失礼かな、とは思った。
だけど知らなかったんだから仕方ない。
「あの、すいません、お名前聞いてもいいですか?」
付き合うことになったその日、まず聞かなければならないことはそれだった。
彼の顔がぴくりと強張る。
しまったと思ったがそれも一瞬のことで、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「君は名前も知らない人と付き合おうとしてるのかな?」
腕を組んで見下ろされて、私は思わず一歩下がる。
やばい、この声絶対怒ってる。
「い、いや、だって、お客さんの名前って聞く機会がなくて……」
「俺は泉ちゃんの名前知ってるのに」
「それはそうですけど……っていうかなんで知ってるんですか」
「愛だよ」
あなたはエスパーですか。
そう思ったがつっこむ勇気もなく、私はおろおろと言い訳を続ける。
「な、名前は知らないですけど、よく会ってましたし、話もしてましたし……」
ちらりと彼を見上げたが、つんとそっぽを向いたまま、口を開く様子はない。
「私も好きだって思ってたので、告白してもらえてすごくうれしかったんです。付き合おうって思ったのも、そんな軽い気持ちで答えたんじゃないです。説得力ないかもしれないですけど、私、本気で……」
「そこまで言うなら教えてあげよう」
その上から目線は何なんでしょう。
ちょっとだけ出てきそうになっていた涙が一瞬で引っ込む。
「はい、これ」
彼が差し出してきたのは名刺だった。
ちなみに彼は仕事帰りで、私は閉店作業中で店の外にいた。
「吉岡透、さん」
「そう」
私が名刺を見て呟くと、彼が頷く。
顔を上げると目が合って、彼は優しく微笑んだ。
「次会うまでに五十回書いて覚えておいてね」
「ごじゅっ……」
「俺の名前知らなかったんだから、それくらいするよね?」
ね?と彼が私の顔を覗き込む。
逆らったら殺される。そう思った私は大人しく頷いた。
告白されたのは私なのに、なぜこんな扱いを受けているのでしょう。
そんな宿題を私に与えて、颯爽と透さんは去っていった。
そして、次に会ったときに私が必死で名前を書いた紙を手渡すと、爆笑されたという理不尽な結末。
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