「名前のない町」
レーシングカーよろしく、派手なブレーキ音を響かせて急停車する。ぶつかった感触はなかった。車内の誰もケガをしていないのがせめてもの救いだ。カメラマンのダイキはすぐさま撮影機材の無事を確認し、ほっとしたのも束の間。あっくんは運転席で真っ青な顔をしている。
「どうしよう…ま、まさか、ひいた?」
「いや、でも衝撃なんてなかった…ですよね?」
「うん、大丈夫だよほら、ガラスも無事だし、ボンネットも凹んでない」
「じゃあ、さっきの人は?どこ行ったの?」
「消えた?いや、そんなわけないか…」
「でも、これだけ時間経っても文句ひとつ言ってこないって…おかしくないすか?」
「…一回、降りて確かめようか」
意を決して全員で車を降り、さっきの影の主を探すが、人どころか鳥一羽いる様子はなく、霧はますます深くなっていく。このままでは、近くにいてもはぐれてしまいそうだ。慌ててライトを点け、車体のワインレッドを頼りに元の場所に戻ると、度肝を抜かれるような光景が待ち受けていた。車を降りていた数分の間に何年も経過したかのように、車内にクモの巣が張り巡らされていたのだ。
「ほげえ!ちょっとナニ!さっきこんなのあった?絶対なかったよね?」
「ないない、ないです!」
「リョウさん落ち着いて、僕が掃除しますから…」
リョウさんといえば、この世で一番クモが嫌いだ。いつもはすごく頼れるのに、クモを見た途端タイガーマスクからハムスターに変身する。今もリョウさんは大いに取り乱し、誰よりも逞しい腕で隣りのダイキにしがみついている。最年少のてっちゃんが冷静に車内を確認しながら、丸めた映画雑誌とハンディモップの二刀流で中を綺麗にしていると、リョウさんの座っていた助手席に黒いものを見つけた。クモかと思って身構えたが、よく見ると薄く、ひらひらしている。それは一枚の花びらだった。
「はっ?何それ?どこでそんな…」
「リョウさんのズボンにくっついてたのかな?」
「にしても、不気味だよね…」
ダイキがカメラ越しに観察する。花びらの生え際は丸みを帯びて、クモのお尻のように少し先が尖り、反対側は何本にも細長く枝分かれしていて、薄らと斑点のような模様が見え、先端はかぎ爪のように曲がっている。クモではないと分かっていても気味が悪い。遠巻きに観察していると、てっちゃんが妙なことを言い始めた。
「これ…持ってていいですか?」
「えっ?てっちゃんそれ、欲しいの?」
「なんか危なくない…?」
そして謎の花びらをポケットに入れようとするのだ。皆は不安を感じて止めたが、どうしても持っていたいと言う。無理強いもできないので、ダイキが記録写真を撮ってから、彼に渡すことにした。
「大丈夫か?持ってて呪われたりしない?」
「あ、リョウさんの席にあったから、大丈夫っす」
心配するリョウさんに、朗らかな笑顔で答えるてっちゃん。何か答えになってない気もするが、なぜかいつも納得できてしまうのが彼の不思議なところである。
掃除は終わったが、一度もクモの姿を見かけなかったことが不安だといって、リョウさんは車に戻ろうとしない。どこかに潜んでるんじゃないかという。仕方なく車の外で、改めて「夢で見たやつ」の正体について聞いてみた。
リョウさんが見たもの…それは、壁一面に描かれた巨大な絵だった。よくあるスプレーを使ったラクガキとは違い、とても古めかしさを感じるものだという。それだけに、底知れぬ怖さを感じる。部屋全体が焼け焦げたように黒く、ほとんど光のないその中でも、なぜか浮き上がるように所々筆跡が見え、そこにはおびただしい数の手や目と思しきものが描かれているのもその要因だろう。室内は暗いが、不思議とどこからか僅かに光が射してくるという。
「その絵がさっき、窓ガラス一面に映って見えたんだよ…すげー怖かった」
「何ていうか、すごい夢ですね…今まで聞いたことないような」
夢にも色々あるけど、リョウさんの話は奇妙なのに、とてもリアルだ。メッセージ性を感じるというか。
「ああ。全体的に、強い思いが込められてるっていうか…ただの夢だって流せない感じで…いったい何なんだろうな?」
「もし、霊的なものが関係してるなら…夢を通して、リョウさんに何かを伝えようとしてるのかも」
「警告、とか?まさか…今行こうとしてる場所に関係してる?」
「その可能性もなくはないですよ。だって、このタイミングでそんな絵が見えて、車が急ブレーキ踏むなんて…」
皆で、ヘッドライトに浮かび上がった人影を思い出して身震いする。幻覚とは思えないほど、全員にはっきりと見えていた。
「どうしよう…とりあえず、引き返す?」
発案者のダイキにリョウさんが問うと、悩んだ末に、国道まで戻ることを選択した。
「今、全員が動揺してるし…このまま突撃するのは危険かもしれないです」
「うん。さっきのクモの巣だって、明らかに変だし…安易に踏み込んじゃいけない場所かもしれないよな」
「とりあえず車に戻って、この細い道を、Uターンできそうな場所まで進んでみましょう」
「了解…あっ、でも中にクモいるかもじゃん!うわーやだ!もしいたら死ぬ絶対!発狂する!」
「まあまあ、大丈夫ですって、いたら即やっつけますから!」
急に子供に戻って怖がるリョウさんを何とか車に乗せ、あっくんがエンジンをかける…と、何も操作しないのにひとりでに車が進みだしたではないか。焦ってブレーキを踏んでも止まらず、それどころかハンドル操作もできない。思いきってアクセルを踏んでみても全く加速せず、ただ不気味なほどにゆっくりと、ワインレッドの車体は青白い霧の中に向かって進んでいく…
「ああっくん、冗談でしょ?冗談でやってるんでしょ?ねえ?」
「違う、違うよ!マジで勝手に動いてんだよ!」
いつもは余裕のあるあっくんが今にも泣き出しそうなので、いよいよ車内はパニックになる。こんな霊障ヤバすぎる!窓の外は霧で何も見えないし、もしこのまま崖にでも向かったら、それこそ一巻の終わりだ!
