夏野はいつだって冷静だった。何があっても落ち着いていて、呑み込めない突拍子もない出来事には一瞬目を見開くものの、しっかりとそれを噛み砕いて消化するだけの頭がある。そしてその最善の解決策をあっさりなんの躊躇いもなく選べてしまうだけの度胸があった。これって案外難しいことだ。俺なんて優柔不断だから、あっちへふらふら、こっちへふらふらと主張がぶれにぶれまくってしまう。例えばの話をしよう。犬が捨てられているとする。小さくて弱くて放っておいたら数日中に死んでしまうような子犬だ。俺はそれを見たらきっと、可哀想だなあと思う。でも、思うだけだ。俺はそこで行動を起こせない。中途半端な同情だけ寄せて、もしかしたら頭を撫でてやるかもしれない。でも、間違っても拾ったりはしないはずだ。もしもそこに他の人間がいて、可哀想可哀想だと口々に言って、どうにかしてあげなきゃと言い出したら、そうだよなあどうしてあげなきゃだよなあとは思うだろう。そして誰かが行動を起こしたら、それにようやっと反応して、じゃあ俺も、だなんて名乗りを上げていたかもしれない。俺はそういうやつだった。流されやすくて、自分の意志だなんてないに等しくて、ことなかれ主義を貫いてしまう偽善者にもなり切れない臆病者だ。でも夏野は違う。きっと犬を見たらそのまま素通りするか、行動するにしたらすぐさま動いてその犬をどんな結果にしろ楽にしてあげるのだろう。ほかの人間が何を言おうが関係ない、夏野が選んだ選択肢をひたむきなまでに遂行する。夏野はそういうやつだった。俺はきっと、夏野のそういうところに惹かれていたのだ。結局人間関係なんてないものねだりだ。自分にないものを求めて他者と交流する。俺は自分にない芯の強さに惹かれた。だとしたら、夏野はどうして俺と一緒にいてくれたのだろう。親と違って、何も口を出さずただ一緒に怠惰な時間を過ごしてくれる俺に安寧を求めていたのだろうか。俺は見たまんまのばかだから、そういった小難しいことはよくわからない。夏野は自分でわかっていたのだろうか。どうして俺と一緒にいたのか。どうして俺の部屋に来て、同じことをするわけでもなく、ぬるま湯のような空間を共にしていたのか。それを訊く機会はもう二度と失われたと思っていた。夏野の葬式はわびしさなんてなかったはずなのに、どこか空々しくて空虚だった。それはからっぽの夏野を見つめる俺が、冷たくなったその身体よりもよっぽどからっぽになってしまっていたからかもしれない。夏野が死んだだなんてまったく実感がわかなかった。だって数日前まで普通に俺としゃべっていたのに、それを突然死にましたと告げられてはいそうですかと納得できるほうがおかしい。だから俺はその葬式で泣けなかった。葵と保は泣いていた。俺はただただ、箱に収まる夏野をぼうっと見下ろしていただけだった。触れた頬は、ぞっとするほどの冷たさを伴って俺の肌を刺した。それでも俺は夏野が死んだことを受け入れられずにいた。えらく綺麗な死に顔だなあと、死んでいることを認められていないのに死相だとは認識できている端正な顔立ちを見つめていた。今にもぱっちりと瞼を上げて俺の名前を呼びそうだった。呼ばれなかったから、代わりに俺のほうが夏野を呼んだ。名前で呼ぶな、といういつもの応酬はなされなかった。それがなんだか面白くなくてむにっと夏野の頬を引っ張った。硬くてあんまり伸びなかった。母さんがあわてて俺を引っ張って夏野から引きはがしてくれなかったら、きっと俺はそれ以上のことをしていたと思う。夏野の身体を抱き起して、ひっぱたいたりなんかしていたかもしれない。いつまで寝てるんだばかやろう、もう朝だぞー、いや朝どころか昼だぞー、いつもいつも俺のことをたたき起こしてるくせに何やってんだあほ、お前が起こしてくれないせいでいつまでたってもこの悪夢が覚めないじゃないか。夏野の頬を引っ張れなくなったから代わりに自分の皮膚をつねってみた。痛かった。悪夢は覚めなかった。夢じゃなくて現実なのだから、覚めなくて当然だった。俺はそんなばかみたいなことに気が付くことに数日を要して、そしてきっかり三日後、トイレでげろを吐いた。心配そうに扉をたたく家族が煩わしかった。夏野が死んだ。そのことがまるで靄のように俺の周りにまとわりついて視界を濁していた。あんなにやりこんでいたゲームはいつの間にか埃を被っていた。夏野の読み止しの雑誌が視界に入って、俺はまたそれに吐いた。鏡に映った自分は、まるで幽霊のように白い顔をしていて、いっそのことあの箱の中に入っていた夏野のほうがよっぽど血色のいい顔色をしていた。
