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品が良く賢い、大型犬のような男。椅子に座ってただ眺めているだけでも飽きることのない広い背中、美しい首筋、艶のある黒髪を撫でれば柔らかな感触が心地よい。
上等な男は康昊の足元の床に座ったまま見上げてきて、微笑う。
「康昊さんの新しい本、読み終わったよ」
「そうか」
「うん。今、ちょっと悲しいです」
「悲しい?」
「このお話、恋人がいなくなって、主人公は新しい恋を始めようとするところで終わりますよね」
「そうだな」
「前向きで明るい結末なのに、恋人がいなくなった主人公の苦しさが終わりまでずっと残って、明るくても悲しいような気がするんです。うまく言えないんだけど」
本の登場人物の感情を貰い、しょげてしまった恋人を見て笑った。佳人は絵画からでも映画からでも影響を受けやすい。歌詞や曲調によってももちろんで、練習後に上がったり下がったり落差が激しく、本を読んだ今だってこうなる。
およそ何からでも、感情面での影響を受けやすいのである。
頭を撫でていたら、その手を取られた。指と指が絡む。
「……もしあなたがいなくなったら、恋はできない。人を愛することだってできない」
本の中の一節だ。
「その言葉は、佳人に似合わない」
こんなに愛を持っている男が、それを他の人に与えない、などということがあるわけないのだ。そんな風に考えた康昊を、思いのほか真剣な顔で見上げてきた。
「本当です。あなたから今の俺の全てはできてるんだから、泉が無くなれば当然水も枯れるでしょう」
「お前の中には確かに人を愛する気持ちがある。それが原泉じゃないのか」
「……そうかもしれないけど、他の人に与えたらきっと劇薬だよ。それか何の役にも立たないと思う。康昊さん専用だから」
言ってから、頬を緩めた。
「実際のところはわかりませんけどね」
口ではそう繕ったが、おそらく本当に思っていることを口に出したのだろう。言ってはいけないことを言ってしまった、というような顔をしている。
そんなに思われていることが嬉しく、同時に心の奥でじくじくと痛む部分がある。
幸せだ。愛されている。そう思えば思うほど、過去の記憶がより黒さを増して顔を出す。今でこそこうして外国でも安穏と生活できている康昊だが、その昔にはとても言えないような事柄が大量にある。もちろん、佳人にも言えない。この清らかで真っ直ぐな青年に聞かせるのは憚られる。けれどそれがまた康昊を苦しめる。
黙っている、ということ。
それは騙していることになりはしないか。
「……康昊さん、なんか顔色悪いよ。足が痛い?」
「大丈夫だ。なんでもない」
「嘘。康昊さんがそういう顔するときには何かあるんだって俺、知ってるんです。寝室で休もう?」
「心配しなくていい」
「ついでに抱きしめさせてもらえたら最高です」
「……それが本音だな?」
いたずらっぽく笑う佳人。立ち上がり、俺の両手を取る。
「たまにはいいでしょう、昼間からベッドで過ごすのも」
透き通った眼差しに見つめられると、黒いものはまた下に追いやられて大人しくなる。掴まって立ち上がり、そのまま佳人の首に口付ける。
強めに吸ってから見上げると、穏やかで賢い恋人の目にちらりと欲望が見えた。
カーテンを引いた寝室内は、お互いの顔がはっきり見えるくらいの薄明るさ。
枕を重ねて少し角度をつけたところへ康昊の身体を寄りかからせ、両足を跨いだ佳人は服の前を丁寧に開けた。黒いシャツの下には日に焼けていない青白い肌と様々な形と色の傷がある。足から頭まで隈なく爆弾の破片が傷つけていった、その痕。
身体を見せることに対して未だ抵抗感が拭えないままの康昊は毎回、明らかに硬い。だから頬を撫でてキスをして肌に触れて、気にならないことを知らせるところから始める。
柔らかく唇を重ね、その間にわき腹の辺りを撫でる。肌が温かくて心地良い。
傷に引っ掛かると微かに唇が震えることもあるが優しく無視をして、美しく割れた腹筋を撫でた。適度に筋肉がついたままの身体はさすが元軍人と言える。
「康昊さんって、あんまり外出したりしないのに筋肉は落ちないよね。とってもきれいな身体」
「佳人がいないときは、鍛えたりしてるからな。暇で」
「え? そうだったんですか」
「ああ。だらしない身体見せるのも、申し訳ないだろ」
自分の存在を意識してくれているのだと知った佳人の顔が笑みに染まる。
それを見て康昊も唇を緩めた。微笑んで首へ腕を回して引き寄せ、自ら口づける。触れるだけの子どもじみたそれが、今は佳人を煽りたてると知っていてのことだろうか。わからないままにまた唇を合わせながら手は腹から下へ忍んでゆく。
ゆったりした厚い生地の上からそこを撫でると、僅かに硬くなった感触が伝わってきた。形をなぞるように手を動かす。敏感に息を詰めたり漏らしたり、目を細めて素直に気持ち良いという顔をしている年上の恋人の顔を観察しながら佳人はにやにや、だらしなく緩んでしまう頬を抑えられない。
「笑う、な」
硬い指先が佳人の肌に直接触れた。Tシャツの間から両手を入れてきたからだ。腰を撫でた乾燥した手のひらは上に行き、胸に触れる。親指で胸の先を押し潰されて身体を揺らしてしまった。
康昊はただ受け身ではいてくれない。隙あらばこうしていたずらをしかけてこようとする。おかげで佳人のしなやかな身体は普通の男の身体より感じやすくなってしまった。
「いたずらはダメですよ」
苦笑しながら、中心にやった手に力を入れて咎めるように揉む。すると康昊の足が震え、手が緩んだ。無遠慮なまでに動かすと小さいながらも声が溢れてきて、それを色っぽいと知覚した脳が痺れ、興奮する。
生地の上からでは物足りない。もっと触りたい。もっと気持ちよくなってほしい。けれどこの明るさでどうだろう。思いながらも佳人は優しい声音で問いかけた。拒否をしてもいいのだという思いを込めて。
「康昊さん、脱がせてもいい?」
夜ならまだしも、この明るさだ。足だってしっかり見える。康昊が明るい場所で足を曝したのは片手で数える程度しかない。もちろんセックスの最中は一度もなく、いつも暗い中でのみ、だった。足首から下は何度だって見ているが。
康昊は微かに戸惑いを込めて隻眼で佳人を見上げた。
欲を滲ませてもなお穏やかさや優しさを保ったままの佳人の目は柔らかな視線で見つめてくる。そこには「だめだ」と言えばおとなしく引き下がる意思が見てとれる。
迷う康昊の胸元へ、しなやかな身体を伏せて佳人はキスをする。恭しくもある態度で、丁寧に。決してきれいではない肌を慈しみ、優しく撫でてくれる手、柔らかく捧げられる唇。何もかもを否定せず、拒否しない恋人の態度を信頼することにした。
「……いいぞ」
溜息まじりのような声は、少々情けなかった。
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