この年になってまさか電車の乗り方が分からないとは思わなかった。握りしめた諭吉が券売機の前でおろおろしている俺を嘲っていびつに顔をゆがめている。俺はそれをぐしゃりと掌で握りつぶし、どうかされましたか、と親切にも声をかけてくれた駅員さんにさらにあたふたといや、だの、その、だの要領を得ない返答とも言えない音を返して駆け出してしまった。いくら血を飲んだとは言っても、今日はいつも飲んでいる量の半分も飲んでいない。昨日はたっぷりと食事をしたからまだ空腹感は襲ってこないが、いつそれが来るか俺は怖くて怖くて仕方がなかった。優しく笑って俺に親切にしてくれた相手をいつ食料としてしか、獲物としてしか見れなくなってしまうのか、俺は恐ろしくて恐ろしくて仕様がなかった。だから俺は、終電直前ということでごった返している駅を飛び出して、とにかく人気のないところに駆け出した。こうも寒いのに俺の口周りに白く靄がかからないことに、誰一人として気づかない。しょうがないことだと思う。だってここはあの村じゃない。閉鎖的で連鎖的で隣の家の晩御飯まで把握しているようなあの村とは違うのだ。都会に連れてこられて初めて、ここまで人は人に無関心になれるものなのかと度肝を抜かれた。隣人が死んでいようが、近隣の子供が虐待されていようが、全く興味がありませんというような顔をして人々は自分の日々を回していく。なるほどあいつが恋しがるのもわかると思ったものだ。だってあいつは、人に詮索されることを何より嫌う。だからあの村での一年間は、とても窮屈で仕方のないものだったのだろう。首周りをぐるぐると蛇のように巻かせたマフラーに口元を押し付けながら、俺は唯一勝手知ったるバスに乗り込んだ。深夜バスということで普通のバスと券の買い方が違くてもたついたけれど、でもバスはバスだ。乗り込んですぐ、一番奥の一番はじの一番目立たなそうなところに座り込んだ。券を渡すときに触れた指先の冷たさに驚いたおじさんが、今日は寒いもんなあ、と独り言ちたのを聞いて、もう何年も前に動くことをやめた心臓が嫌な音を立てた。耳をふさぐようにマフラーに顔をうずめる。少し前に座るカップルがきゃらきゃらと控えめな、それでも楽しそうな声を上げていた。めまいがした。ぎゅっと目をつむっている間に、音もなくバスは発車していた。


 夏野にとって俺は足枷以外の何物でもない、ということを考え始めたのは、あの村から連れ出されて半年ほど経ったときのことだった。正直夏野に手を引かれ、というより引きずられるように連れ出されてすぐは、戸惑いのほうが大きくてそこまで思考が追い付かなかった。めらめらと村を、人を、屍鬼を焼く炎をかいくぐりながら、夏野は俺の手をつかんであの村を飛び出した。炎から逃れる間、たくさんの死体を見た。杭で胸を貫かれている屍鬼もいれば、頭をぐちゃぐちゃにつぶされた仲間もいた。俺はそれが誰であるかを思い出す前に目をそらして、自分の手を引く、俺よりもずっと薄い背中だけをひたむきに見つめた。それ以外を見てはだめだと、本能が悟っていた。その時は、ただただ死にたくないと、動かない心臓が悲鳴を上げていた。
