結局のところ、結城夏野に武藤徹は救えなかった。文章にしてしまえば一文で終わってしまう彼らの年月はいつの間にか十年に差し掛かろうとしていた。十年。赤ん坊がおぎゃあと産まれ二分の一成人式なんていうふざけた催しに参加するくらいには、二人はともにあった。しかし、ともにあった、というだけで、二人の間にそれ以上の何かがあったのかは甚だ疑問であった。村を出る前のあの灼熱の太陽に焼かれた地面を歩いていた頃ならまだしも、夜の帳に滑り込み細々と血液を啜って生きている今の二人に、そんなきらびやかな毎日があったかと言われれば否だ。自分たちの正体を知られぬよう転々と住居を変え、武藤徹は結城夏野がどこから仕入れてきたのか全く分からない血液を口にして今日という日を無事に迎えていたし、結城夏野のほうはと言えばどうやって生きているのか分からないながらに十年を生きてきた。そんな感じで、二人は生き延びていた。ただこの場合、武藤徹は動く死体として生きてきたので、もしかしたら死に続けていたという表現のほうが正しいのかもしれない。
 二人の十年はとてもじゃないが幸せというものからはちょっと道を踏み外していて、もう戻るべき道も分からぬほどに入り組んだ蛇道に這入り込んでしまっていた。ヘンゼルとグレーテルのようにパン生地を少しずつ削って落とすことも、小石を道しるべとすることもなかったから、当然二人は路頭に迷った。と言っても生活はできていたので、本来の意味での路頭に迷うというより、生きていく上での路頭に迷ったというべきか。二人とも、生きるという意味を見出せるほど大人でもなかったし、子供でもなかった。見た目につられたのか、それとも人と接していなかったからなのか、武藤徹は自分が成長しているという意識がとんとなかった。結城夏野のほうがどうであったか、武藤徹は知らない。ただ日々ぐるりと、まるで絵具細工を幼児が混ぜ込んだような色彩をにじませる両目がなんの感情も映し出していないことを見ると、結城夏野もおそらくそう変わらぬ毎日だったのだろうと思った。とにかく、二人は世界でふたりぼっちになっていた。そして二人は会話すら、目線を合わせることすらしていなかったのだから、ふたりぼっちなのにひとりぼっちだった。
 武藤徹の毎日は味気ない。毎日テレビを眺めているか雑誌をめくっているか、吸えもしない煙草をくすぶらせているかのどれかである。外に出ようと思ったことがないわけではない。だがいざ鍵もかかっていない扉の前に立つと、見えない白く冷たい無数の手が武藤徹の足をつかんで離さなかった。ここから逃げてどうするのかと。人の狩り方すら忘れた鬼がどうやって現世を生きていくのかと、その手が嘲笑う。武藤徹は見たまんまに臆病な男であったから、その嘲笑を聞いて、やっぱり来た道、というか廊下を戻っていつもの定位置に戻るしかなかった。武藤徹は自分が自分で思うよりよっぽど臆病であることをその時知った。自分の不甲斐なさはあの村で嫌というほど痛感したつもりでいたが、結城夏野との生活でもっともっと、自分でも呆れてものもの言えなくなるほどに自分という男が臆病であると知った。こうして自分の手を取って村を飛び出した結城夏野に対して何かを言うことも、何かをすることもできない。ただただ与えられる血液だけを啜って生きている。
 なんて醜い。武藤徹は冷たい涙を流した。四角い箱の中では幸せそうな家族が夕食をつついている。
 そんな生きているのか死んでいるのか、いやこの際、この男はとうの昔に死んでいるのだが、まあよい。武藤徹が死に続けていた中で、ある日転機が訪れた。結城夏野が瀕死の状態で帰ってきたのである。よくもまあ帰路の道中で通報されなかったものだと驚くほどの状態であった。左腕は千切れており、右腕もかろうじて繋がっていて持ち前の回復力で治癒している様子であった。右太ももの骨がぽっかりと見えており、左足も引きずっていた。何よりひどいのはその両目であった。両目ががらんどうのように穴を開けている。人狼だからこその嗅覚でどうにかこうにか帰ってきたのだろう、結城夏野は玄関を開けた瞬間、むっとするほどの血の匂いをさせて玄関に倒れ込んだ。武藤徹は悲鳴を上げた。ただ結城夏野にその悲鳴が聞こえていたのかは、甚だ疑問である。