 だから目の前にこうして夏野がいることも、俺はあまり驚かずに受け入れられた。ようやく悪夢が覚めたと思った。終焉を迎えたと思った。夏野にとってはその逆で、悪夢が始まり更なる地獄が開幕されたのだと知ったのは、ずいぶん後のことだった。
「血を飲まないんだよ」
 俺をここに連れてきた、兼正の男は困ったように、それでいて楽しそうに眉を下げた。夏野はがたがたと震えていた。それが恐怖からくるものじゃないことはなんとなくわかった。ぞんざいに放られたせいでしたたかに打った身体を起こして、目の前の夏野をてっぺんからつま先まで見つめる。どこからどう見ても、俺の隣でかわいげのないことをいくつもぽんぽんと口から放っていた、結城夏野に相違なかった。どの角度どの方面から見ても、俺の親友の結城夏野だった。
「なつの」
 夏野の形のいい目が俺をじろりと睨んだ。瞳孔が真っ赤に染まっている。無意識に伸ばされた手は、激しい音を立てて叩き落された。爪が当たったのか皮膚が裂けて、そこからひとしずく、ぽつりと血が滴った。それを見た夏野ははっと口を覆って、そして自分の手の甲に思いきり歯を立てる。その犬歯が異様に伸びていることに気づきながら、俺は夏野を勢いよく突き飛ばしていた。その拍子に刃が外れて、ふさぐものがなくなった傷口から俺とは比べ物にならないほどの血がほとばしる。でもそれは夏野が硬い床に倒れこむときには、もう塞がっていた。音もなく、自分の体温が数度下がるのが分かった。
「わかったろう、夏野くんはもう人間じゃないんだよ」
 わかりやすく言えば吸血鬼かな、と男が言う。どこか得意そうに、まるでとっておきの秘密を口外するように、飄々と、その面白おかしい犬耳のような髪を揺らしながら笑っている。ぞっとした。とっさに夏野を背後にかばう。夏野は床に爪を突き立てて、必死に何かに耐えていた。ぎい、といびつな音をさせて、夏野の爪が弧を描く。
「セオリー通り、吸血鬼っていうのはその名前の通り血を飲まなければ生きていけない。まあもう死んでいるんだけれど、それは今はよしとしよう。血を飲まなければ飢えて死んでしまう。乾いて干からびてしまう。人間だって食事をしなければ餓死するし水を飲まなければ脱水症状で死ぬだろう。そういうことだよ。今の彼はつまりそういうことだ。今にも死にそうな、死にかけの瀕死の吸血鬼だ。飢えて飢えて仕方ない可哀想な鬼だ。だというのに、彼は血を飲まないんだよ。いやはや、食事を拒むやからはごまんといたけれど結局みんな飢えに負けて襲ってしまう。だというのに彼はずっとそうやって、自分の身体や床に爪を刃を、おっとこの場合八重歯かな、を突き立てて必死に空腹から逃れようとしているのだよ。けなげなことじゃないか。それが十五歳の少年がしているともなればなおさらだ。僕だって鬼だが畜生ではない、だからそれにのっとって、つまり同情して、こうして優しく丁寧に、極上の食事を用意してあげたんだ。いやはや自分にここまでの温情があったとは思わなかったよ。自分の情の厚さに涙がこぼれそうだ。君は夏野くんに会いたがっていた、夏野くんは腹が減って仕方がない。これぞウィンウィンというやつだ。いやはや傑作傑作、シェイクスピアも仰天するほどの喜劇だよこれは」
 男は最後まで我慢できなかったのか、くつくつとした笑いを最後には哄笑に変化させていた。狼のような笑い声だ、と思った。ぞくりと悪寒が走る。夏野を背に隠すように男に向き合う。
「夏野はこのままじゃ死ぬのか」
「確実に」
 男は心底楽しそうに笑った。にんまりと人の好さそうな笑みを浮かべ、ダンスでも踊るかのように手を大きく広げる。
