物差しでは測れない
「幸せって何だろう。」
不意に隣からぽつり、と呟いた声が聞こえて左之助はその声の主を見た。
彼らは暖かい日差しが差し込む屯所の南に面した縁側にいた。夏は拷問か、とも思えるほど暑くなるそこは今の季節に居るにはひどく心地が良い。左之助とその隣に座る彰人は午後の巡察までの空いた時間を縁側でぼんやりすることに使っていた。初めのうちはぽつぽつと話をしていたが、同じ場所に住んでいて毎日飽きるほど一緒にいるからか、そのうち話すことも無くなって自然と沈黙が二人を包んだ。だが、その沈黙は気まずいとか、そういったことではなかった。穏やかな時間が流れていた。
どの位そうしていたかは分からない。左之助は心地よい静寂の中でまどろみながら特に何にも考えずにいた。その中に不意に聞こえた彰人の声はまるで池の中にぽちゃり、と石を投げ入れたようなそんな余韻をはらむ小さな波だった。
「…さあ、何だろうな。」
彰人が口にしたのは難しい質問だと思った。誰もが幸せになりたいと望むけれど、誰もが一体何をもってして幸せと言うのかを知り得ない。幸せの尺度と言うものはその人によって大きく異なるからだ。彰人は別に左之助に答えてもらうつもりはなく、ただ一人言として口にしただけだったのか、左之助から返事が返ってくると少し驚いたように見た後そっか、と小さく呟いた。
「…分かるわけないよな。明確な答えがあるものでもない。」
でも、知りたいんだよ。
彰人は低く唸るような声でそう言った。左之助には一体何が彰人をそこまで幸せとは何たるかを知りたがらせているのか見当もつかなかった。一体何が彼をここまで駆り立てるのだろうか。
彰人が左之助の心のうちを察したかどうかは分からない。少し間をおいてから特に意味は無いんだ、と彼は言葉を続けた。
「ただ、俺はいつまで人を斬るんだろう、ってそんなことを考えていたら俺は一体何を求めているんだろう、って考えてしまって。」
「お前、そんなことを考えてたのか。」
「うん、下らないかな、やっぱり。」
彰人は困ったように笑った。きっと土方さんに先ほどの問いを投げかければそんなもん考えてる暇があったら稽古でもしてろ、と言われるだろう。彼からしてみればその程度の問いだ。けれど、左之助は彰人と同じ疑問を一度は考えたことがある。自分達は一体どこに向かっているのだろうか、と。
「新選組に入っておいて可笑しいのかもしれないけど、ただ普通に嫁さんを貰って、子供がいて、静かに暮らすことを望んでるんだ。」
「無いもの強請りなのかもしれない。江戸にいた頃はあんなに武士として名をあげたいと思っていたのに、それも嘘ではないはずなのに。」
「今はただ何もない平穏な日々を送りたいとも思っているのだから。」
彰人は優しい男だった。新選組として人を斬ることになって一番悩んでいたのは彰人だった。矜持からか意地からか、それを顔にも口にも出すことは無かったが左之助には彰人は未だに人を斬ることを何処かで躊躇っているように見えた。自分も他の連中も決して快楽で人を斬っているわけではないし、人を斬るなんてことは無い方が良いのは間違いないが、任務となればきちんと割り切るし躊躇などしない。彰人だってその辺りは分かっているから躊躇うことは間違ってもないが、人を斬った後の彼はほんの少し悲しげな目をする。長い間彼と関っていないと気付かないような、いや関っていたとしてもしっかりと彼を見ていないと気付かないような小さな変化だ。それに気付いている者は少ない。気付いているとしたらせいぜい江戸から一緒にいる現幹部達くらいだろう。
彰人の目に真っ先に気がついたのは近藤さんだった。試衛館の連中の中でもずっと時間を共に過ごしてきたという近藤さんにはほんの些細な変化でもしっかり感じられたのだろう。次いで気がついたのが土方さん、そしてその後に左之助だった。左之助が気がついた時には土方さんは彰人を無理矢理江戸に返そうとしていた。近藤さんほどではないにしろ、彰人がほんの子供だった頃から見てきたからこそ見るに堪えなかったのだろう。だがそれは真っ先に彰人の目に気がついた近藤さんが止めた。帰らせようと必死な土方さんと違い、いつにもまして近藤さんは落ち着いていて、いつもの二人とはまるで逆だった。
