……え? この絆創膏は何かですって? あなた、デリカシーないのねえ。女性、それも夜のバーで一人で飲んでる相手に向かって、そんなこと訊くだなんて、私が相手じゃなかったら今頃、その無精ひげだらけの横っ面、ひっぱたかれても仕方ないわよ……よかったわね私が優しくて……そしてへべれけになっていて……私、こう見えて気が強いから、素面だったらやっていたかもしれないわ……オホホ……早々にコニャックを出してくれたマスターに感謝なさいね……。
 で、絆創膏、だったかしら? そうねえ、逆に貼ってしまったからこそ、あなたみたいな変なお人に絡まれてしまったわけだけれど、あなたが想像しているようなことはナァンニもないわよ……アラ、もしかしたら、なら僕が、とか、そういう誘い方だったのかしら? 気づかなくってごめんなさいね……でも私、あなたみたいな年上の男はあまり好かないのよ……こう、小さくて、細っこくて、可愛い男の子のほうが好きなの。あらやだ、ペドフィリアなんかじゃあないわ。そんな大それたものなんかじゃなくて、こう、なんていうのかしらねえ、少年の、あの、成長途中の儚さが好きなのよ。日本人って、そういうの、好きじゃない。すぐ散ってしまう桜だとか、あっという間に溶けて水になってしまう雪だとかが……。もちろん、少年じゃなきゃ欲情しないだとか、そこまで拗らせた性癖を持ち合わせてるわけじゃあないわよ。ただ単に、可愛がるなら男の子のほうがいいってだけ……私、男は可愛がりたいたちなのよ。
 ……そういう意味じゃない、ですって? じゃあなんで、そんな勘違いされても致し方のないようなことを訊いたのよ。癖? お医者様なの? ヘエ……今の病院ってゆるいのねえ。だってホラ、あなたのその髭、トテモじゃないけれど医療従事者とは見えないわよ……フフフ……お酒のせいかしら、なんだか気分がよくなってきちゃったわ、いいわよ教えてあげる。そのお髭も、とっても可愛いものに見えてきたわ……あなた、歳はおいくつ……エッ、そんなにいってるの……大して私と変わらないくらいかと思ったのに……あとでその若作りの秘訣、教えて頂戴ね……。
 エエト、なんの話だったかしら……そう、この絆創膏だったわね、なんてことないわ、ちょっと虫にかまれちゃったのよ……悪い虫って意味じゃあないわ、本当のただの虫よ……朝起きたらこんなになってて、それでちょっと具合も悪いから、いったい何か病気でも移されたんじゃないかって気が気じゃなかったんだけれど、お昼くらいにはそんなのもなくなっちゃったから、正直あなたが指摘してくれるまでスッカリ忘れていたわ……ただの貧血だったのかもしれないわね。でも、なんという虫なのかしら……腫れるでもなく、かゆくなるわけでもなく、ただただ二つの穴がぽっつりと空いているだけなのよ。なんだか吸血鬼に噛まれたみたいだわ、だなんて髪を梳かしながら零したら、ほんとにそうかもよ、なんて笑われちゃってねえ……ハロウィンも終わったのにうろつく吸血鬼なんていないわよね……あんなの渋谷だけで十分だわ……。
 誰かと同居しているのか? いえ、フフ、いえ違うわ。同居人ではないのよ。一夜をともにした相手ってやつよ、フフ。といっても、本当に寝床を提供してあげただけなのだけれどねえ。あなた、警察に通報とかしないで頂戴ね? ちょっとその子、訳ありらしいのよ……気分がいいから特別に教えてあげる……いいわね、特別って言葉……女っていうのは、そういうものに弱いのよ……マスター、私と彼にキールを……私の奢りよ、お医者様……ササ、お飲みになって……。
 ……アア、オイシイ……身体もいい感じに火照ってきたわ……フフ、なんだかこのお酒も、血の色みたいねえ……私、あの子に血でも吸われちゃったのかしら……それも悪くないわ、あんなに綺麗な子に殺されるなら、私、本望よ。