 村から逃げ出して半年。夏野と俺との間に会話らしい会話は一つとしてなかった。夏野は俺に何も言わなかったし、俺も夏野に何を言ったらいいのか分からなかった。ただただ口の中がねばつくような居心地の悪さだけが俺たちの間に死体のように転がっていて、その死体が悠然と俺をねめつけているような気がして怖かった。でも死ぬほうがよっぽど怖かった。俺はいつからこんなに臆病な奴になってしまったんだろう。いや違う。俺はもともと臆病で臆病で、はっきりと物事を決められない日和見主義の最低野郎だった。それからずっと目をそらしていたのに、もうこうなってしまったら真正面から向き合うしか道がない。俺は何も言わない夏野に甘えて何もしなかった。昼間夏野が外に出ていることは知っていたけれど、どこに行っていたのか、何をしているのか、訊けるわけがなかった。ただおかえり、とだけは言っていた。返事があったことは一度としてない。ただいま、の代わりにいつも瓶に入った俺の食料だけが渡された。それが誰のものであったのか、どうやって手に入れたのか、俺は聞いたことがない。そして夏野が、それを飲んでいる姿も一度として見たことがなかった。
 渡された瓶に恐る恐る口をつける俺の横で死んだように眠る夏野を見ていると、本当はこいつは死んでいなくて、人狼になんてなっていなくて、まだ人間のままの結城夏野なんじゃないかと錯覚しそうになることがある。だってこいつには呼吸がある。脈拍がある。ぬくもりがある。眠っているからと触れた頬は泣きたくなるほどやわらかかったし、叫びだしたくなるほど温かかった。もしかしたら俺は夏野を殺してなんていなかったのかもしれない、と何度も何度も夢を見た。でもそれは、俺をじっとりとねめつけるその目によってすぐに撃ち殺される。夏野は、人間だった時の夏野は、俺をそんな冷たい、凍てつくような目で見たことなんて一度もなかった。俺が夏野を襲った時だってそうだ。夏野は鬼になった俺にも、生前と変わらない、あのまっすぐな目を向けてくれていた。それに耐えられなかったのは俺だ。そのまぶしさにつぶされて、夏野を殺してしまったのは紛れもなく俺だった。それに、時々金色に鈍く光る目こそが、夏野はもう人間じゃないんだぞ、と俺を悠然と嘲っていた。
 あの村を出たところで、俺の世界は相変わらず狭いままだ。むしろもっと狭まったといってもいい。俺は夏野が転々とする部屋から出たことがなかった。どこから拾ってきたのかわからないおんぼろのテレビを眺めながら、時々夏野が投げてよこした雑誌に目を落とすだけ。生きているんだか死んでいるんだかわからない、と思って、もともと死んでいるのだから変わらないだろう、と声を上げて笑いたくなった。夏野が何を考えているのか全く分からなかった。昔はそんなことなかった。なんとなく、この自分より二つ三つ年下の子供のことを分かった気でいた。今は全く分からなかった。わからないまま半年が過ぎて、相も変わらず真っ暗な部屋で、だというのに夜目が効くせいでなんの弊害もなく読めてしまう雑誌の文字をつらつらと追っている時だった。
 がたん、とけたたましい音を立てて扉が開いた。俺はその音に驚いて、情けない悲鳴を上げて雑誌を取り落としてしまった。そして転がり込むように押し入れの中に逃げ込み、毛布をかぶってガタガタと震えていた。あの村の惨劇が瞼の裏でちかちかと点滅していた。焼けただれた皮膚。苦痛にゆがんだ顔。胸を貫く冷たい杭。飛び散った脳漿。それがぐるぐるとフィルムのように脳みその裏に浮かんで、恥も外聞もなく叫びだしそうになった。それを必死に毛布を噛んで耐えて、ただただ見つからないように身を縮めた。誰かが俺たちの存在を嗅ぎつけて、殺しに来たんだと思った。もう終わりだと思った。安堵もしたけれど、それをはるかに凌駕する恐怖が俺の身体をガタガタと情けなく震えさせていた。ただただ怖くて涙がこぼれた。冷たい涙だ。凍ってしまいそうなそれをはらはらとこぼしながら、俺は夏野を何度も声を出さずに呼んだ。助けて夏野。助けて夏野。もう俺にはお前しかすがる相手がいないんだ。もう俺を助けてくれるのは夏野しかいないんだ。自分よりもちいさく薄い子供の名前にすがって、俺はぎゅっと目をかたくつぶった。しかししばらくしても誰かが部屋に入ってくる様子も、俺を探そうと家具をひっくり返している音もしないことが分かると、俺は恐る恐る、というような様子で押し入れから顔をそっと出した。玄関の前で何かがうずくまっているのが分かった。二度瞬きをして、それが夏野であるということが分かると、俺は毛布を放り出して夏野に駆け寄った。