『いいかトシ。彰人はとても優しい子だ。それは江戸にいた頃から変わらないし、本当ならば人を斬るなんてこと彰人には向いていないのだろう。しかし、だからと言ってトシから提示される甘えに甘える、それを良しとする子でもない。』
『彰人だって立派な剣客なんだ。千暁の為を思うならそっとしておくべきだ。』
そう静かに言った近藤さんの言葉に土方さんが苦虫を潰したように眉根を潜める。近藤さんの言葉をしっかりと理解し、心のうちで納得したくないながらも納得したからだ。彰人の子供時代から知っているからこそ土方さんは彰人をこれ以上血生臭い、人を斬る環境から切り離してやりたいと思ったのだろう。だけどもだからこそ知っていたのだ。彰人が何を望んで江戸で剣術を学び力をつけてきたのかを。近藤さんが立派な武士になって幕府に仕えたいように、土方さんがその近藤さんの夢をかなえてやりたいように、彰人もその下で武士として生きていたいことを、それをどんなに渇望していたかも知っていた。
けれど根が優しすぎる彰人には向いていない、人を斬るということ自体が根本的に。
「嗚呼、今の言葉では語弊を生むかもしれないね。武士と名をあげたい自分もいるんだ。それは昔からの夢だし今も変わってはいないつもり。でも同時にそれを心のどこかでやめて普通の生活に夢を描いてきた自分もいるんだってこと。」
それを自分で上手く図りきれていないんだと思う、と彼は冷静に呟いた。だから迷ってしまうんだとも続けて言った。
笑ったら失礼なのかもしれないけれど、それでも左之助には彼が一生懸命どちらかを選択しようとしていることが、そうするしかないと思いこんでしまっていることが不思議だった。
「なあ、彰人。俺もお前と同じようにごく普通の生活をすることが夢なんだと、そう言ったらどうする?」
「…え?」
「可愛い嫁さん貰って、そいつと俺の間に子供授かって。俺だってお前が描いてるだろう幸せと似たような生活を夢見てるんだぜ?」
俺だって武士としての幸せだけじゃねえんだよ望んでいるのは、と左之助は笑った。それに彰人がきょとん、としたような顔をするからますますおかしく感じた。
「そうは言ってもやっぱり俺も戦って生きる今の生活が嫌いなわけじゃねえ。自分の力がどこまで通用するのかを見てみてえ。けどよ、そうやって矛盾する夢を持っていることは可笑しいことか?矛盾しているからどっちかに絞らなくちゃいけないのか?」
「…」
「お前はどっちかを選択しなくちゃいけないようなそんな風に言うけどよ、きっとそんな必要なんてどこにもねえんだ。同時には無理かもしれなねえけどどっちも叶えられない夢じゃないだろ。」
「左之助。」
「最初から諦めんな。自分が何を求めていたのか、自分の立ち位置さえも分かんなくなる位悩んだってきっと望む答えなんて出てきやしねえんだよ。」
一度言葉を切って左之助は隣に座る彰人の頭を優しくとは言いがたい力で乱暴に撫でまわす。綺麗な黒髪が少しぼさぼさになったがそんなことは気にしなかった。彰人もそれに抵抗することは無くされるがままになっていた。
「同じくらいしたいことが二つあったって間違いじゃねえんだ。」
だからそんなに深く悩むなよ。そう言ってやればゆっくりと彰人が左之助を見つめる。その顔は先ほどよりも幾分すっきりしているようにも思えた。
「そうだね、あんまり深く考えすぎてはいけないのかもしれない。」
有難う左之さん。彰人はそう言って薄らと笑った。
「原田組長!井伏伍長!巡察の時間になりました!」
遠くから自分達を呼ぶ声が聞こえた。巡察の時間になっても来ないからわざわざ探しに来てくれているのだろう。左之助と彰人は顔を見合わせて小さく笑うとどちらともなく行くか、と言って立ち上がった。
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