穴 | ナノ




 穴があった。

 それは春光降り注ぐ卯月。アスファルトの道は大回りになる為、私は突切ると近道になる林をいつも通っていた。

 林とは云っても本当に小さなものである。ただ、申し訳程度に細々としたかなり低い蓬莱竹(ホウライチク)が並ぶだけの、土の道だ。

 結構長いが、大回りの道は当然ながらもっと長い。その林の半ばに差し掛かった時であった。

 それはぽっかりと口を空け、岩石の洞(うろ)道が続き、その先に空虚な深淵(やみ)を浮かび上がらせている。

 誰かが見付けて呉れるのを待っていたようでもあり、人目に付く事を厭がって拒絶しているようでもあった。

 でも、言ってしまえば、ただ穴がある。それだけの事だ。

 帰路についていた私は、立ち止まって無表情にその虚無に拡がる穴を見下ろしている。

 私の中で奇妙さと不安、そして好奇心と探究心の内乱が暫し続いたが、結局、好奇心と探究心が勝った。

 直ぐ戻る積もりで穴の横に鞄を置いて膝をつき、四つん這いになって、匍匐前進で穴の中へと侵入する。



 穴の中は暗く、狭かったが、少し進むと天井の高い開けた所に出た。私は狭い穴から這い出て、新たな広い穴に立つ。

 この開けた空間には、幾つかの穴があった。

 鼠しか通れなさそうな穴、土竜が通れそうな穴、中型犬が通れそうな穴、昆虫が一匹だけ入れそうな穴、人が屈んで通れそうな穴、人が立って通れそうな穴…。

 パッと目についたのは、三つの穴。

 私が立って通っても余裕のある、学校の廊下くらいの大きな穴。通るなら普通、此処が良いだろう。……ただ、なんかちょっと臭う。

 二つ目は、さっきみたいに匍匐前進すれば通れそうな穴。……でも、それって、何かあった時に戻るのも進むのも難しそう。岩や土で穴が塞がったらと考えると、あまり気は進まない。

 もう一つは、私がギリギリ立って通れるかなという穴。岩が突き出てたりしたら、屈んだりなどする必要がありそうだ。こっちからは風が流れて来ているような気もする。

 私は悩んだ末、ちょっと臭う穴へと踏み入った。臭うのもちょっとだし、あまり奥まで行く積もりは更々無い。

 態々、何処まで続くか判らない穴を這って行くまでしなくて良いし、ギリギリの所を選ぶのもチョット……という心理的な問題もある。



 歩くと岩と靴の奏でる良い音が、気持ち良くて好きである。いつしか私は時間も忘れて音に聴き入り、音を聞く為だけに歩みを進めていた。

 ハッと我に返った時には、遅きに失した。

私:
「あれ……? 何処から来たんだっけ……?」

 私の周りにはただ無数の穴が拡がり、自分が何処から来たのか判らず、また、今まで普通に歩いて来たのだから、自分がぶつからずに歩けると思しき穴を覗いて見ても、自分は其処から来たのかどうかの判断が出来ない。