「待って!外、誰かいる…!」
その時、ダイキがハッと車外の気配に気づく。姿は見えないが、車のすぐ側、青白い霧の中に誰かがいる。それも一人じゃない。
「もしかして…車、押されてる?」
「ああ、押されてる…きっとそれで進んでるんだよ」
「えっ…まさか、ガチの誘拐…すか?」
「かもしれないけど…誘拐グループにしては、雰囲気が静かすぎないか…?」
「じゃあ、やっぱり…霊の仕業?」
「いったいどこへ連れてく気なんだよ…!」
先の見えない、張り詰めた空気の中、全員でカーナビを注視すると、車は少しずつだが、目的地の黒い森へと近づいているようだ。まさか、僕らを案内しようというのか…?
「多分、大勢いるよな、外…霊なのか、それとも人間なのか…」
「どっちにしても、殺さないでくれたらそれでいいよ…命さえあれば、何とかなる」
しばらく車内で息を潜め、祈るような気持ちで事態を見守る。すると霧は徐々に晴れて、行く手に小さな町が見えてきた。カーナビに町名は表示されていないが、人の住んでいる気配がある。建物と木々が折り重なった、山間の小さな町だ。名もなき町の入口に着くと、車は自然に停まり、それきり動かなくなった。カーナビを見ても、ここが終点だという。
恐る恐る降りてみるが、車の外には誰もいない。足跡らしきものもない。それどころか、確かに後ろから押されていたはずの車体にも、手形一つ残っていなかった。
「…何だったんだ、今の」
「絶対、押されてたよね…映像で伝わるかは分かんないけど。あっくん、車は大丈夫?」
「いや、ダメだ、全然動かない…エンジンの故障かな?」
「それか…ここで降りろ、ってことですか?」
てっちゃんの言葉に皆固まる。確かに、そう考えるのが最も理にかなっている。
「きっと誰かが、俺達に何かを伝えたがってるんだよ。それも、一人じゃない」
「ああ、大勢いたよな…車の両サイドにも、多分、前にも…まるで、葬列みたいだった」
「そ、葬列なんて…僕らまだ死にたくないですよっ…!」
リョウさんがさらっと恐ろしいことを口にするので、ダイキもビビってカメラを落としそうになる。
「とにかく、この町を探索して、可能なら聞き込みもしてみましょう。位置的には廃ホテルの近くだし、あの場所についても、何か分かるかもしれない」
「ああ、そうだといいけどな…ついでに帰り道も教えてほしいよ」
ひとまず車を置いて、徒歩で町へと向かう。廃ホテルに関する聞き込みもかねて、人の姿を探すが、なぜか誰にも出会わない。確かに人の気配はするのだが、姿はどこにも見えないのだ。
「見て、あそこ…!」
古い住宅の窓に、ぼんやりと浮かぶ人の影。大人か子供かまでは分からない。身じろぎもせず、こちらの様子を伺っているようにも見える。ただ、気軽に話しかけられる雰囲気ではない。むしろ、見てはいけないものを見つけてしまったのかもしれない…
「この町…ほんとに、普通の町ですか?」
てっちゃんが素直に疑問を口にすると、リョウさんはすかさず首を横に振った。
「いや、違うかもしれない…ここ、電話がずっと圏外なんだよ。近くに電線はあるのに…おかしいよな?」
「えっ?ほんとだ…!これだと連絡取れない可能性あるから、何かあったら終わりだよ…」
「マジか…あーダメだ、俺のも電波入らない」
皆それぞれ自分のスマホを確認して青くなる。リョウさんの言った通りだ。
「もしかして、裏世界みたいなとこに来ちゃったのかな…?」
「僕ら、無事に帰れるんですかね…」
「大丈夫!俺がいるかぎり、皆無事で帰れるよ。これまでもそうだったろ?」
リョウさんはリーダーとして精一杯の元気を出して、カメラの前で胸を張ってみせた。
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