俺が飛び降り自殺をはかったというのは確かなことらしい。脳みそが飛び出ることも眼球が転がり出ることも骨が皮膚を突き破ることも血管がちぎれることもなかった(いや、本当はそういうことがたくさんあってもうグロテスクなんてもんじゃないくらいの勢いだったのだけれど、どうやらすぐに治ってしまったらしい。どうなっているんだ俺の身体は)から、どうにもその感覚は薄い。俺の手当てをしたと主張する無精ひげの生えた医者は、噛んだ苦虫の中にゴキブリでも混ざりこんでいたかのような顔で俺にとつとつとそのことを説明した。もう二度とあんなことはするんじゃないといわれたところで本人にその記憶がないならば反省のしようもない。ただ、その人が仏頂面ながら俺のことをそれなりに気にかけていることは察せられたので素直に頭を下げた。それを見て、本当に記憶がないんだな、と、先生は無感情に言った。淋しさだとか、悲しさだとかが滲んでいなかったのは幸いかもしれない。自分の命の恩人にそんな感情を湧かせることは本意ではない。
 さて、俺の記憶がないということだけれど、そう、本当にないのだ。自分が誰で何者で今が一体何年何月何日なのか、ここがどこなのか、目の前の医者との関係はなんだったのか、すべて覚えていない。飛び降りた理由も。覚えていないものは仕方がない。思い出せる日が来るかもしれないけれど、どうやら先生はあまりそれを望んではいないようだった。なんとなくそんな気がする。点滴の刺さる左手を眺めていると、それももう外していいな、と先生は独り言のように呟いた。そしてそのまま針を引き抜いた。つう、と一筋だけ流れた血が床に落下する前に小さな丸い傷は音もなく消えていった。記憶喪失とはいえ俺でもわかる。こんなにすぐ傷が治るのはおかしい。困惑するように眉をひそめると、君の身体は傷の治りが早いんだ、と先生はやっぱり仏頂面でそう言った。早いどころの話じゃないと思うけど、と返すと、そんな人間がいてもおかしくないだろ、と先生はぞんざいに嘯いた。これ以上この話をするのはお互いのためにならないと察して、俺は口を噤む。納得したとは思われていないようで、先生は何かを言おうとして、でも結局その口で煙草を咥えて押し黙った。ありがたかった。
 俺は先生と二人暮らしをしているらしかった。どういう関係? と尋ねたら共犯者だと答えられた。先生は犯罪者だったんだろうか。確かに医者にしては人相が悪い。そう言ったら君だって、と先生は言い返そうとして、でもまじまじと俺の顔を見てから、今はそうでもないか、と自分で何かを解決させてまた紫煙を吐き出した。何がそうでもないのだろう。昔は俺も人相が悪かったんだろうか。渡された鏡で見た自分の顔は少年の顔をしていた。十五歳くらいだろうか。先生に訊いたらだいたいそのくらいだと返された。だいたいってなんだ、だいたいって。目の色がくるくる変わるのが興味深くて鏡をじっと覗き込んでいたら、君もそんな顔をするんだな、と先生は感情を載せない声でそう言った。そんな顔って? 俺が訊いても、先生は答えてくれない。ただ静かに煙草を吸っている。
 二人暮らし、と言ったけれど、実質二人暮らしというより、お互い空間を共にしているだけというようなドライな関係だったらしい。俺が暇だから料理をすると言ったとき、まるでお茶碗が自分の意志を持って米を炊き始めるのを目撃したような顔をされたからそうだと思う。俺はどうやらこの医者のヒモだったようだ。いや、十五歳ならヒモというより養ってもらっていたという表現のほうが正しいのかもしれない。意味合い的には、ヒモとたいして変わらないけれど。
 先生は滅多なことでは家に帰ってこない人種らしかった。医者という職業上仕方ないのかもしれないけれど、もしかしたら俺と会いたくないのだろうか、と一週間ほど顔を合わせない日々を送って思った。俺と先生の顔はどう見ても似通っていない。肉親とは思えない関係は、記憶をなくした俺にとっては不可思議にしか映らなかった。他人からしてもそうなのだろう、俺と先生が並んで歩いているのを見た人たちは不思議そうに俺たちを眺めていた。よくもまあそんなに他人のことに興味が持てるな、と俺は思った。それを口にしたら、そういうところは変わらないんだな、と先生は煙草を吸った。この道禁煙だよと言うと知ったことかと返された。こういう人が喫煙者のイメージを悪くするんだろうなと思って口にくわえていた煙草をひったくって指で火を消した。少し熱い気がしたけれど、やけどはやっぱり音もなく治っていってそこになんの痕跡も残さなかった。俺みたいだ、となんとなく思った。どうしてそんなことを思ったのか、全く分からなかったけれど。
 今日も今日とて帰ってくるんだか帰ってこないんだか分からない先生のために夕食を作る。と言っても、俺はどうやら本当に記憶を失う前はキッチンに立ったことがなかったらしく、包丁を持ったところで自然とレシピが浮かんでくるようなことがなかったので、先生に渡されたスマートフォンで簡単なレシピを探してそれを参考に飯を作る。十五歳の子供が作る料理ということもあって、お世辞にもよだれが出るほどうまいということはないけれど、先生はそれで構わないらしい。人の作った飯なんて久しぶりだ、とこぼしていたから、本当に俺と先生の関係が分からなくなる。味見をしたら塩気が多すぎた。まあ先生どうせビール飲むからいっか、と思ってそのままトマト缶をぶち込む。果たしてこれを料理と言っていいのかはなはだ疑問だけれど、食えればいいだろとどうでもよくなる。