「なつの、」
 夏野は動かなかった。思わず触れた肌はいつもより少しだけ冷たくって、下がるはずもない自分の体温がざっと音をたてて凍えていくのを聞いた。夏野はただ虚空を見つめていた。目が金色に光っている。俺はなぜだかそれが恐ろしくて仕方がなくて、もう一度夏野の名前を呼ぶことも、夏野の肩を支えることもできずに、ただただ立ち尽くしていた。夏野は俺が眠りにつくその瞬間まで、ぴくりとも動かずただただ暗闇を見つめていた。俺が目を覚ました時には、夏野はもういなかった。ゴミ捨て場で拾ったテーブルの上にはいつものように瓶が置いてあった。俺はそれを少しだけ躊躇ってから、ごくりごくりと飲み干した。そして思った。夏野はいつも、これをどうやって手に入れてきているのだろう。夏野はどうやってここの家賃を払っているのだろう。夏野はどうやって食事をしているのだろう。そもそも夏野は食事をしているのだろうか。血だけじゃない、普通の、俺達にはできない人間と同じような食事を、どうやってとっているのだろう。
 夏野は、今、どうやって生きているのだろう。
 そこに行きついて、俺はぞっとした。俺はこの半年、ただただ夏野に世話を焼かれていた。何も考えず、夏野が何も言わないことをいいことにただただ膝を抱えて震えていた。与えられる血を飲み、何もせずに部屋でうずくまっていた。俺が眠っている間、夏野が何をしているかだなんて考えたこともなかった。昨晩見た夏野の身体は、驚くほど小さく感じた。
 ふと、辰巳のことを思い出した。あいつは昼にも動けて一見普通の人間と変わらないもんだから、割と村を出歩いていた気がする。猫かぶりだけはうまかったから、おそらく俺以外の人間の家にも上がり込む手はずを済ませていたはずだ。それは、俺たち屍鬼には案外難しい。だって俺たちは夜にしか出歩けない。屍鬼は人狼よりも圧倒的に出来損ないだった。夏野は俺と違って昼間に行動できる。こいつは確かにとっつきにくい性格だけれど、でも決して壊滅的に人とコミュニケーションが取れないわけじゃない。芯が通っているさまはきっと人によっては好感を持つだろう。俺のように。そして何より、夏野は顔がいい。頭がいい。きっと人狼として生きていくすべを心得ている。なのに、俺を連れている。俺を、屍鬼を連れているせいで、人間の世界にうまく潜り込めなくなっている。そう思ったとき、俺は猛烈な吐き気を覚えた。とっさにトイレに駆け込んでげえげえと言ってみたけれど、出るのは無様なうめき声だけで、胃液の一滴すら出ちゃくれなかった。代わりに涙はぼたぼたと垂れた。便器の中に沈んでいく冷たい滴がただただ悲しかった。がちゃん、と昨晩の騒々しさが嘘のような音を立てて扉が開いた。夏野は俺がトイレにいることに少しだけ目を見張って、でも何も言わずにいつものようにテーブルに瓶を置いて、何もないフローリングの床に寝転んだ。猫のように丸まって眠る夏野にさらに涙がこぼれた。「なつの」トイレから這って出て、夏野のもとまで行く。まるで虫だと思った。寄生虫だと思った。俺は夏野を殺した。殺すだけじゃ飽き足らず、こうして夏野を縛り付けている。夏野がどうして俺を連れ出したのかはわからない。もしかしたら自分を殺した俺への復讐なのかもしれない。そうなのかなあ。そうだといいなあ。なあ夏野、俺に優しくしないでくれよ。