 私は深く後悔した。

私:
「どうしよう……」

 その時、何処からかシャリンシャリンという金属のような音と、ペタン……ペタン……という足音が聞こえた。

 穴の中には、水滴がピチョンピチョンと落ちている所もあったから、それで足が濡れているのだろうが、この状況下にある今聞くと物凄く不気味だ。

 私はどうする事も出来ずに、ただ構えを取って立ち尽くした。

 すると……。

私:
「ウサギ…?」

 徐々に現れて来たシルエットを見て、私はそう呟いた。片方は折っていたが、片方はピョコンとした長めのものが生えていたので、うさ耳だと判断した。

 しかし……。

 その全貌が明らかになるにつれて、私の顔は歪んでいった。そうして、仕舞いには戦慄してしまった。

 それは、悪血から鮮血までが散在した黒いベストを纏う、穢れた兎だった。

 片耳は千切れかけてプランプランと揺れ、紅く炯々爛々と光る双眸は丸で血のようであった。そして、全身は銃傷だらけである。

 手にはアンティーク調にくすんだ、ローマ数字の金の懐中時計を持ち、その針は狂ったように高速で回転と逆回転を繰り返している。

 折れて骨の覗いた片足を引き摺りながら、ピョッコピョッコとぎこちなく別の穴へと入っていく。

私:
「時計兎……?」

 そう呟いた私は、堪えられ無いくらい凄まじい悪寒がゾゾゾッと力強く背を駆け、バッと振り向いた。

 痩せこけた男が、立っていた。その眼は先程見た兎以上に炯々爛々と血走り、不安定に揺れ動く瞳孔の開き切った眸は、焦点が定まっていなかった。

男:
「う……さぎ……。兎を……見なかったかい……?」

 男は肩を落としたようにブランと下げた両手に、幾枚かの紙と錆び付いたペンを持ち、ユラユラとかげろいながらそんな事を問う。吐息は、奇妙に荒かった。

私:
「え……?」

 私は警戒し、後退りながら聞き返す。

男:
「うぅうさぎだよ……! うゥウさギっ……!!」

 今まで、疲れ果て、生気の抜けた抜け殻のようだった男は、行き成り豹変して語気を荒げた。血走った眼は、何物をも映してはいない。

男:
「物語を……書かなくちゃあぁ……。くっ、くひっ……物、語を……う、うさぎが……ベストを着た兎が、時計を持って駆けて行くんだ……っ! それを……アリスが、追い掛けて……あぁ……可哀相に。真っ逆様に穴の中……。穴の中は……夢、の……ように……たくさんの……死体が……」

 私は走って逃げられるような、最寄りの大きな穴へと後退し、駆け出そうとする。

男:
「あぁあぁぁあ!!! 違う! これじゃ、夢のような世界じゃない! 何故だ! 何故、こんなのしか浮かんで来ないぃぃ……!! もっと愉快でっ、面白いっ、世界である筈なのにっ! 書けない! 書けない! アリスも、もうっ……」

 だが、何かに躓いて転んでしまった。痛みに顔を顰めながら、冷たい岩についた手に力を入れ、少しだけ半身を起こす。

男:
「いないのにぃいいいいい……っ!!!」

私:
「ぃっ、きゃあぁあああぁあ……!!」

 男の絶叫のような声と、私の悲鳴が被った。

 半身を起こした私の目の前には……銃で撃たれたと思しき穴だらけの骸骨が座っていたから。

 ボロボロの服を着て所々抜けた劣化した歯が並び、口をパカッと開き、大きな穴が――空洞が二つ空き、その斜め下に縦長の穴が隣接して並んでいる。

 黒ずみと黄ばみに耐え兼ねた服は、最早もとが何色だったのか不明だが、曾てレースだったと思える、生地と色違いのクシャクシャの紙のような物で装飾されている。

 頭蓋骨には、バッサバサに傷み切った、黄土色とも赤茶色ともオリーブ色ともつかない汚らしい色の巻き髪がまだ少し残っていた。

 それだけじゃない。その穴には、白骨化する前の、腐り切って劣化してミイラのようになった女の子や、黒目を限界まで上向け、充血した眼や真っ赤に染まった口をだらし無く空けて舌を覗かせた女の子などが無数に居たのだ。

 腐敗し切って堪え難い刺激臭を放ち、白に近い淡黄色の蛆虫が活発に蠢動している屍体、劣化してグズグズに崩れた緑色の骸、生々しく、生臭い臭いを放ち鮮血に濡れた亡骸。

私:
「あ……ぁぁ……」

 飛び退き、尻餅をついた状態のまま、涙目で戦慄していた私の肩を、骨張った大きな土気色の手がムンズと掴んだ。

男:
「ふぅはぁ……ふぅはぁ……。アリス……アリス……君が……“新しいアリス”かい……?」

 男は私を見て、ニィイイっと嬉しそうに、目と口許を湾曲させ、顔に三日月を三つ貼り付けた。

私:
「ひっ……ひぃ……」

男:
「はぁはぁはぁ……ア、リ、スゥゥゥゥゥ……!」

私:
「いやあぁああぁあぁぁぁああぁああぁあッ!!!」

 私は男の手を振り払うと同時に、絶叫と共に駆け出した。
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