▽ 窮途末路、これにて終幕。
――――子供の泣き声が聞こえる。
ふと目を向ければ、両の手を真っ赤に染めた子供が、そこにいた。
頼りない小さな身体に似合わず、海色の目だけがぎょろぎょろと蠢いていた。その目から絶え間なく零れる大粒の雫。
慌てて駆け寄ってくる誰か。子供にとって頼るべき唯一。頭を撫でるその手は温かく。
その温もりに不器用な笑みを浮かべる子供。ようやく感情を浮かべた子供に、安心したように誰かが微笑む。同じ海色の瞳が柔らかく細められた。
その時、子供は見てしまった。その誰かの後ろに立つ『なにか』。
悪意を持ったその『なにか』が、自分に向かって凶器を振り下ろした瞬間、誰かに確りと抱き込まれる。
……途端、自分のものではない赤で、その視界は覆い尽くされた。
塗り潰す誰かの赤、その僅かな隙間から、『なにか』と目が合う。
大切な兄をその手を害したとは思えないほど、感情の無い、見慣れた緑。と、もう一色。
『なにか』は……。
そうか、オレか。
視界が開ける。
ぱちり、と宮城は目を開いた。見慣れた天井が目に映る。
夢、確かに夢だ。それでいて、どうしようもない過去の出来事であった。
いつのことであったのかすら曖昧な過去の出来事。未だ忘却できぬその故は、これが一度だけのことではなかったことに因する。
自分が何者なのかも分からぬ人形。
『あの人』と同じ体に、『あの人』を淘汰するための頭を植え付けられた歪な存在。
……それを自らの背中で守る、かつて敵だったはずの彼。
向けられる猜疑、侮蔑、嘲笑。
黙ってそれに耐え、内を秘する彼に、何の非があるというのだろう。いつだって不条理で不平等なこの常世で、彼は真っ直ぐ信ずる道を歩んできた。
どうして彼が傷つかなくてはならないのだろう。
どうして。
それは、
……自分のせいじゃないか。
いつからだろう。眩いほどに実直な彼を直視できなくなったのは。
彼は黙って自分に尽くしてきた。それが彼自身の意志ではなかったことなど、とうの昔に気づいている。中央への忠誠のみで、こんな自分に尽くす彼の姿に哀れみを覚えたのはいつだっただろう。
然なきだに意思もなく、命じられたことを遂行するだけの人形を、愚直にも守り続け。
その愛情が、作られたものだとしても(彼は否定するだろうが)。彼も知らぬ彼を知るからこそ、それには気づいていても、見て見ぬふりをしてきた。彼の本心から生まれたものだと信じ込ませた。……縋って、ただそれだけを糧に自分は生きてこれたのだ。
彼がいてくれればそれでよかったのだ。彼が自分にいくら傷を隠していても。
それでよかったのに。自らの罪に気付いてしまったから。彼を誰よりも傷つけてきたのが誰なのか、それを思い出してしまったから。
夢の中の現実、朧気な記憶の中で刃を振り下ろしていたのは他でもなく。
誰よりも正しい福島を傷つけてきたオレは。
(幸せになる資格などないのだ!)
ああ、それでも。
心を持ち、彼の傷跡を見てからは、自我も無く、平気で彼を害した自分に、ただただ嫌気がさしていた。
だからこそ、今度こそ。彼を。
そう思い数を尽くしてきた。彼と、自らが背負うものたちを庇護するために。救済するために。それができるだけの力と、意志をようやく手にして。
それなのに、隣にはいつの間にかあいつがいた。
呼び出された先にいた福島は、酷く慌てた様子だった。しばらく言葉を重ねてようやく落ち着いた福島は、お前に言うことじゃないんだろうけど、そう前置きをした。照れくさそうに、福島は誰よりも先に、宮城にその感情を伝えてきた。まだ恋になる前の淡い感情。これから育てていくのであろう感情に、宮城は激しく嫉妬した。
何故あいつなのか、詰め寄る宮城に、福島は少し困ったように眉を寄せ、
『分からない』
そう答えた。
『分からない、し……俺にそんな資格があるのかも分からない。だけど、茨城と一緒にいたい。誰よりも傍にいたいと思ったんだ』
『こんな気持ち、初めてなんだ』
頬を染めて、しかしそれが一時の感情ではないことにはすぐに気づいた。
福島が、傍にいてくれる誰かを求めていたことは知っていた。それが自分ではないことも。欠けていた、離れていた二人が、惹かれ合うのも道理だったのかもしれない。
『なあ宮城』
真っ直ぐに福島が見つめてくる。
『茨城は悪くないんだ』
俺が勝手に、想ってしまっただけなんだ。
ここまで福島に想われていながら!
