※いろいろとごっちゃ。
※パロ過多。
※ふわっとお読みください。


 、と思ったときには遅かった。夏野の目が大きく見開かれ、猫のように吊り上がった眦が数秒後に剣呑にゆがむ。あわわ、と何かを紡ぎ出そうとして結局空気の泡しか出さなかった俺の横っ面を、夏野はきっかり五秒後吹っ飛ばした。それも足でだ。綺麗なフォームの見事な回し蹴りだった。げぶぼ、と不可思議な呪文を唱えながら哀れな吸血鬼が一匹、壁へと放物線を描いて飛んで行った。というか、俺だった。衝撃で横隔膜が震え、胃が痙攣する。何かを吐き出そうとして、でも結局吐き出せたのは血液臭い冷たい唾液だけだった。ぶつかった際に歯が口の中をえぐったのか鉄の味となんとも言えない苦味が口内をまさぐっている。気持ち悪くてんべ、と吐き出したら白食て小さな粒が転がり落ちた。歯だった。
「夏野」
 床にへたり込んだままの俺を夏野が見下ろしている。いや表現的には、見下していたのかもしれない。どちらでも構わない。手の甲で口周りを拭う。夏野が起こっていることは明白だった。謝る気は、勿論ない。だって俺が言ったことは、どうしようもなく正しくてまっとうなことなのだ。だから夏野も、口ではなく足が出てしまったのだろう。反論するすべを持たなかったら、反撃するしかなかったのだろう。そのことが、まだ夏野にも幼さが残っている証拠に思えて弱弱しく笑う。なあ夏野、なあ夏野、さっきも言ったろ。早く俺を捨てろ、ってさ。


 たい、と夏野がつぶやいた。俺は読んでいた雑誌から顔を上げて、どうした、と夏野の薄い背中に声をかけた。我が物顔で俺のベッドを占領している女王様の顔はうかがえない。俺の声を無視して、夏野はもう一度、いたい、と言った。痛い、なのか、居たい、なのか、遺体、なのかは、馬鹿な俺では分からなかった。再度、夏野はいたいと言った。そうか、と返すことしかできない自分を、不甲斐なく思った。


 ちに夏野が入り浸るようになったのはいつからだろう、とふと思ったことがある。いつ頃から夏野が俺になついてくれたのかも、案外うすぼんやりとした記憶で明確な日付は覚えていなかった。それだけ自然に、夏野は俺の生活の中に滑り込んできた。最初は借りてきた猫のようにおとなしかった夏野は、今やお前の実家かここはとでも言いたくなるようなくつろぎ具合を展開している。今だって俺のベッドでアイスを食べながら雑誌なんて読んでるし。それも寝転がって。ううん。「そういや、夏野のご家族、近々越してくるんだろ」最近噂になっている件のことを口にすれば、夏野は不機嫌そうに剣呑に眦をゆがめた。「来なくていいのに」「こらこら」思春期の子供らしい言い分に苦笑すれば、夏野は本当に、本当に嫌そうに、いや、嫌そうに、じゃない、嫌悪と、何か別の感情を塗り手繰った顔で、俺を穿った。「本当に、来なくていいのに」ぱきん、と夏野がくわえていた棒アイスが折れた。夏野の家族である桐敷家が越してくる、一週間前のことだった。


 が折れた。そりゃもう見事に、包丁の柄が折れた。ぱっきりと、真っ二つに。そしてそれをさらに粉々にするように、夏野の鉄拳が空を切った。遮るものがなかった夏野のこぶしは綺麗な直線で俺の手から零れ落ちた包丁に直撃し、乾燥した音を立てて崩れ落ちた。残ったのは、粉々になったプラスチックと、煌々と輝き小さな礫となった金属だけだ。それが床にすべて散らばる前に、先ほど包丁を粉々にした夏野の手がにゅっと俺の首に伸びてきて服の襟をつかんだ。ぐえ、とつぶれた蛙のような声を情けなくも出しながら猫背になれば、夏野の紫色の目と視線がかち合った。憤怒に燃えるそれは、一瞬真っ赤にも金色にも光って見えた。
「今度死のうとしたら、殺すからな」
 俯く。それはそれで本望だ、と言ったら、たぶん本当に殺されるのだろうなあ、とぼんやり思った。