 ねえ、今日はいやに天気が良かったけれど、昨日はそれが嘘みたいな土砂降りだったでしょう? 突然降るもんだから、私折り畳み傘しか持っていなくて、スカートもストッキングもパンプスもびちゃびちゃにしながら帰ったの。もっとしっかりしてよ天気予報、なんてぶつくさ言いながら家に向かっていたらねえ、私とおんなじように濡れた靴が視界に入ってきて、おやと思って顔を上げたのよ。別に靴が濡れているのなんておかしかないわ。きっと長靴だって水が溜まるくらいの大雨だったじゃない……なんで私があそこで顔を上げたのか、今でもよく分からないわ、でも何故か、俯いて一直線に家路に向かっていた足を、私、そこで止めたのよ。どうしてかしらねえ、本当に不思議だわ……でも顔を上げて、私ハッとしたのよ。顔を上げた自分を心から褒め称えてあげたいくらいだったわ。だってそこにいたのは、目がとろけてしまいそうなほど綺麗な男の子がいたんだから。
 そう、男の子。男の子だったわ。高校生くらいの線の細い男の子。闇夜に紛れてしまいそうな黒いコートを羽織って、その子、土砂降りの中ぽつねんと立っていたの。街灯のそばじゃなかったらきっと気づけなかったわ。それくらいに、消えてしまいそうに儚い雰囲気を持った子だった。
 男の子は傘も差さずにぼうっとそこに佇んでいた。何をするでもなく、ただただ虚空を見つめていた。こんな夜、それも冬ではないけれどそれなりに冷えるこの季節に何をやっているのかしら、と眉をひそめたわ。家出かしら、とも思った。でも、なんでかしらねえ、本当に、私、彼を放っておけなかったのよ。いつもなら私、絶対声をかけなかったわ。たといそこで足を止めたとしても、すぐに歩き始めて、きっと録画していたドラマの続きでも空想していたはずなのに、本当、何故かしら……私、彼に声をかけたのよ。どうしたのって。
 彼は声をかけられたことでようやく私の存在にでも気が付いた、とでもいうように、その割ずいぶんゆったりとした動作で私を見上げたの。その目はまるで宝石みたいに美しい紫色だったわ。でも、その子の目、不思議だったのよねえ。家に上げた時、一瞬金色になったようにも見えたし、本当に真っ暗闇では赤く光っていた気もした。カラーコンタクトだったのかしら……。
 その子は少しだけ私の顔をじいっと見つめてから、ふいと目をそらして、こう言ったわ。帰る家がないって。ああやっぱり家出だったのかしら、となんとなく昔の自分と重ねてしまって。私、こう見えて昔は不良少女だったのよ……いや違うわね、あれはただの反抗期だわ、親が、学校が、環境が、自分が気に入らなくて、目に入るもの全てに当たり散らしていたわ。家を飛び出すことだってしょっちゅうだった。
 でも、何故かしらね、その子、なんだか私のそういったものとは違った気がしたのよ。ただの家出じゃないんじゃないかしら、って。だって、そんな一時の激情に身を任せて飛び出した子があんな儚い雰囲気をまとうかしら? 大粒の雨が降っているというのに、額に張り付いた髪をどかすことも、濡れた頬を拭うこともせず、その子、ただじいっと、誰かを待っているかのようにそこにいたのよ……なんだか私、切なくなっちゃって。つい言っちゃったの。なら、私の家に来る? って。そこでもしその子が大声でもあげたもんなら、私、今ごろ警察署にいるのかしら……笑っちゃうわよね、ほんと。
 その子は私の言葉に、ゆるり、と端正な顔を持ち上げたわ。そして少し躊躇うようにしてから、いいの、って訊ねてきた。人に頼ったことがあまりない少年の声だった。甘いような、それでいてどこか物悲しいような……。
 私は笑顔で、その子を安心させてあげるように頷いた。ああいうのを母性というのかしら? まだ子供を持っていない私だけれど、やはり女ね、放っておけなかったのよ……取って食おうだなんて、そんな気はこれっぽっちもなかった。ただ、助けてあげなきゃと思ったのよ。助け、とは違うわね。なんというのかしら、こう、難しいわね……そうね、なんだか本当に、放っておけなかったのよ。ここで私が声をかけなかったらこの子、ずうっと、このまま冷えた身体をそのままにして死んでしまうんじゃないかって怖くなったの。
