっ!」
「なんだ、騒々しい」
「……ちょっと、指を切っただけ」

 うっかり包丁の刃に指先を擦ってしまった。浅い裂傷からじんわりと血が滲んでくる。

「ふん。反転術式なぞ使わんぞ」
「それはまあ、このくらいなんでもないし」

 ソファでふんぞり返っている宿儺が、苛立たしげながらもいつもと同程度の不機嫌さで声をかけてくることにほっとした。
 先程の一連のやり取りは彼の中では過ぎたことになったらしい。ならば私もそれに則り、普段通りに振る舞うのが正解だろう。
 引け目がなくなったので安心してリビングに傷口を押さえるためのティッシュを取りに行くことができる。

 そこでふと思い付いたことがあり、私は怪我をした指を宿儺に向けて差し出してみた。

「食べる?」

 ほんの冗談のつもりだったのだ。いつも通りの。険悪になった雰囲気を少しでも普段の静かで穏やかなものに戻したいという打算もあった。
 まだオマエは殺さない、と溜め息交じりに突き放されるだろうと思って口にした言葉。
 しかし宿儺は押し黙ったまま僅かに眉を寄せてこちらを見据えるばかり。

 また怒らせた? なぜ?
 戸惑っている間に、指の傷から滲む血が小さな珠を形作っている。
 拭かなくちゃ、とティッシュを取りに向かおうとした時だった。

 宿儺が静かに動いた。
 こじんまりとしたワンルームマンションは様々なものとの距離が近いのが利点だ。それは、ベッドのヘッドボードに置いてあるティッシュ箱に伸びた手を、ソファの上からでも捕まえられるという点にも当てはまるのだった。
 宿儺は掴んだ私の手をぐいと引いて──無造作に開いたその口で、ぱくりと、咥えてしまう。

「っ……!?」

 私は咄嗟に手を引き戻そうとしたが、強い力で掴まれてしまっていて抵抗は許されない。
 宿儺の口内で、指の傷口を彼の舌が無遠慮に舐め上げた。ピリリと強い刺激が走る。思わず震える吐息が漏れた。

「んっ……」

 それだけでは終わらない。指の腹を丹念に何往復も行き来したかと思えば、向きを変え、今度は手の甲を指先から根元に向かってゆっくりと舐め上げる。戯れるように指と指の間を刺激され、私は肩をビクつかせてしまう。

「ひ、あっ……」

 隣の指に標的が移る。そちらは怪我などなにもしていないのに、舌を這わされた場所がじんと痺れるような感覚になる。
 同時に、なにかが背筋からせり上がってくる。先程から身体が言うことを聞かず、刺激に翻弄されるまま小刻みに跳ねてしまう。

「す、くな……?」

 呼び掛ければ、手を蹂躙する動きは止めないままに宿儺はちらりと私に目を向けた。上目遣いのようになった視線は──獲物を前にした肉食獣のそれ、だった。

「いっ……!」

 指の根本。ガリ、と強く歯を立てられた。噛み千切られたのでは、というショックに思わず膝の力が抜ける。
 そのまま床に引き倒されて、宿儺が馬乗りになって私を抑え付ける。

 手は──一本欠けているかと思ったそこは、まだ私の形を保っていた。指の根本には歯形がくっきりとついた鬱血痕。まるで指輪のようだと思ってしまった。痛みと、そのせいだけではない熱が、赤紫の装飾に集まっていく。

「望みは聞いてやらねばな。そういう縛りだ」

 妖しく笑みを深める宿儺が、随分と艶めいて見えるのは、私の頭がおかしいからだろうか。
 危険だ。頭の片隅が警鐘を鳴らしているのに、目を奪われてしまう。逃げるとか抵抗するとか、当然あるべき選択肢を除外してしまう。

 宿儺が覆い被さってくる。首筋に顔を寄せ、狙いをつけるように舐められたあと、容赦なく噛み付かれた。

「は、あっ……!」

 肌を突き刺される痛みより、身体の芯に響くような痺れが勝ってしまって、震えと共に吐息が漏れる。

「は……甘い、な」
「す、くな……」
「オマエが好む菓子より、ずっと甘い」

 甘すぎて口に合わないって言っていたのに。
 彼の唇についた紅を舐めとる舌の動きがどうしようもなく妖艶で、無駄口を挟む暇も無い。
 じん、と疼くような熱が生まれる。指の歯形に、首の傷に、そして身体の真ん中にも。