そのままでいてくれよ。お願いだから俺にあたたかい言葉なんてかけてくれるなよ。あの晩みたいに、俺の目をまっすぐ見て俺たちを皆殺しにするって言った、冷たい目でずっと見続けてくれ。許さないで、許さないで、許さないで。そうされたら、今度こそ俺はどうしようもなくなってしまう。どうしようもなくなって、なくなって、死ねもしないのに死にたくなってしまう。だから夏野、どうかそのままでいてくれ。お願いだから。俺は夏野の横でうずくまりながら一晩ずっと泣いた。透明な血液を流しながら夏野の隣で眠った。起きた時に夏野はいなかった。がらんどうの部屋に、赤い血だけがたぷたぷと揺れていた。それが何より悲しかった。
 それから俺は、夏野に手を引かれて街を転々としている間、無言で渡される血を飲み干しながら、ずっと考えていた。夏野にとって俺は、ただの足枷なんだろうなって。きっと俺がいなくなったら夏野は自由になるのだろう。自由になって、そのひたむきさをもって、したたかに生きていくのだろうと。死ぬだなんて考えることだけはよしてほしい、と思った。俺が殺したくせにひどい言い分だった。でももう、夏野につらい目にあってほしくなかった。俺は夏野に、幸せになってほしかった。
 だから昨晩、あの夜のようにけたたましい音が玄関からしたとき、生きた心地がしなかった。止まっている心臓がどくりどくりと脈打っているような錯覚さえ起こした。だって扉が開いた瞬間ぶわりと広がったのは、紛れもなく夏野の血の匂いだったからだ。
 俺は転がるように玄関まで走った。夏野はあの晩と違ってうずくまってはいなかった。でも壁に寄りかかって、その寄りかかった壁にはべったりと血がこびりついていた。悲鳴が俺の口から上がった。夏野はそんな俺を煩わしそうに一瞥してから、数か月ぶりに俺に言葉を放った。ひどくかすれた声だった。多分俺が人間のままだったら聞き取れないようなささやき声で、夏野はこういった。
「しばらく、飯、あげらんないから」
 これで食いつなげ、とでも言うように、夏野はずるずると身体を引きずりながらリビングにまで行くと、薄っぺらいテーブルの上に瓶を二つ置いた。なみなみと入った赤い液体が荒く波打つ。夏野はそれだけすると、そのまま床にへたり込んだ。玄関からテーブルまで、夏野の血が墨のようにぶちまけられていた。俺は今までの沈黙が嘘のように夏野に飛びついていた。触れた夏野の肌は、俺とたいして変わらないほどまでに冷え切っていた。今にも倒れこみそうになる身体を支えて初めて、夏野の身体があんまりにも細くなっていることにぞっとした。そしてその薄い腹からとめどなくこぼれる赤に、さらに視界が真っ白になった。
「なつの、なつの!」
「うるさい」
 夏野はそれだけ言って、また押し黙った。ぜえぜえと荒く呼吸をし、時々湿っぽい咳をした。白い肌にはいくつも大きな汗の玉ができていた。俺はとっさに、夏野に血を飲ませなくては、と思った。いくら普通の人間と変わらない食事で生きることができるとはいえ、人狼だって屍鬼だ。主食が血液であることには変わらない。俺は瓶をひっつかむと震える手でふたを開けて夏野に差し出した。夏野はそれを面倒そうに見やりながら、「いらない」とただ一言言った。わけがわからなかった。
「でも、お前、それ」
「うるさい、そのうち治る、から、それはあんたが飲め」
 夏野はそれだけ言って、今度こそ床に突っ伏した。びしゃり、と湿っぽい音を立てて夏野の形のいい頭がフローリングに打ち付けられる。俺はただただ怖かった。このまま夏野が死んでしまいそうな気がした。夏野の目は固く閉ざされている。それが眠っているからではなく、気絶しているだけだということは明白だった。俺は少しだけ開いている夏野の薄い唇に血を何度も流し込んで、それがこぼれるたびに泣きながらそれを指ですくって再び夏野の口に押し込んだ。反射で嚥下するのどに安心して涙がこぼれた。腹の血はいつの間にか止まっていた。