 家に帰るまでの間、私、いくつかその子に質問したわ。どうやらその子、両親はもうとっくの昔に他界していて、親戚の家をたらい回しにされているんですって。自分は愛想がいいわけじゃないから馴染めなくって、つい家を飛び出してしまったって。嘘みたいな話でしょう。いいのよ、嘘でも。でも、その子の言葉にはどこか説得力があった。その話自体にじゃないわ。そういう、ドラマや小説みたいなことを体験して、絶望して、失望したような、そんなまっさらな目をしていたんだもの……それでいて、どこか芯の強そうな、悲しい目をしていたわ……だから放っておけなかったのかしら……フフ、悪い男をひっかけないように気をつけなきゃあね……。
 家について、さあお入り、と言ったとき、彼はもう一度、念を押すように本当に入っていいのかと私の目を見たわ。なんだか不思議な目だった。私が勿論よと言えば、彼は先ほどの言動を忘れさせるような足取りですんなり入ってきたわ。マァ、彼の年齢を考えれば致し方ないかもしれないわね。昨今じゃあ、女だって危ない生き物だもの……いえ違うわね、昨今、なんかじゃあないわ。昔っから女っていう生き物は恐ろしくておぞましい生き物であるということに、ようやく世間の殿方が気づき始めた、という表現のほうがあっているかしら……彼も男の子だし、女の部屋に男が上がるということ自体にも緊張してしまっていたのかもしれない。でも彼は、行儀よくきちんと玄関に入って、私がタオルを持ってくるまでそこでじいっと、やっぱり待っていたわ。閉じた扉に少しだけ視線をやって、渡されたタオルに礼を述べた。傘を持っていた私なんかよりずっと濡れていたから、先にシャワーを浴びるように彼に言ったわ。着替えならつい最近出て行った男のものがあったし気にしないで、と言って。流石に下着まで使用済みを渡すのは失礼だったから、新品のものを用意したけれど……。
 彼はもう一度頭を下げて、そさくさと浴室に消えていったわ。ついチェストの中のコンドームを確認してしまったけれど、多分彼とはそういう雰囲気にならないだろうなという確信が私の中にはあった。何故かしらねえ、やっぱり私、少年を鑑賞するのが好きなだけなのよ……神聖なものを見るのが好きなの……綺麗なものって、いつまで眺めていても飽きないじゃない……それと同じだわ……。
 私と同じシャンプーの匂いをさせて、彼は出てきた。明るい照明の下で見た彼はやっぱり綺麗で、美しい少年だった。成長途中の身体で持て余したスウェットを引きずりながら、彼はもう一度私にありがとうと言った。私は笑いながら気にしないでと告げて、テレビでも見てて待っていてと脱衣室に向かったわ。流していたドラマは先週やっていたものよ。確か映画化もコミカライズもされていて、結構話題の……そう、それよそれ。確か、曰くつきの小説が原作だったかしら……なんで二十年もたった頃にドラマ化なんてしたのかしら……それだけドラマのネタが尽きてきてるってことかもしれないわね、アハアハ……。
 なんだかあんな美しい少年に女のすっぴんを見せるのは少し勇気が必要だったけれど、よくよく考えてみれば私と彼は今からセックスをするわけでもなんでもないのだし、そもそも私だって雨のせいでそれなりに崩れた顔をしていたのだから、と気にせずにリビングに戻れば、箱の中の最近売れ始めた俳優が何かを叫んでいるところだった。でも、見れば見るほどあれ、よく映像化したわよねえ……スペシャルドラマだとしても、やるもんじゃないと思うわ……あんな、辛気臭いもの……。