 私、こうやって、宿儺に食べられて死ぬんだ。
 ぼんやりした頭でそんなことを考える。
 やっぱり怖くはない。いつか殺されるのは決まっていたことだった。宿儺の気まぐれでそれが今になった、ただそれだけのこと。
 むしろ──私は待っていた。この時を。
 痛いのも辛いのも覚悟していた。喉が潰れるほど悲鳴を上げるなんてどれほどのことだろう、と心構えもしていた。それなのに──

「あ、ん、んんっ……!」

 首筋をなぶる歯と舌からは強い刺激を、服の裾から侵入して素肌の上を滑る指からは弱い刺激を、絶えず与えられて溺れそうになる。
 時折思い出したように鋭い爪の先に肌を引っ掻かれて、その度に魚のように身体が跳ねた。
 いつ喉笛を噛み破られるとも、腹を裂かれるともわからない緊張すら、鼓動を加速させる促進剤でしかない。

 いたい、が、きもちいい。倒錯の渦に堕ちていく。
 こんな、全身を熱に浮かされて、わけがわからなくなっているうちに、この人の血肉になって死ぬなんて──悪くないどころか、恵まれた死に方ではないだろうか。

 どろりと身体中に絡みついて離れない倒錯と快感。いけないことだとわかっているのに止められないそれは、まさに呪いだ。私はもう解呪できないところまで足を踏み入れてしまっているのだ。
 私は考えることを止めた。宿儺が与えてくれるものを全霊で受け止めるために、正気でいるのがもったいなかった。


***


 温かな水に包まれているような感覚がして、私は瞼を開ける。母親の胎内に戻ったか、もしくは天国にでも辿り着いたかのような心地だった。
 現実はそのどちらでもなく、背を丸めて横になっている私の目の前には、黒々とした文様が彩る厚い胸板が横たわっている。

 暗い室内は間違いなく私の部屋で、カーテンの隙間から漏れてくる僅かな明かりが、現在は夜中の時間帯であることを告げている。

「……?」

 合点がいかない。
 首を触る。くっついている。腕。二本ある。指。欠けていない。胸、腹。穴は無い。脚。無事。

 手を握ったり開いたり、身体中をペタペタ触ったり、最後に脚をバタつかせたところで、横から盛大な溜め息が聞こえた。

「騒々しい。起きるにしても静かにできんのか」
「な、なんで生きてるの、私」

 がばり、と身を起こす。一糸纏わぬ素肌が晒されることへの羞恥は部屋が暗いこともあって一先ず横に置いておくことにした。あんなこともあった後だし。
 先程までベッドの上で横たわっていた私の身体が、五体満足どころか傷一つないことのほうが、余程重大な問題だった。

「首、噛まれたよね? たくさん」
「噛んだな」
「お腹も……このへん? 穴開けられた気がするんだけど」
「臓器は避けた」
「指も折られたの覚えてる」
「あれは小気味良い音が鳴ったな」
「最後、腕、もがれたと思うんだけど」
「……チッ。とうに錯乱したかと思いきや、意識が残っていたか」

 苦々しげに呟いて宿儺はふいと顔を背ける。
 つられて床のほうに視線を向ければ、殺人事件の現場かと思うような惨状が広がっていた。

「……うわあ」

 真っ赤なラグマットは処分するしかない。ソファカバーも同様。中まで染みていたらソファ本体ごと取り替えだ。それから床。フローリングの汚れが取りきれなかったらどうしよう。『窓』経由で特殊清掃の手配はできるだろうか。
 思考が勝手に現実逃避していくような惨状が物語るのは、宿儺が獣のようなギラついた眼で高笑いを上げ、私の身体を二重の意味で蹂躙したのは、紛れもない事実だということだ。

「……殺すつもりだったんでしょ? なんで治したの?」

 目覚める前に感じた、温もりに包まれるような感覚は、宿儺が用いた反転術式の気配だったのだろう。
 自分がズタボロにした女を自分で治すなんて、なぜ、そんなこと。

「私は、宿儺に食べられて死ぬなら、それでよかったのに」

 まだ彼の言う生への執着とやらが足りなかったのか。それとも、梯子を外されたことへの落胆も含めて彼の楽しみの一つになっているのか。
 俯いていると、再び盛大な溜め息が聞こえてくる。