 俺は今まで、どうやって夏野が血を持ってきているのか考えないようにしてきた。どうやって夏野が金を稼いできているのか考えないようにしてきた。夏野の身体は十五歳の子供の姿で止まったまんまだ。俺だって十八の姿から変わっていないけれど、この差はかなり大きかった。高校生にしか見えない相手を雇って、なおかつ生活費を稼ぐまで使ってくれる職場が少ないことくらい、世間知らずな俺でも漠然とわかっていた。でもこの数年間で夏野が金に困っている様子を見せたことは一度もなかった。服がよれてくれば買っていたし、成長しない俺たちに不信感を持たれる前には住居を移動させていた。そして何より、夏野は毎晩毎晩俺に食事を持ってきていた。血という、俺の唯一の食料を差し出していた。俺はその事実から目をそらしていた。その過程から、目をそらしていた。
「夏野、なつの」
 なあ夏野、お前はいったい、俺が眠っている間に何をしていたんだ。なんなんだよこの傷は。どう見たって、喧嘩だとか、事故だとかの傷じゃあないだろう。どう見たって刺し傷だ。それも一度や二度刺された傷じゃない。何度も、何度も裂かれた傷跡だ。なあなんでお前刺されちゃったんだよ。お前、確かに誤解されやすい性格だけれど、刺されるまでじゃあなかったろう。それとも人狼になったせいで変わっちゃったのか? 違うだろ、なあ、なんでお前、そこまでするんだよ。どうして俺をそこまでして連れ出すんだよ。復讐なら、簡単じゃあないか、俺の胸に杭を突き刺せばいいんだよ、お前なら簡単だろう、だってお前、人狼なんだもん。俺たちと違って、日の光も平気で、十字架とか仏像とかもへっちゃらで、俺たちなんかより頑丈で、力も強くて、それなのに、それなのに、なあ、なんでお前そんな血まみれなんだよ、どうしてそんなぼろぼろなんだよ、お前、見た目、すごい気にしてただろう、それ、お前の気に入りの服だろ、もうそれ、絶対着られないぞ、もうぐちゃぐちゃで、どろどろで、ぼろぼろで、洗濯してももう二度と着れないぞ、なあ、夏野、夏野、夏野、俺、もうお前が分からないよ、わからないんだよ。
 俺はやっぱり泣きながら夏野の身体をずっとさすっていた。でも冷たい俺の手じゃますます夏野の体温を奪ってしまいそうで怖かった。でも何もせずに夏野が冷たくなってしまうことのほうが怖かった。俺が眠って起きても、夏野はそのままだった。眠る前と変わらず床に倒れこんだままだった。テーブルの瓶は減っていなかった。俺はまた泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、三つあった瓶を一つと、夏野のコートのポケットにたんまり入っていた札束の中から一枚だけ諭吉を引き抜いて、外に飛び出した。どうすればいいかわからなかった。ただ夏野のそばにいちゃいけないことだけはわかっていた。俺といると夏野はだめになる。それだけがいちたすいちの答えよりも明瞭に明白に俺の目の前にべったりと張り付いていた。