 彼は私に振り返ると、また深く頭を下げたわ。本当にありがとうございますって。そのぴんと伸ばされた背筋にまた見惚れてしまって、気にしないで頂戴と私は誤魔化すように笑った。もう私は会社で軽く済ませてしまったし、こんな時間だからと食べるつもりはなかったけれど、この子はどう見ても食事を済ませている風には見えなかったから、即席の炒め物を作ってあげたわ。大したものじゃなかったけれど、彼は人の作った食事は久しぶりだと言って美味しそうに食べてくれた。でも少年らしい食べ方じゃあなくて、なんというのかしら、やっぱり洗礼されたものをどこかに感じたわ。嘘か本当かわからない彼の生い立ちを考えれば、致し方ないのかもしれないけれど、なんというのかしら……その子、なんだかちぐはぐだったのよ。少年の身体をしているのに、どこか老成してて、そのくせ子供特有の儚さを持っているような、そんな不思議な……その整った容姿も相まって、もしかして人間じゃあないのかしら、なんてそんな馬鹿な考えがうっかり浮かんできてしまうくらいには……。
 私と彼は勿論何もせずにそのまま眠ったけれど、そういえばテレビを消す時にその子、変わったことを言っていたわねえ……あの人、こんな話を書いていたのかって。あの人ってだあれ、と訊いたけれどなんでもないって袖にされちゃって……あの子の目が赤く見えたのはその時よ、パッと電気を切ったら、なんだかまるで血を透かしたような赤に見えて……すぐにその子も目を閉じてしまったから、結局わからずじまいだけれど……恐ろしくなかったか、ですって? 恐ろしいもんですか。むしろ、あのルビィのような目をもう一度見れないか、だなんて思ったりもしたのよ……アァ、だから見せてくれたのかしら……。
 あの子ね、深夜に私を覗き込んでいたのよ。どうして目が覚めたのだったかしら……もう本当に真っ暗な中で、何故か私、パッと瞼が上がったのよ……。……ああ、そう、そうよ、何かに刺されたみたいに、少しだけ首が痛んで……その時に虫に噛まれたのかしら……。
 でも、私を覗き込んでいたのは本当にあの子だったのかしら。あの子にしては背丈があったように感じたのよ。目の形も、彼の猫みたいに吊った目じゃなくて、人を安心させるような優しい垂れ目だった気もするわ。マア寝ぼけていたから、大してあてにならないけれど……真っ暗な部屋の中でその目だけが赤く光っていて、本当に綺麗だった……。朝確認してみたけれど、そんなことしていない、夢でもみたんじゃないかって寝癖をかきながら彼は言ったわ。確かにそうよね、人の瞳の色がそんなに変っちゃあ堪ったもんじゃないわ……。
 結局彼は私が出勤する時に一緒に家を出て、それっきりよ。携帯番号も聞いていなければ年齢も聞いていない。もう二度と会わないのだろうなという確信が私の中にあった。行きずり、とは違うけれど、なんだか不思議な出会いよね……。私は彼に別れ際に少しのお金だけ渡して、ご家族と仲良くねと言った。彼は努力するよと自嘲するように笑ったわ。私が見た彼の少年らしい笑顔は、それだけ。簡単に人を家にあげちゃいけないよ、とも言われたわ。吸血鬼に襲われても知らないよ、って。不思議な子よね……本当に……私も、なんであんなことしちゃったのかしら……。後悔なんて少しもしちゃいないわ。ただただ不思議なのよ……なんでなのかしらって……。
 ね、面白いお話でしょう? この話をするの、あなたが初めてだわ……昨日の今日だから当たり前なのだけれど、何故かしら、誰にも言っちゃいけない気がしたのよ……なんだか神聖なものを汚してしまいそうな気がして……。
 ……どうしたのお医者様、顔が怖いわよ……。エ? その少年は今どこにって……さっきも言ったでしょう、連絡先なんて聞いてないわ……今朝がた別れたばかりだから、そう遠くには行ってないとは思うけれど……。名前? あらやだ、名前くらいは聞いたわよ……その容姿にあった綺麗な音だったわ。


 確か、夏野って言ったかしら。



2017/11/18