▽ 友と気付きの一陽来復
「お前は、何にも知らないんだよな」
ぽつり、と零された言葉は、以前別の人物にも言われたことだった。
たまたま仕事場が被った帰り道。俺たちにとってはよくあることで、よく通る道で、しかしその言葉だけがいつもとは違った。
主語がなくとも、それが何を指しているのかはもはや明確であった。
「何も知らないから、あいつに近づけるんだよ」
目を伏せたまま栃木が言う。そうだろうか、そうなのかもしれない。
茨城は、福島のことを何も知らない。その事実。
もちろん知っていることは多くある、はずだ。生まれたばかりの頃は共にあったのだから。
それでも、確かに栃木や群馬に比べたら、彼自身について知っていることは今の彼くらいである。彼の根幹は未だ知らない、知らないのかもしれない。
――栃木は、ずっと近くで福島を見てきた。生まれた時からずっと、というのは些か誇張ではあるが、しかしそれでも随分と長く隣にいたはずだった。
だが言葉を交わすことさえ稀で、向き合ったこともなかった。彼が何を考え、何を望み、何のために生きてきたのか、栃木に知る由もないし、知ろうとも思ってこなかった。ただ、自分のことで精一杯だった。
愚直なまでの忠誠心。そして彼は、それを遂行するための手段を選ばない。たとえそれが自らを傷つけることになったとしても。栃木がたまに見かける彼は、いつだって傷だらけであった。
栃木が福島について知っているのは、それくらいであった。それから、彼の深い嘆きと悲しみ、拭いきれない憎悪。長い歴史の中で、彼の中から拭い去れ無いもの。
恐らく、どれも茨城は知らないことである。
だから、茨城のお人好しにはため息しか出ないのである。地方さえ違う、ただの隣県。そのために、何故そこまでできるのか(地方が同じ自身も、幾度も彼の面倒になったわけだけれども)。
しかし現代、そんな彼の影響を少しも受けていないと言えば嘘になる。お人好しとは言わずとも、手を差し伸べるくらいなら。自分にできることなら。あぁ。
(果たしていいことなのやら。多分、いいことだと思うけど)
隣にいると、似てしまうものなのかな。
栃木は深く深くため息を吐いた。
自分のことにはとことん鈍いこの友人のために、彼から伝染ったお節介をかけてしまいたくなってしまったのである。
「そう、なのかもしれない」
――ようやく出た言葉は、我ながら絞り出すような声だった。事実だ。彼の根幹は山の奥。彼はずっとそこで生きてきた。そこの化身として。自分が知っているのはそれくらいであった。たったそれだけ。彼が何を見て、何を感じて、そして何のために生きてきたのか。自分は、それすら未だ知らない。そのことに気付いたのもつい先日で。
南東北の面々は福島と共に生きてきて、彼については彼よりも知っているのかもしれない。しかし、北関東の中でも、もしかしたら、もしかしなくとも自分が一番彼を知らないのではないか。
福島が自分に見せる表情は、笑顔と、そして少し困ったような顔。思い返せば、それだけだったかもしれない。
(福島は茨城と共にいる、それだけで笑顔になれることを、茨城も、そして福島自身も未だ知らないのである)。
視界が僅かに下に下がる。無意識のそれは、しかし、栃木には見透かされていたようだ。彼が、ててっと小走りに茨城の前に出る。
「そんな落ち込むなって!えっと、ほら、これから知っていけばいいだろ?な!」
ちょっぴり慌てたような声で栃木が言う。落ち込ませるつもりじゃなかったんだ、ただ、確認したかっただけっていうか。最近、お前らやけに一緒にいるし。
あわあわとした身振りでもその焦りが表現されている。自分を気遣う栃木という図がなんだか面白くて、思わず笑いが零れる。
ほっ、としたように、栃木も目元を緩めた。
「別にいいぜ、事実だし。それに」
「それに?」
言葉を一度切る。これを言われたのは初めてのことではなかった。恐らく誰よりも福島を知る、彼の弟。そいつから幾度も言われたことであった。
あの時、あの部屋で。彼と、彼の弟について、自分の無知さを思い知らされたあの出来事。
『何も知らない癖に』
彼らしくない、押し殺したような声であった。憎しみと、悲しみと、そして、そして? 何か別の感情を湛えた瞳だった。彼は目の前にいるはずの茨城ではなく、別の誰かをじっと見ていたのだ。
彼はどんな答えを望んでいたのだろうか。理解させるつもりがない彼と、理解するつもりがなかった自分。なんて噛み合わない二人だろう。それでも、まずそれを自覚できたなら。きっと知っていけるはずだから。
「俺は、それを自覚していなきゃいけないって、よく分かったし」
「?そう」
納得していない表情だ。
栃木とは長く一緒につるんでは来たが、互いを全て知る仲ではない。決して心で通じ合う仲ではない。
彼には言葉を必要としない片割れがいて、自分にはずっとずっと隣にいた相棒がいる。それでも、彼と過ごす時間は心地よい。そんな関係。
じゃあ、福島は?自分の何なのだろうか。
血縁はあるものの、そんなのはとうに昔の話だ。生まれて間もなく別々の場所へ。隣にいても、俺たちは背中合わせにいつも違う方向を見てきた。北と南。いつだって正反対で、共に歩むことなどなかった。だけど、それでも。
今度は、同じ方向を見られるのかもしれない。
この感情がなんなのか、それはまだ分からない。
それでも。
(ただ、あいつの傍にいたい)
彼を支えられれば。できれば、誰よりも近くで。それが、紛れもない本心であった。
心にすとん、と落ち着く感情。
あれ、
「……もしかして、俺って鈍いのか?」
「今更?」
もしかして、この感情は。
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