 そして今、俺はバスに揺られている。夏野はもう目を覚ましただろうか。覚まして、一つだけ残った瓶の中身をちゃんと飲んでくれただろうか。飲んでくれていればいい。人狼の夏野があそこまで弱っているのだ、血を飲まなくては本当に死んでしまう。そして飲み干した後で、俺がいないことに気が付いてくれればいい。いや、気づかなくていい。でも気づいちゃうんだろうな、あんな狭い部屋だもんな、いやでもわかるよな。俺がいないとわかったら、夏野はどうするんだろう。また怒るだろうか。それとも悲しむだろうか。それでいいと思った。俺のことを憎んで憎んで、恨んで恨んで、もう知らないとそっぽを向いてくれればいいと思った。そして俺のことなんて忘れて、自由に生きてほしいと思った。夏野は案外いいやつだし、顔もいいから、きっと人狼だとしても一緒にいてくれる人は絶対に見つかるはずだ。その人とささやかな幸せを手に入れてほしいと思った。俺が奪ってしまった幸福を紡いでほしいと思った。ああ、そういえば、村から逃げ出した後、俺と夏野の間に会話なんてなかったから、言い忘れてしまった。ごめん、も、ありがとう、も、さよなら、も、全部言いそびれてしまった。でも、それでいいと思った。ごめん、と言われたら、夏野はきっと怒るだろう。許しを請うなと怒鳴ることだろう。ありがとう、と言っても、夏野はきっと怒った。礼なんて言われる筋合いなんてないと、目くじらを立てたはずだ。
 そしてさよなら、は、たぶん、言ったら一番怒ったはずだ。何がさよならだと。一方的に終わらせるなと、俺を殴り飛ばしたはずだ。今の夏野は以前よりずっと力が強いから、もしかしたら首がもげてしまうかもしれない。でも、それでいいのかもしれない。だって、俺は夏野を殺した。だから、夏野は俺を殺す権利がある。もしかしたら俺は、夏野に殺してほしかったのかもしれなかった。臆病なせいで死ぬこともできない俺を、終わらせてほしかったのかもしれなかった。なんてわがままなんだろう。なんてひどいやつなんだろう。夏野を殺したのは俺なのに、さらに重荷になるようなことをさせようとしていただなんて。自分が自分で嫌になる。ぐ、と口の中を噛めば苦い味が口に広がった。バスの乗客は、いつの間にか俺一人だけになっていた。
 終点が近づくにつれて、これからどうしよう、という漠然とした不安が押し寄せてきた。掌に爪を立てる。どうしよう、も何も。夏野が買ってくれたマフラーに鼻先を押し付ける。することなんて決まっている。俺は今度こそ、ちゃんと死ななくてはいけない。今度こそ、ちゃんと、しっかり、起き上がったりなんかしないように、きちんと死ななくてはいけない。それが夏野にできる、俺の唯一の贖罪だった。どうやって死ぬのかは決めていない。自分で自分の胸に杭を打ち込むなんて無理だし、かといってほかにどんな方法があるのか、俺はよくわかっていなかった。頭をつぶせば死ぬのはわかるけれど、どうやってつぶせばいいのか見当もつかなかった。辰巳に聞いておけばよかった、と、少しだけ後悔した。
 痛いのはやだな、と、こんな時になっても自分の身がかわいくて仕方がない。痛いのは嫌だ、苦しいのは嫌だ、でもこれ以上、夏野がぼろぼろになっていくのを見るほうが嫌だった。がたがたと震え始める身体を抱きしめて目をつぶる。一番簡単なのは日に焼かれて死ぬことだ。一番苦しい死に方であることはわかっている。でもそれ以外思いつかなかった。丸焦げの死体がいったいどういった処理をされるのかは分からないけれど、きっとうやむやにされて終わるはずだ。だって俺はもう、死んでいる存在なんだから。もういない人間なのだから。バスの外を見上げる。都会でも星は見えるんだな、なんてそんな当たり前のことを、俺は今更思った。


