▽ 隠微な一臂
依然、足音がついてくる。
なんだかおかしい。茨城はそんな気持ちを抱いていた。
仕事が終わり帰路に就き、駅から自宅までの徒歩の距離を歩く。いつもなら一日の仕事の振り返りや、明日の仕事について考えている間に終わる僅かな時間だ。
それなのに。
(あれ、俺、何分歩いているんだ……?)
違和感は、その一連の思考が一区切りしても、未だ玄関すら見えて来ないことにあった。体が覚えている道のりは、考え事をしていても間違うはずがない。だが、もしかしてこれは、道に迷ったか?
(俺そんなに疲れてたかなぁ)
仕方なく周りを見渡す。街頭の灯りは僅かで、周囲の民家はどれも同じに見えてしまう。近くに住所や地図もも見当たらない。
スマホを開きGPSを使うが、どうやら電波が悪いらしい。自らの位置を示す針は、あちらこちらに忙しなく移動していた。そろそろこのスマホも寿命か? なんて考えつつ。
まてよ。
茨城は、はた、と思い当たる。
(こんなに道が暗いわけ、なくねぇか?)
茨城の家は駅に近く、住宅地と言えどもこの時間でも人通りは多い方であるはずだ。それなのに、そう言えば考え事をやめてから誰ともすれ違った記憶が無い。
なんだかおかしい。
再びそう思ったときだった。
コツ、コツ……
ヒールの音が聞こえた。
なんだ、やっぱり人も歩いてるじゃねぇか。
少しほっとした(癪だが)茨城は、後ろに目を向ける。近くで音がしたから、多少薄暗くても姿は見えるはずだ。そうしたら、夜道を歩く女性には中々迷惑なことかもしれないが、道を聞こう。
そう決心していた茨城ではあったが、意気込む気持ちとは裏腹に、相手の姿は全く見えてこない。まるで同じ場所で足踏みをしているかのように、それ以上足音が近付いては来なかった。
「……?」
規則的に響くヒールの音。もしかして複数の方向から? なんてウロウロと歩き回っても、聞こえてくるのは後ろからだけである。
(……足踏みでもしてんのか? 最近の流行なのかもなぁ)
自分が知らないだけで、もしかしたら流行りのダイエット方法なのかもしれない。そう結論付け、茨城はその足音の主に会うことを断念した。
そうして再び前に歩き始めたのではあるが。
(なんで……?)
足音は、茨城が歩き出す前と同じ距離から聞こえ続けているのである。
茨城はかなりのせっかちであり、歩くのも当然早い。それなのに同じスピードで、しかもヒールを履いた女性がついてくるなんて、今まで一度もなかった。
(やるな。最近の女ってすげーんだな)
特に気にせず、茨城は歩み続ける。音も、同じく着いてくる。
どうしようかな、そんな思考をする割に、茨城はそこまで深刻ではなかった。最悪そこらへんで野宿すればいいし。朝になれば明るくなって道も分かるだろう。しかし明日の会議に向けての資料を整理できないのは痛いな。朝日が登ったらすぐにでも動かないと。
なんて思考を巡らす。それでも歩みは止めない。なんとなくの直感で歩けば、いつの間にか着くのではないかという希望は捨てていなかったからだ。
右に二回曲がったところで、会議、のワードから、前回の関東会議を思い出す。
『ストーカーじゃね?』
自らが千葉に言った言葉。冗談めかして言ったが、もしかして……もしかしてこれは!?
(ス、ススス、ストーカー!!!???)
まさか俺がストーカーされる日が来るなんて!!
嬉しいような、怖いような。うーんこの。
じゃあもしかして、後ろから来る子は、俺のことが好き……!?