「なにやら勘違いをしているようだが、人の肉なぞ好んで食わんぞ」
「え、だって……」
「かつては必要があったからそうしたまでだ。呪いの力を高めるのに人食いの箔が付くのは都合が良かった。そうでなければ処理のできる者を調達してまで食わん、あのような不味いもの」
「じゃあ、あの、さっきのは……」

 私は首に触れ、もうそこには無い傷口を撫でた。

「些か興が乗り過ぎただけのことだ。オマエが飢えた雌犬のような顔をするのでな」
「い、いぬ……!?」
「自らが飢えていることにも気付かなかったモノが飢餓を自覚したのだ。ならば良しと欲求に付き合ったものの、加減が知れない。なにぶん女は犯して引き千切るのが常だった。むしろ歯止めが利いたほうだとは思わんか」

 しっかり千切っておいて何を言っているのか。今度は右腕を擦り、私は口を尖らせた。
 半端な歯止めなら、なくてよかった。

「……どうして。まだ、私なんか殺してもつまらないって言うの?」
「何度も問いを繰り返すな」

 呆れきったという様子で眉をハの字に曲げる宿儺。寝そべっている彼を見下ろしているのは私なのに、こちらの方が低い位置にいるような気になってしまって、私は肩を縮めた。

「俺と食卓を囲うのだろう。膳に生首を飾る趣味は無い」
「え……」

 一呼吸おいて、私は顔を上げる。宿儺はじっとこちらを見ていた。その瞳に揶揄するような色は無い。
 もしかして今のは──生きて傍にいろと、言われたのだろうか。

「待って、だって……私は、宿儺の楽しみのために死ぬ、はずで……」
「くどい」

 殺すこと以外の価値を、宿儺は私に見出だしている? 命を消費しなくても、私は彼を楽しませることができるというのか。
 退屈しのぎに私の元にいただけのはずの宿儺に、いつ心境の変化があったのかは定かではない。腕をもいで私が気を失った瞬間かもしれないし、私の指に噛み付いた時かもしれない。私の質問で激昂した場面だったかもしれない。

「……いいの? 私、このままで……」

 ただ、きっかけはどうであれ、今の宿儺は生きている私に価値を認めている。それを自覚すると、胸が締め付けられて堪らない気持ちになった。息苦しいけれど温かい。自分の中のずっと内側に凝り固まっていたなにかがほぐれていく。自然と頬が緩んでいた。

「間抜け面めが。気は済んだか。ならば仕切り直す」
「え、わっ……」

 ぐいと腕を引かれ、バランスを崩して倒れ込んだ先は宿儺の胸板の上だった。肌と肌が触れ合って、伝わってくる温度が心地良い。
 大きな手が私の頭をくしゃりと撫でた。

「今度は前戯の最中に気をやるな」
「……もがれなければ」
「そう神妙にならずとも、趣向を変えて一等優しく抱いてやろう」

 反対の手が腰から肩へゆっくり上がってくる。後頭部に到達すると、明確な意図を持って私の頭を引き寄せようとしてくる。
 身を任せ、吐息が交じり合う距離まで顔が近付いたところで、ふと思い出したように宿儺が言った。

「名は?」
「……え? 私?」
「名乗らぬだろう、オマエ。無意識か」

 確かに私は初対面では必ず五条悟の妹だ、と挨拶する。それが、私という人間を紹介するのに最もわかりやすく必要十分な言葉だと思うからだ。
 名前なんていらない、とまで思い詰めていたつもりはないが、私はどうせ兄のおまけだという意識が働いていたのかもしれない。

「名前は──、んっ」

 促されるまま応えようとした途端、唇を宿儺のそれで塞がれてしまった。
 言葉を遮るという目的だけ果たして離れた宿儺は大層愉快そうに目を細めている。
 
「どうした、名乗れ」
「ちょ、ん、んぅっ!」

 言葉を発しようとしたところでまたもや顔を寄せられて、今度は隙間から舌が入ってくる。子猫を弄ぶかのようにぐるりと歯列を一周して、離れ際に下唇を軽く噛まれた。ほんの甘噛みだったのに、尖った歯の感触によって先刻の行為の感覚を呼び起こされてしまい、顔の温度が急激に上昇するのがわかる。

「い、言わせる気がない!」
「ククッ、どうした。頑張れ頑張れ」

 皮肉げに口角を上げる宿儺には、声を荒げて誤魔化そうとした私の胸中だってお見通しなのだろう。


20210328

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