 終点、終点、と告げるバスから飛び降りて、俺は目の前の光景を静かに見渡した。真っ黒な海だった。そういえば屍鬼は首を絞めても死なないけれど、溺死はできるんだっけ。そんなことをふと思った。真夜中の冬の海には人っ子一人いない。なんのために作られたのか分からない、コンクリートでできた海に突き出すようにある塊に座り込みながら、俺は目の前の暗闇を見つめた。灯台さえない海は本当に真っ黒だ。夏野の目の色みたいだ、とぼんやり思った。膝を抱えて海原を眺める。びゅうびゅうと吹き付ける潮風が頬に痛かった。皮膚が凍る音がする。もしかしたらこのまま凍死できるかもしれない。冷たい屍鬼が凍死できるかは分からないけれど、そうやって凍って、何もわからないままに火に焼かれて死にたいと思った。太陽が懐かしくて仕方がなかった。人間だったころ、夏野に、徹ちゃんって太陽が似合うよな、なんて言われたことを思い出した。夏野は今の俺をどんなふうに捉えていたのだろう。どういう風に見ていたのだろう。どんな感情を抱きながら、俺を数年間飼っていたのだろう。俺も夏野も、いつの間にか成人していた。でも俺たちの時は止まったまんまだ。ずっとずっと、止まったままだ。マフラーに顔をうずめると、うっすらと夏野のにおいがしてどうしようもなく安心した。
「夏野、」
 ごめんな。お前はきっと俺にそんなこと言われたら怒るよな。殺しといて何を、って、怒るんだろう。わかってる。でも言わせてくれ。ごめんな。ごめんな夏野。俺、お前のこと大事だったのに。大切だったのに。かわいい友達だと思っていたのに。親友だと思っていたのに。殺してしまった。殺すだけじゃ飽き足らず、自分とおんなじような化け物にしてしまった。怒ってるよな。恨んでるよな。それでいい、それでいいよ。許してくれだなんて、もう言わないよ。言えないよ。お前は逃げようって言ってくれたのに。何もかもを捨てて逃げようって言ってくれたのに。俺はその手を取れなかった。だからこれは仕方のないことなんだ。だからいいんだ。ごめんな、ごめんな夏野、でも、ありがとう。俺を生かしてくれてありがとう。俺、まえ、お前になんで俺を助けたんだって言ったよな。お前は黙りこくったまんまで、俺、そん時はてんぱっててお前の気持ち、わかんなかったけど、今ならわかるよ、お前も、なんで俺を助けたか、わかんなかったんだろう。でも、わかんないなんて言えなかったんだろう。お前、負けず嫌いだもんな。それでいて、まっすぐだもんな。だから、言えなかったんだろう。屍鬼は全員殺すって言っておいて、それをひたむきに遂行しようとして、でも俺を助けちゃったことに、自分も生きちゃってることに、矛盾を感じて、苦しかったんだろう。なあ、夏野。人間ってのは、いや確かに、俺たちはもう人間じゃあないけれど、でも、そうだな、感情っていうのは、そんな簡単なもんじゃあないんだぞ。黒か白か、だなんて、はっきりは決められないんだ。なあ、お前は、俺のために、今まで頑張ってきてくれたんだろう。あんなにぼろぼろになるまで、生きてくれていたんだろう。俺が死にたくないって、死ぬのが怖い臆病者だって、わかってくれていたから、手を引っ張ってくれたんだろう。お前にはわからない感情が、俺にはわかるよ。なあ、お前は、お前が思っている以上に、優しい人間なんだよ。優しい化け物なんだよ。なあ夏野、ありがとうな。臆病な俺に、今まで付き合ってくれてありがとうな。でも、もういいんだ。俺、そこまでして生きたかったわけじゃない。確かに死ぬのはめちゃくちゃ怖いけれど、でも、それ以上に、夏野をこれ以上ぼろぼろにさせるほうが怖い。もう俺、夏野なしじゃ生きていけないから、人の狩り方すら忘れてしまったから、もう、夏野がいなきゃ本当に生きていけないんだよ。そんな奴、そばにいたって、邪魔なだけだろう。なあ夏野、幸せになれよ。俺のことなんて忘れて、いっぱい生きろよ。人狼は、太陽の下でも生きていけるだろう。人の飯を食えるだろう。それを楽しめよ。長生きして、綺麗なものをたくさん見ろ。おいしいものをたらふく食え。そしていつか大切な人を見つけて、幸せになってくれ。俺のことなんて忘れて、村のことなんて忘れて、幸せになってくれよ。なあ、夏野、夏野、夏野、ごめんな、ごめんな、ありがとう、ありがとう、そして、