 武藤徹は村を逃げ出してから初めて結城夏野に触れた。その肌は体温を持つ人狼にはあるまじき冷たさだった。結城夏野は何かを言おうと口を開けた。その瞬間、ごぽりとおびただしい量の血があふれ出した。
 舌がない。
 武藤徹はまた悲鳴を上げた。ぼろぼろと冷たい涙を流しながら結城夏野の身体を揺すり続けた。
 結城夏野はやはり何かを言おうとしている風であった。しかし言葉を紡ぐための舌をもぎ取られた彼に言の葉が宿るわけもなく。彼は言葉を言うのをあきらめたのか、血を吸って重くなったコートからごとりと一つ、何かを取り出した。それは今結城夏野の身体を彩ってやまない赤色だった。中身がちゃぷんと波打って小さな音を立てる。武藤徹はそれを見て息を呑んだ。
 結城夏野は欠けた指で(武藤徹はこのときはじめて、結城夏野の指が右の人差し指を除いて切断されていることを知った)フローリングに何かを書き始めた。それは住所のようであった。
 武藤徹はそれを見て、次の自分の飼い主の居場所を直感的に理解した。そう、飼い主である。自分を新たに飼う人物がいることを武藤徹はその時初めて知った。なんてことはない、結城夏野はいつかこうなる日がくることを分かっていたのである。そのための保険を、明敏な彼はちゃんとかけていたのだ。そしてそれを今日、今、この瞬間使った。それだけの話である。
 結城夏野は文字を書き終えると、やっぱり何かを言おうとして口を開いた。だが所詮は舌切り雀、彼は何も言えずに血液だけをその口からこぼれさせるだけだった。
 武藤徹が彼を抱きかかえる。触れた重さはその体躯に見合わぬ軽さだった。
 武藤徹は何も言えなかった。ただただ震えて、結城夏野の身体を抱きしめるしかなかった。
 結城夏野の一本しかない指が武藤徹の頬を撫でる。肉がむき出しになった掌でその感触を肌に縫い付け、その存在をその魂に刻み付けるかのように、結城夏野は一心に武藤徹の頬をなぞった。
 そして結城夏野は、舌のない口を、武藤徹の唇につけた。武藤徹は一瞬驚きこそしたものの、それを甘受し黙って結城夏野の冷たくなった唇に触れた。長い長い時間だった。いつの間にか、結城夏野の息は止まっていた。
 武藤徹は結城夏野を抱えてリビングへと向かった。そしてフローリングに彼を横たわらせ、煙草をくすぶらせていたマッチを手に取った。そのまま赤リンを擦る。真っ赤に燃え上がった棒をカーテンに落とし、彼は結城夏野の隣に寝そべった。あの日自分たちを燃やそうとした業火か、今は聖火のように思えた。

 なあ、夏野、夏野。

 武藤徹は物言わぬ死体となった彼に声をかけた。いとおしむように指の欠けた手を握り、冷たくなった身体に寄り添う。ごうごうと耳元でカーテンが燃える音がする。
 武藤徹は目を閉じた。結城夏野の隣で目を閉じた。
 武藤徹は何かを言おうとして、やっぱり何も言わずに口を閉じた。この時に、言葉が必要だとは思えなかった。武藤徹は何も言わずに結城夏野の手を握った。それだけで、二人にとっては充分であった。この二人の十年間を表すには、充分すぎた。


 そんな感じで、結城夏野は武藤徹を救えなかった。また、武藤徹も結城夏野を救えなかった。文章にしてしまえば、そんな一文で二人の物語は終わってしまう。ただ、そこに何か無粋な誰かが入らなかったのは、幸いなのかもしれない。二人の物語は、二人で完結したのである。



2018/07/04