ちょっと気になる。どんな子なんだろう……そう思って歩みを止めたものの、足音の主はそれ以上近付いて来ることは無かった。
そう言えば、こんなに近くにいるのに、声を掛けていなかった。
ヒールで歩いているということは身を隠すつもりは無く、もしかして気付いて欲しかったのかもしれない? そうすると規則的に響く足音の理由と繋がらないが、きっとストーカーついでにダイエットもしているのだろう。滅茶苦茶ではあるが、そうとしか思えない。
「あの……もしかして、俺のこと追いかけてる?」
少し小さな声で呼び掛けてみる。……しばらく待ったが、返事はない。
足音との距離的に届くであろう声量にしたはずであるが、もしかして思ったより遠くにいるのだろうか。
驚かせてしまうかもしれないが、思い切って大声を出してみる。
「おーーーい!! 聞こえてる!?」
パリン。
茨城の大声と共に、何かが割れる音がした。
……? 歩いてきた道に、ガラス等は落ちていなかったはずだ。じゃあ、今の音は? もしや俺の声ってそんなに破壊力あったのか!? やるじゃねぇか。
随分近くで聞こえたような気がした。そう思って視線を巡らせて、その時ようやく足音が止んでいることに気付いた。
よかった、気付いてくれた!
そう思って後ろを振り返ろうとした時、突如左耳に耳鳴りが走る。
一瞬顔を顰める間、前回の会議の、その続きを思い出した。
一連の小さな騒動。あれは。非科学的なことは一切信じない自分ではあるが、もしかしたらそういうこともあるのかも? なんて一瞬思ってしまうほど不思議な出来事であった。プラシーボ効果だろう、とは思っているが。
『ではまた』
宮城が去る時。あの時目が合ったのは、俺だ。そうだ、宮城!
待てよ。これはもしかして、もしかする展開なのかもしれない。いつまでも着かない自宅、薄暗く見覚えのない道、そして後ろから響いてくる足音。
(これ、ホラー映画で見たやつだ!!!)
気付くのが遅い。
そういった存在は信じていないけれど、実際そう言った状況に追い込まれたら話は別である。そう言えば、折角スマホがあるのに電話をかけることもしていなかった! こうなったらもう恥とか言っていられない。
慌ててスマホを手に取る。電話帳から宮城の番号を探し、発信、しようとしたところで。
腕を掴まれた。
「ここにいたのか!!」
「ふ、福島……」
ギチ、と痛い程腕を掴んできたのは、福島だった。
「なんで、ここに?」
福島は、今日は茨城には来ていなかったはずだ。そういう視線で見つめると、福島は少し怒ったようだった。
「なんでも何も! 今何時だと思ってるんだ!!」
「何時……?」
福島のスマホを突きつけられる。デジタル時計に書かれていた時間は、……2時。
「う、嘘だろ……」
じゃあ俺は、三時間近くも歩き回っていたってことか!? 体感としては一時間くらいかと思っていたのに!!
「……何か、あったんだな」
混乱する茨城に、福島は優しく問い掛ける。福島は茨城を優しく導き、共に左に曲がった。
「……え」
目の前に広がったのは、見慣れた景色。いつもの帰り道であった。
路地を一本入っただけだった……? でもそれじゃ、
「茨城」
「!? 福島?」
思考を遮るように、福島が話し掛けてきた。
「あの……茨城と連絡が取れないって栃木から聞いて……それで来たんだけど」
福島が下を向いて、少し恥ずかしそうに話す。ある意味栃木のお陰であったのか。というか、俺と連絡が取れないってだけで、福島から慌てて来てくれたのだろうか…………正直、めっちゃ嬉しい。
「今日、泊めてもらっても、いいか……?」
「こんな時間だし、もちろん!」
二人でちょっと顔を赤らめつつ、玄関を潜った。
福島は、スーツを掛ける茨城に気付かれないように、小さくため息を零す。
やっぱり、聞いていた通りだった。
これで当分大丈夫なはず。だが、外の"アレ"をそのままにしておくわけにもいかない。ここは、自分にとってとても大切な人の土地だ。
廊下に出て、スマホを取り出す。一コールで相手が出た。
「悪い、ちょっと来て欲しいんだけど」
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