「さよなら」

 ぽたり、とまた目から滴があふれた。それはすぐに冷たい潮風に吹かれて、音を立てて凍っていった。目をつぶる。ああ、これでようやっと、俺は死ねるんだ。
 と、思った、その瞬間。

「徹ちゃん!」

 身体が吹っ飛んだ。比喩表現じゃない。マジで身体が宙に浮いた。ぐえ、と喉からうめき声が転がり落ちる。背骨が出しちゃいけない音を出して、曲がっちゃいけない方向に曲がった。呼吸をしていないくせに横隔膜が痙攣して、つかの間の無重力スパイラルを謳歌する。そしてそれは始まりと同じように、唐突に終わりを告げた。べしゃりと無様な音を立ててコンクリートに顔面から墜落する。うげげ、絶対鼻折れた、鼻血出てる。う、痛い、なんだこれ、凍死って実は投死の誤字だったりするのか? ぼたぼたと涙ではなく鼻血があふれる顔面をさすろうと持っていた手を、誰かが鷲掴む。皮膚を引きちぎらんとせんばかりの力で、骨が悲鳴を上げた。凍っていた頬が阿呆のようにぽかんとしたまま固まる。
 無理やり振り向かされた、その先。その光景に、俺はこぼれんばかりに目を見開いた。
「なつの」
「何やってんだよ」
 そこには夏野がいた。目をらんらんと金色に光らせた結城夏野がそこにはいた。
 どうしてここが、だとか、どうやってここまで、だとか、そんなこと聞くのも馬鹿らしかった。夏野は人狼だ。血を飲んだ人狼は、人間の潜在能力をはるかに凌駕した能力を発揮できる。身体能力、持久力、そして、嗅覚。夏野から夏野ではない人の血の匂いがした。それが意味することを、分からない俺ではない。
「夏野、」
「ふざけんなよ」
 夏野は明らかに怒っていた。いや違う、違くないんだけど、怒っている、とは、少し違う気がした。確かに、怒っていることは怒っているのだろう。だって夏野の目はぎらぎらと憤怒の炎をともしているし、俺の胸倉をつかむ手はぶるぶると震えている。でも、それだけじゃないことも明白だった。夏野は、きっと夏野自身もわかっていないだろうくらいに、泣きそうになっていた。俺だからわかる。俺じゃないとわからないのだろう。
 でも、俺はわかるよ、夏野。
 お前、今、泣きたいんだな。
 そこで俺は気が付いた。俺はもう夏野がいなきゃ生きていけない。でも、夏野もそうなのだ。夏野も、きっともう、俺がいなければ生きていけないのだ。夏野はもう、俺がいなければ息の仕方さえ分からなくなってしまうのだ。それに気づいて、俺はどうしようもなくなってしまった。もうどうしようもなくなってしまった。夏野、夏野、夏野。
 夏野。
「今度、逃げ出してみろ、あんたの家族、全員殺してやるからな」
「……うん」
 俺の胸倉をつかんだまま目をゆがませる夏野の頬をそっと撫でる。夏野は一瞬毒気を抜かれたように肩をすくめた。俺はそのまま、夏野の温かい頬を何度か撫でたあと、小さくつぶやいた。「ごめんな」「……うるさい」夏野の身体を抱きしめる。夏野は少しだけびくりと身体を跳ねさせたけれど、俺の身体を突き飛ばしはしなかった。ただただ俺になされるがまま、何をするでもなく俺を受け入れている。なあ、夏野。夏野の身体を抱きしめてその肩に額を載せる。
 なあ、夏野、夏野、夏野。ごめんな、俺、もうお前を手放さないよ。だから、お前も俺を手放さないでいてくれな。
 夏野の肩がじんわり濡れる。冷たくて悲しい水は服に吸い込まれて、すぐに凍っていった。夜が明ける。


2017/11/25