「まさ、帰ろう」
「あ、ちょっと待って」
いかにも悪そうな仲間たちとトランプに興じていたらしい真沙美。机の上、真ん中あたりに積まれてあった小銭をざらざら回収し、夏服の作業ズボンのポケットに入れて鞄を抱えてやってくる。
「お待たせ」
「また明日な、真沙美」
「明日は勝つ!」
「うん。また明日ね」
ばいばい、と手を振り、一梗と並んで廊下を歩く。工業科の廊下はオイルや鉄の匂いがして、特進科の廊下とは全く異なる香りがした。
「まさの匂いがする……」
そんな中で美貌に笑みを滲ませる一梗。
「オレ、こんな匂いする?」
「学校帰りはこんな匂いがする。いい匂いだぞ、まさの体臭と混ざり合ってそれはもう甘美な」
「一梗、黙って」
つるつる坊主頭は肌色ながら、額のあたりまでをほのかな赤に染めて黙らせる。今日は珍しく素直に口を噤み、その代わりなのか指を絡ませてくる。特進科の白い制服に包まれた一梗はいっそ神々しいくらいに美しい。白がよく似合い、男前と言うよりはただ美しいという言葉が似合った。
夕日に照らし出された廊下を、肩を並べて歩く。
外から部活動の声がして、吹奏楽の音や合唱なども薄っすら聞こえた。平和な放課後だ。
「あ」
「どうしたまさ」
「図書室、寄っていい」
「もちろんいいぞ」
借りていた本を返し、本好きの同級生から聞いた面白いという古い本を借りた。ミステリといえばミステリ、ホラーと言えばホラーかもしれない、舞台化も映画化もされている古典の名作。実はまだ読んだことはなかった。
「読むなら貸したぞ」
一梗が唇を尖らせる。そんな様子は可愛らしく、美人はずるいな、と思いながら鞄へしまう真沙美。
「一梗、持ってるんだ」
「何のために家に書庫があると思っているんだ。まさが借りる本は大抵揃っている」
「言ってくれればいいのに」
「まさが楽しそうに本を選ぶのを邪魔できない」
まさのためを思って言わなかったんだ。
と、言う。確かに一梗の家では楽しんで選べないかもしれない。一梗が何をしてくるかわからないし、不埒なことをされている最中にお手伝いさんなどが通ったら二度と顔を出すことはできないだろう。恥ずかしすぎる。
階段を降りている最中、肩を叩かれた。
振り返る。と、掠めるように奪われた唇。真沙美が何も言えずに見上げていると、輝く太陽の光を背にした一梗が魅力的に微笑った。
「今日はまだ一度もしていなかったからな」
「だからってこんなところで」
「玄関まで待てなかった。まさが可愛いから」
「もうっ」
先行くね!
宣言する真っ赤な耳を見ながら、ゆったり階段を下る。特進科と工業科は玄関が別々なので一度離れて正門で待ち合わせだ。宣言通り真沙美の姿はなく、工業科の玄関を素通りして渡り廊下を過ぎ、特進科の校舎にある玄関で靴を履く。もう、オイルや鉄などの匂いはしない。華道部が生けた花の香りがするだけだ。
キスなどしたから真沙美が怒ってしまっただろうか。怒っている顔も可愛らしくて素敵なのだが、怒らせたままはよろしくないことくらい学んでいる。
焦げ茶色のローファを履いて顔を上げると、ガラスの両開き扉を開けて真沙美が入ってきたところだった。
「遅いから、来た」
「そうか。ありがとう、まさ」
「……今なら、誰も居ないよ」
その言葉にくらりとした。
「先程のものでは足りなかったか」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「いいんだぞ、正直に言って」
「するの、しないの」
「する」
真沙美の柔らかな唇に唇を合わせる。
一梗の唇は自分のものよりも冷たく感じた。
「まさは大胆だな。誘ってくるとは」
「たまには、いいでしょ」
今日何度目の赤面だろうか。かっかと赤くなる真沙美の頬へ柔らかく口付ける。
「ついでに、もっと誘ってくれると嬉しいんだがな」
「もっと?」
「夜のあれこれの方も」
「あっ……やだよばかっ」
「馬鹿とは酷い」
「ばかっ。一梗の恥ずかしい人!」
どう表したらいいかわからなかったのだろう、恥ずかしい人と言われてしまった。肩を竦め、再び真沙美の手を握る。
「今日は泊まっていってくれるだろう」
「うー……ん」
「そうか。嬉しいぞ」
「まだ決めてないんだからね」
「決めてもらえるよう努力しないといけないな」
再び肩を並べたふたりは、夕暮れの中を影を重ねるように歩いて行った。
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