 湯気が立つパスタを皿に盛って一人で食事をする。先生は馬車馬のように働いているだけあって金持ちなのか、このマンションの一室は二人暮らしをするには大きすぎる。部屋が余ってるくらいだ。ここが君の部屋だよ、と通された部屋にはソファ以外何もなかった。俺、ソファで寝てたのか。よく身体痛めなかったなと思ったけれどよくよく考えたら飛び降りても点滴を引っこ抜いてもすぐに傷が治ってしまう体質なのだから寝る場所なんていっそのことコンクリートの上でも大丈夫なのかもしれない。一人でパスタを啜りながらあけ放ったままの窓を見る。風がないのかカーテンは全くなびかない。
 先生は、俺がどうして死のうとしたのか実は知ってるんじゃなかろうか。それは初めから思っていたことだった。先生は俺に事の顛末、つまり俺が飛び降り自殺を図ったということを告げるときも淡々としていたし、そして何よりこうして俺を一人にすることに何の抵抗も抱いていない。それって、もう俺が死ぬ気がない、死ぬ理由がないってことを分かっているからだ。まあ確かに、記憶がないのだから死ぬ理由も何もないのだけれど。タバスコを少しだけかけたパスタをフォークでくるくると巻き取る。どうして俺は死のうと思ったのだろう。どうして飛び降りようとなどと思ったのだろう。自分のことながら不思議だ。記憶が戻ったらその理由もわかるのだろうけれど、飛び降りてからもう半年も経っているというのに俺の脳みそが突如記憶を取り戻すことはなかった。記憶喪失というのは精神面も深くかかわってくるとテレビで見たから、そういうことなのだろうか。俺は、俺が死のうとした理由を思い出したくないのだろうか。全ては飛び降りた先のアスファルトに溶け込んでしまった。
 その日もなんにもない一日だった。適当に買い物をしに行って、帰ってくるんだか帰ってこないんだか分からない先生のごはんを作ってなんとなくテレビを見て。パスタをゆでる段階になってキッチンタイマーの電池が切れていることに気が付いた。まあいいかと思ってお湯にパスタをぶち込む。どうせ先生は今日も帰ってこない。自分のためだけだと思うとどうにも料理は雑になる。ぐつぐつと煮込まれているお湯をなんとなしに眺めているとチャイムが鳴った。先生じゃない。先生はチャイムなんて鳴らさずに鍵で扉を開けるから。誰だろう。宅配かな。判子どこだろう、サインでいいかな。そう思いながら扉を開けた。背後でお湯があふれて火にかかるじゅーじゅーという音がする。
 果たして、扉を開けた先にいたのは先生でもなければ宅配業者でもなかった。俺より背の高い男だった。普段は柔和だろうと思わせる顔を強張らせて、扉を開けた俺を凝視している。誰だろうと思った瞬間につきりと海馬が痛む。煮ているパスタと同じようにぐつぐつと熱を孕んだそれは外耳道を辿って耳から放出され、ぼたぼたと玄関先に滴り落ちる。誰だ、と思った(思った?)。
 目の前の男は(男?)俺をじっと凝視して、かさついた唇で俺の名を呼んだ。そしてそのまま俺を抱きしめる。ぎゅうぎゅうと、俺の骨を粉砕しようとしているのかと訝るような力だった。
 男は夏野、夏野と俺の名前を呼び続けた。やっぱりここにいたんだなと涙声で言った。呆然としながらその抱擁を受け入れる。人に触られることは好きではない。だというのに、なぜかこの男を突飛ばそうという気は起きなかった。いったい、この人は誰なのだろう。ぼんやりしながら抱き竦められていると、涙を両目にたたえた男はそっと俺を離した。俺の肩にその両手を置きながら、やっぱり生きてたんだな、あの日見たのは見間違いじゃなかったんだ、と震える声でつぶやく。やっぱり生きていた? この人は、俺が飛び降り自殺をはかった現場にでもいたのだろうか。首をかしげて、傾げた際にぶつかった左手の感触に、耳朶が悲鳴を上げる。温かい指の中で、それだけが氷のように異彩を放っていた。無意識に視線がそこに向く。そして、あ、と思った。
 あ、ああ、あああああ。
 そうか、そうか。男の薬指に光る銀色を眺めながら、過去の自分に同調する。記憶がないのに同調する。
 俺、これがあったから自殺しようと思ったんだ。何も思い出せないはずなのに、夕暮れの中で女の人と仲睦まじく歩くこの人の姿だけが鮮明に瞼の裏に映し出される。幸せそうな横顔。光る薬指。つながれる手。大きくなった女の人の腹。
 お前が何になってしまったとしても構わない、と男は涙声で言った。もう両目が溜められる量を子超えたのか、だくだくと涙を流しながら男は俺の肩を強く握る。

 だって、お前は、俺の親友だろ。

 ぱきん、と何かが壊れた音がした。そうか、そうか。俺よりだいぶ高くなってしまった男の顔を見上げる。俺、あんたのこと好きだったんだよ、だから死に物狂いで戦ったんだ、あの村で。ばらばらになった俺の何かがどこかから零れ落ちて、それは甲高い音をさせて玄関に落下した。気づいたときには俺は男を突き飛ばしていた。悲鳴のように俺を呼ぶ声がする。俺はそれを振り払いながら、一直線に開け放たれたままの窓に駆けていた。ああ俺、本当にあんたのこと、好きだったんだよ、徹ちゃん。二度目の落下で最後に見た景色は、絶望しきったような徹ちゃんの顔だった。笑った顔がよかったのに、とぼんやり思う。今度こそ、ちゃんと死ねるといいな。ね、先生。


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2018/06/12