その時の感情を、何と表現しようか。
憎悪と後悔と羨望と、ほんの少しの歓喜。
(それが同族嫌悪であることを、誰より宮城は熟知していた)
…………。
本当は、あいつが相応しいのだと分かっている。
傷を舐め合うのではなく、前へ前へと手を取り福島を導いてくれるのは、あいつしかいない。
……かつては自分がその役だったはずなのに。
同時に気付かされた、自らのエゴ。彼を救うことで救われたはずの自分、叶えたかったの過去の自分の願い。それはとうに夢物語に過ぎない。なんて浅ましい夢だろう。
福島に恋慕の情を覚えたことなどない。一番近くで支えるために必要な感情はそれだと、求められるのはそれだと、知っていても持てず。だからこそ感情ではなく行動で示そうとしてきて。福島に背負わせたあらゆる過去の懺悔をしていた。
なのにあいつは、福島に対して全てを与えられたのだ。なんの躊躇いもなく。
オレじゃ、救えなかった。
そもそも、誰も救えやしないのに。
隣にいる大切なあの人でさえ、自分は救うことなどできた試しはない。いつだって自分を守るので精一杯で。自分なりに努力し、いざ手にした力は思っていたよりずっとちっぽけで。……それでいて彼のように、自らを犠牲にすることはできない。
それは、宮城に与えられた宿命であり、決して倒れてはならぬという呪いであった。道の奥で軸として生きてきた、宮城のただ一つの存在理由。それを否定するわけにはいかなかった。
ぽたり。
手に落ちる雫は少し冷たく。次々と零れるそれを、感情も無くぼんやりと見つめる。
海の水が溢れ、粒となって肌を濡らす。
哀しいのか。
いや、もしかしたら嬉しいのかもしれない。
これでようやく、福島は救われるのだ。向かい合い共に生きてきた宮城ではなく、背中合わせの彼の手で。
未来に進む、彼の手で。
福島はもう充分なほど、自分に尽くした。
世界が変わり、一つであったこの身体が引き裂かれてなお、彼は変わらず自分を守ってくれた。元々血の繋がりのないこの兄弟が赤の他人となっても、変わらぬ愛情を注いでくれた。
……それだけで充分だろう。
もう、彼を縛り付けていたくないのだ。
…………もう、福島は偽りの愛情で心を動かさなくて、傷付かなくて良いんだ。
(宮城は知らない。福島の愛情は、彼自身から芽生えたものであることを。
命じられたからではなく、自らの意志で弟と決めた宮城を守り続けていたことを、知らないのであった)
刹那。
吹くはずのない風が、夜を運んできた。
「きみじゃ救えない、ぼくはずっとそう言っていたはずだよ」
え、
後ろからふわりと抱き締められる。
いるはずのないこの人が、どうして。
「よかったじゃないか。これできみの重荷は無くなったんだ。きみはもう自由なんだよ」
違う、福島はそんな。振りほどこうとしても、ふわりと包み込む抱擁に見えて、ぴくりとも拘束が緩むことはない。何より、彼の紡ぐ言の葉に縛られ、指一本も動かすことはできなかった。
「きみの思うように生きればいいんだ。あんな奴、忘れてしまえばいい」
囁くような優しい声色で、なんと残酷なことを。
「ずっとずっと、待っていたんだよ」
うっそりと微笑む彼の姿。神と見紛うばかりに美しい。嗚呼、なんて。
「ね? あんな奴より、もっときみを想っている人がいるんだから」
ひやりとした手が、唯一視界のある左目を覆い尽くす。優しい手付きで。彼で体が覆い尽くされる。
夜に覆われれば、海も空も分けられないだろう。
くつくつと嗤うそんな声が聞こえた、気がした。
ぐらりぐらり。揺れ動くのは、何。
唇に触れる、冷たく、荒れた何かの感触。
指の隙間から、見慣れた金色が見えた。二人の視線が重なる。波立つ水面を通り抜け、海の底に光が差し込む。混ざり合うそれらは幸か不幸か、判別する頭は既に無く。
……
もういいか、お前が必要としてくれるなら。
最後の意志を海に沈め、宮城はゆっくりと目を閉じた。
……猿猴捉月。仮初の月を求める猿たちのなんと愚かなことか。
力が抜け、くたりと自らに体を預ける愛し子。先程とは打って変わり、力を込めて抱き締め、夜を纏った岩手は声を立てて嗤う。
目先に惑わされ、彼らは来ない。自らもそうであることに気付かない。
(何も変わらないさ)
託生の兄弟も、慕情の兄弟も。求められるもの、縋られるもの。立ち位置は何一つ変わりのない。絡み合い交錯する、それが縁。誰も彼もが縛られたままに欲するうつろ。
(山形、仮初のきみも、その中の一人なのだから)
映る虚像などに渡すものか。
照らすのは、このぼくだ。未だに色を失うこともなく、爛々と輝く金の瞳がその証。……この子から渡された、ぼくが喪わなかった唯一。
きみのためなら、海の底まで照らしてあげよう。
そうして海の色なんて消し去ってしまえばいいのだ。
道の奥の楔を解くのは、楔そのものであった彼だった。区切られるはずのない海が、ようやく元の形を取り戻して。
そして。
ぼくが欲しいものから離れていく。この子がいなくても良いのだと、誰よりこの子が自覚するこの時。
縁だなんて、ほぅら、ぼくなら意のままに手繰り寄せることができるのだから。
もう、離さない。
岩手は心底幸福であった。
ぼくの望み通りに。
「邪魔者はいなくなったんだ」
「さあ、二人で幸せになろうか」
きみが望んだ通りに。
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