都会から越してきた夫婦がいる。そしてその夫婦には俺たちと歳があまり変わらない息子さんがいるらしい。らしいというのは、俺たちはその息子さんとやらを一切見たことがないからだ。いやたち、というのは少し誤謬がある。確かに葵も保も滅多にその姿を見たことはないらしいが、それでも滅多に、という表現を使ったように、一度や二度くらいはその姿を見たことがあるというのだ。「たまたま早く起きちゃって、適当にぶらぶらしてたらあんな朝早くなのにぴっちり制服着て、自転車こいでてさあ。あれ、たぶん学校まで毎日チャリで行ってるんだろうねえ。歩くよか早いけど、でもどう考えてもバスに乗ったほうが早いし疲れないよね」と葵。「真夜中出歩いてるの、窓から見たなあ。じっと俺んち見てた気がするけど、気のせいかも」と保。二人が言うには、線の細い端正な顔つきの美少年らしいのだが、俺はその美少年とやらを本気の本気で一度も観たことがなかった。その少年の親御さんだという方とは何度か話したのだが、息子の姿を視界に入れたことは全くなかった。越してきて一年が経つのにそんなことがあるのだろうか。梓さん(その少年の母親だと言っていた。美人さんだ)は眦を下げて「家にいるときは、ほとんど部屋から出てこないのよ。ずーっと勉強してるの」と申し訳なさそうに言っていた。結城さん(お父さんらしい)は「学校がある日は、朝早くに出てって夜遅くに帰ってくるんだ。昔はそんなことなかったんだけれど」と少し困ったように言っていた。二人とも口をそろえて、まあ夏野はいい子だから非行だとかに走ったりはしないと思うんだけれど、と言っていて、その会話の中で俺はようやく息子の名前を知ることができた。夏野。綺麗な響きだ。いや、綺麗とは少し違うけれど、なんというか、こう、ええっと、「すずやか?」「そう、それ!」うんうんうなる俺に、律ちゃんがずばりの回答を提示してくれた。手を打つ俺に、律ちゃんはおかしそうに笑ってから「医院にはよく来るんだけど」と缶ジュースを傾けた。え、医院? 「身体が弱いとか?」「いや、全然」むしろ超健康体よ、と言って律ちゃんの細い指が愛犬の頭を優しく撫でた。「なんていうか、先生とよく話してるのよねえ」「へえ」村とかかわる気が全くないから部屋から出ないのかと思っていたのだけれど、どうやらそうではないらしい。不思議な奴だ。美少年、と葵と保も言っていたから、見てみたい気もするけれどわざわざ覗きに行くほどではない。その晩、俺はいつものようにゲームに耽った。明日は日曜日だから学校のことを気にする必要もなく、やいのやいのと敵キャラを倒していたらふと、喉が渇いて自販機に行こうという気になった。麦茶ではなく、コーラが無性に飲みたい気分だったのだ。やっとクリアしたステージに鼻歌を歌いながら夜の田舎道を歩いていると、ふと遠くに佇む影があることに気が付いた。俺より少し背が低いように見えるその身体の線は細い。月光くらいしか光源がないのに、なぜか俺はそれが噂の工房の息子であることを直感的に理解した。そして俺は、そうすることが当然であるかのように、日常的にそう口にしていたように、あまりにも自然にその陰の名前を呼んだ。

夏野!

 影がこちらを振り向いた。風に揺れる黒髪から覗く目はまばゆいほどの金色で、それが俺を見てまんまるに見開かれる。満月みたいだ、とぼんやり思った。その目を見て、その表情を見て、なぜか俺はとてつもない過ちを犯してしまったかのような錯覚に陥った。掌から五百円玉が零れ落ちる。どうしてだが、今この瞬間、彼が必死に積み上げてきたものをばらばらに壊してしまったかのような罪悪感が俺を襲い狂った。「夏野、」もう一度、彼の名前を呼んだ。今日初めて呼んだはずなのに、いやにしっくり舌の上で転がるその涼やかな名前を呼んだ。彼の見張った双眸が、ゆるゆると嫌悪とも憎悪ともつかない色でゆがめられ、金色はすぐに夕闇を思わせる紫色に変わっていった。見間違いだったんだろうか。その陰に近づく前に、彼は背を向けてどこかに走り去ってしまった。彼が一心に見つめていた先に視線を向ける。そこにはこの村にはまったく似つかわしくない真新しい洋館があった。突然いなくなった兼正の家に突然建てられた、得体のしれない石造りの建物。よく見れば光がともっている。そういえば誰かが越してきたとか、そんなうわさ話を聞いた気がする。ぼうっとそれを眺めていると、突然ばちりと背中に何かがあたった。かなぶんか何かかと思って振り返ると、足元に小さなお守りが一つ落ちていた。手に取ると、それがお香のようなにおいがすることに気が付く。首をかしげてひっくり返す。メモが挟まっていた。癖のない教科書に印字されているような整った字だ。俺はなぜかそれがあの工房の息子の字であることがすぐに分かった。「これを肌身離さず持ってろ」どういうことだろうか。さらに首をかしげる。かがんだついでに取り落とした五百円玉を拾い、自販機に放り込む。がこん、と重い音をさせて出てきたコーラを飲みながら、もう一度彼の名前を呼ぶ。「夏野」それはやっぱり舌の上になじんで、そしてなぜかどうしようもない苦みをべっとりとこびり付かせた。誤魔化すようにコーラを流し込む。清水恵が死んだのを知らされたのは、次の日の朝のことだった。


2017/12/01