氷魚の様子がおかしい。
 仕事の方はいつも通りこなしている。ちー様にくっついて見守り、こまめに亮様と連絡を取り、呼び出されて出かけていき、その間のちー様の面倒は俺が見る。交代の打ち合わせのとき、いつもだったらしつこいくらいに目を合わせてくるのに今日は逸らしたままだった。紙に目をやったまま、口調だけはいつものように淡々と。


「ちー様、今日の氷魚、おかしくないか」
「そうでしょうか。気づきませんでしたけど……体調でも悪かったのでしょうか」


 気づかなかった、と顔を曇らせる。


「いや、そういうことではないと思うよ。そうだな……なんか悩んでるように見えた」
「お悩みだとしたら、めぐむはますます役に立てません」


 こどもですから、と言って、やはりしょんぼりした様子。もとより氷魚はちー様に面倒を掛ける真似はしないだろう。悩んでいるならひとりでまるっと抱え込む人間だから。だから、あんな顔をしているのだろう。

 亮様と一緒に帰ってきた氷魚は、やはり眉間に皺を寄せたままだった。うっすらとしたものだが、いつまで経っても取れない。自室に帰る後ろをついて行く。亮様は帰宅するとちー様とふたりきりになりたがるからちょうどいい。


「なんだ」


 暗い室内に一歩入って立ち止まり、振り返ることなく言う。


「珍しく悩んでいるみたいだったから、心配で」
「誰のせいだと思ってる」
「俺? 俺が原因?」


 氷魚が振り向く。


「お前が妙なことを言うから」
「なんか言ったっけ」
「昨日の夜、急に部屋に来ただろう」
「……ごめん。結構酔ってたみたいでよく覚えてない」
「……嘘だ」
「本当。俺、なんかしたみたいだね」


 氷魚がこんなに悩むなんて、俺はいったい何をしてしまったのだろう。全く記憶にないのが悔やまれる。亮様に貰ったいい酒で深酒なんかするんじゃなかった。


「氷魚、変なことしたなら謝る」
「……覚えてないなら別にいい。忘れる」
「何したの? 責任は取る」


 腕を掴むとびくっとして、暗がりで俯く。どんな顔をしているのかも、よくわからない。


「氷魚」


 促すと、とても小さな声で、言った。


「……抱き着いてきた……」
「うん?」
「お前が急に抱き着いてきたから、どうすればいいかわからなかった」
「……子どもか」


 もっと、何か取り返しのつかない酷いことをしたのかと思った。


「人形にするみたいにぎゅうぎゅう抱きしめてきて、好きだとか愛してるとか何遍も言って」
「それは少し恥ずかしい」


 腕を離す。氷魚の服を捲り上げてキスをした、とかじゃなくてよかった。そんなことをしていたら本当に酷い。抱き着いてしまったのもまあ酷いのだろう。氷魚がこんなに悩むくらいだから。可哀想なことをしてしまった。


「ごめんね、氷魚」
「覚えてないのか」
「惜しいことに。だからもう一度ぎゅってしていい?」
「嫌だ。あんなの」
「あんなの、っていう感触だったの?」
「……おかしく、なる。全身が心臓になったみたいで、気持ちが悪い」
「それはどきどきする、っていうこと」
「わからない」


 そんなの、わからない。
 小さい声で言う氷魚がとても可愛らしく、髪を撫でてみた。嫌がったりはしなかったけれどわかりやすく身体を強張らせる。前と同じようにキスでもしてみたかったが、できなかった。こんな風に怯えられると何もできなくなる。氷魚は本当に、人に好かれたりすることに免疫がないのだ。


「氷魚、好きだよ」
「俺は好きじゃない」
「知ってる。早く俺を好きになってほしいな」
「わからない……でも、努力はする」


 その言葉は突然で、まさかそんなことを言うとは思わなかったので驚いた。
  

「別に、亜道を好きになりたいわけじゃない。勘違いするな」
「慌てて言ってももう遅いよ。ちょっと調子に乗ってる」


 ふふふと笑うと氷魚が違うとむきになる。努力する、というのは、好きになるということへの理解を努力するということなのだろう。それくらいわかる。けれど先程の文脈が気に入っているので、そのように受け取ることにした。


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