「なに、君が彼を救うのはとても簡単だ。君の皮膚の下を駆け巡るその温かい血を彼に差し出してやればいい。理性なんてものは本能の前では芥も同然だ。彼がいくら理知的な人間であったのかは知らないけれど、でももう彼は人間ではないのだよ。立派な吸血鬼、起き上がりだ。それを救えるのは君しかいない。ほら、なんて甘美な響きだとは思わないかい? 君がその身を差し出せば彼は助かる。いやはやなんて素晴らしい友情だろうか! なんて美しい奇譚だろうか!」
 男はひとしきり演説し終えると、手を下ろしてひらひらと掌を俺に向けた。
「じゃ、僕は明日また来るよ。僕と君のいったいどちらが勝つのか、見ものだね」
 それが俺に向けての言葉ではないことは直感的に理解した。後ろで歯を砕かんばかりに食いしばる音がする。えらく大仰な音を立てて扉が閉まってしまえば、この座敷牢はあまりにも静かだった。それが夏野が呼吸をしていないからだ、ということに気が付いたのは、夏野の肌があまりにも冷たいことを知ってしまったからだった。夏野はぐったりとしたまま、それでもガタガタと震えている。寒いのか、と添えた手は、今度は振り払われなかった。そこまでの力が残っていないことは明白だった。
「夏野」
 夏野の身体を抱きしめる。やめろ、とかすれた声で夏野が言う。数日聞いていなかっただけなのに、まるで数年越しのように感じた。
「俺、もうお前が死ぬところなんて、見たくないよ」
 夏野の手が逃れるように宙をさまよう。その細い指を恭しくつかんで、その身体が全く体温がないことに気が付いて、でも俺はその手を離さなかった。冷たい。死人の手だ。それでも夏野の手だ。棺の中の夏野を、俺はからっぽだと思った。夏野の抜け殻だと思った。俺もその時、抜け殻になってしまったんだと思った。実際その通りだった。俺は夏野が死んだ数日間、まるで幽鬼のようにふらふらとさまよっているだけだった。それがようやく、終わった。俺はようやく、生き返った。自分で自分の首に爪を立てる。手入れのされていない伸び切った爪は簡単に俺の皮膚を割き、血を滴らせた。夏野の顔が、その時初めて恐怖で凍り付いた。
「夏野」
「ばっかじゃねえの」
 夏野の手が俺の胸を押した。本当は突き飛ばしたかったんだろうな、と思った。弱弱しいそれは縋りついているかのようにも見える。でも、夏野はそんなことしない。縋りつきなんて、しないんだろう。それが夏野だった。たとえそれが自然の理、吸血鬼、起き上がりの普通だとしても、夏野はそれを認めない。周りがそれを正しいことだとどれだけ言おうが、自分が認めなかったら夏野は絶対にそれを受け入れない。体温がなくなっても、呼吸がなくなっても、瞳孔が赤くなっても、夏野は夏野のままだった。結城夏野のままだった。それがうれしくて、同時にとても悲しい。
「俺はもう死んでんだよ。生き返ってなんかいない。俺は死んだままだ。死に続けたまんまだ。ここで終わるのが正しいんだよ」
 夏野の顎から汗が滴る。死んでいるのなら、汗なんてかかないだろうと思った。死んでいるまんまならば、夏野は今こうして苦しんでなんかいないはずだ。空腹になんて耐えていないはずだ。俺は多分、その時とても冷たい顔をしていたと思う。生まれて初めて浮かべた表情をしていたと思う。がぼり、と無言で夏野の口に手を突っ込んだ。夏野がえずく。無理やり長い犬歯に指を突き立てて血をほとばしらせた。いて、とつぶやくより先に、夏野が何かを叫んだほうが早かった。その悲鳴とも怒号とも取れないそれは俺の掌に圧し潰されて、小さな口の中で凍えて死んでいった。鬼だ、と思った。それが誰を差しているのかからは目をそらして、俺はただひたすらに夏野に血を飲ませた。夏野でも泣くんだな、なんてそんな当たり前のことを、ぼんやり思った。夏野のまあるい目に俺が映っている。自分と目が合った。悪い顔だ。


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2017/12/2