 そい、と、最初は思った。夏野はだいたい明け方近くに帰ってくる。だというのに、一度朝が来て、夜が来ても、夏野が帰ってきた様子は一向になかった。冷蔵庫に入っている、血液のストックを手に取りながら、仕事が立て込んでいるのかな、とそんな暢気なことを俺は考えていた。二日目になって、遅いどころの話じゃないな、と思って不安になった。三日目、俺が眠っている間に帰ってきているのだろうと思って情緒の安定を図ったけれど、一ミリも変わっていない玄関の様子を見て、本当に帰ってきていないと確信して、肌をねぶるような不安感と、どうしようもない安心感で眩暈がした。ようやく夏野は俺を捨てることができたのだと思った。だから四日目、夏野がなんの前触れもなく帰ってきたときは、どうしようもない安堵とともに、どうして、という気持ちが拮抗していた。夏野はお土産、とでも言うように手提げ袋を引っ提げて、その中から趣味の悪いご当地キーホルダーをじゃらじゃらと出しながら、ぽつりと言った。
「遠くに行きたかったんだけど」
 何の感情も載せられていない声だった。ぽつり、ぽつりと雨のようにそれを降らせながら、夏野がキーホルダーを一つ手に取る。かわいくない太りすぎの狸をモチーフとしたものだった。
「なんか、あんたのことが気になって、結局帰ってきた」
 キーホルダーがきらりと月光を反射してきらめく。俺はそうか、とだけ言って、夏野の頭を撫でた。手は、よく分からない感情から、少し震えていたように思う。


 のように小さな声だった。でも、ちゃんと夏野は俺の言葉を拾ってくれた。夏野の目がまんまるに見開かれる。そしてすぐにそれは柔和に細められ、ばかだなあ、と言った。ばかだなあ、徹ちゃん。
「俺はあんたを捨てないよ」
 だから俺のことも捨てないでね、と、夏野が泣いている気がした。


 狂い、と叫ばれた。手の甲で口を拭う。べったりと赤が引かれた甲を軽く振りながら、きちがい、と先ほど俺に向かって叫んだ男の言葉を反芻する。きちがい、きちがい、きちがい、なあ。
「でもそれは、人間の社会での常識でしょう」
 俺たちには、関係のないことだ。男が再び何かを叫ぶ前に、ばさりと上から何かが降ってくる。それは少年の形をしていた。それが男の口をそっと覆う。そしてそのまま、それは男の首に噛みついた。少年の名は結城夏野、気狂いの名前は、武藤徹と言った。ああ、いったいいつから、食事に抵抗を覚えなくなったのだろう、と、なんとなく悲しくなった。


 痛を感じなくなったのはいつからだろう、とぼんやり思う。沙子はどうやら死に対して恐怖を感じていたようだが、いつしか俺にとって死というものは安寧と泥濘をもたらす不可思議な存在へとなっていった。死にたい、と思うと同時に、生きたい、と強く思った。要するに俺は楽になりたいのだ。逃げたいだけ。夏野はそんな俺を見ていつも面倒そうに瞬く。ああ、俺も夏野みたいに強かったらなあ。何度目かとも分からない吸血をしながら、悲しくなって涙がこぼれた。冷たい死人の涙だった。


 帯電話、というものが世の中で流行っているらしい。どこにいても連絡ができて、ポケベルも公衆電話もいらなくなるようなそんな画期的な代物。どうやらゲームもできるらしいし、ドラえもんの四次元ポケットの簡易版みたいだ、とそれを見た時思った。「欲しいの?」夏野が俺の顔を覗き込む。その顔には年相応のしわが刻まれていた。でも、年とってもかっこいんだよなあ夏野は。もう親子にしか見れないような見た目になっても、夏野は夏野のままだった。変わったのは、俺だけだ。「いんや、いらんだろ」だって俺たち、ずっと一緒にいるし。そうつぶやけば、夏野は本当にうれしそうに笑った。あの村では見ることが叶わなかった、無邪気な笑みだった。


 してくれ、と泣き叫んだ。もう終わりにしたい、と咽び泣いた。それらすべてを蹴り飛ばして、夏野は冷然と俺を睥睨する。殺したくせに何を、と、その目が雄弁に語っていた。そのことに、また涙が零れた。ああ、この涙が硫酸だったならば、きっと俺も死ねたのに、と、そんな馬鹿げたことを夢想した。


 んだ。そりゃもう叫んだ。いやこの状況で叫ばないほうがおかしい。もう絶叫だった。叫喚だった。「うわあああああああ」俺はもう叫びながら家を飛び出した。明日からの村人の視線なんて気にする余裕もなく俺は駆け出した。だって、だって、だって! 「なんでお前が俺のエロ本を発掘してるんだ、夏野おおおおお!」


 ねないというのは案外苦しい。と、夏野はアイスを食べながらぼんやりとつぶやいた。人間の俺としては、不老不死なんて、人類が喉から手が出るほど欲しがっているものなのに、と意外に思ったのを覚えている。限りなく不老不死に近い夏野は、それらを睥睨しながら、アイスを小気味のいい音をさせて噛み砕く。「本当に、厄介だよ、死ねないってのはさ」そうか、とうなずく。でもなあ夏野、夏野が死ねないおかげで、俺とお前は出会えたのだから、やっぱり不老不死も捨てたもんじゃないと、俺は思うぞ。


 敵な指輪ですね、と職場の後輩に微笑まれた。化粧が濃いことを除けば小さくてやわらかくてかわいい女の子だった。その目が狩人の目をしていなければ骨抜きになっていたことだろう。いやいや、女子ってのは怖いね。指をかざしながらゆったりと笑う。「親友の骨でできてるんですよ、これ」


2018/3/7