あなたと共に
長くも短な混乱の世が去り、五年の月日が流れた。
長谷川群慈は着物姿でのどかな田園の道を散歩する。
今は軍人ではなく警官として、配属されるままにあらゆる場所を転々としていた。居着けばすぐに見合い話が舞い込む。精悍な顔付きや恵まれた体格、無駄口を聞かない真面目な姿勢は結婚相手に最適だと見込まれてしまうからだ。
しかし群慈の部屋にはいつでも、専が残した帳面が大切に大切に飾られている。焼け焦げたページもありながら、持ち主の恋人である群慈を健気にも瓦礫の下で待ち続けていたらしい。
倒壊した家屋の下から見つけたとき、たまたま燃えずに残った一角にあった。しかし持ち主の姿はどこにもなく、最も燃えていた場所に着物の端だけが残っていた。
逃げるように。そう、逃げるように群慈は街を離れた。思い出が多すぎて辛かったからだ。
やはりあの人のほうが強いなと、思うことが何度もある。拒否せず、辛くても逃げないあの人。鈍臭いと言っていたけれど、群慈の目にいつも彼の背中があった。振り返っては明るく笑い、手招きをして優しくそばにおいてくれる。頭が固く、まじめ一辺倒で面白みの一切がないような性格の自分を愛してくれた。
こうして自然の中にいるとあの人がどこかにいそうな気がする。川に足を浸し、魚を見つけて無邪気に笑う顔があるのではないかと、つい探した。そんなことをいくつの街で繰り返してきただろうか。
家へ帰ると夕刊が差し込まれていた。
灯りを点け、なんとなく開く。復興の文字、戦犯の話。様々な痕がまだなまなましい。
その中の一番小さな記事に目が留まった。
『児童文学賞最高峰に復興の兆し――此度の戦禍により中断されていた坂城児童文学賞が研究者の尽力で再開される運びとなった。発起人は元国協大学文学部教授の椿専氏。募集開始は来年末の……』
わたしが書くのは子ども向けに見えるのかなあ。
眉間に皺を寄せ、何遍も何遍も自らが記した文章を読み直していた。それを奪って目を通すと、簡単な文章にわかりやすい構成、すらすら読めてしまう、確かにおとぎ話じみた内容。
どこに出すのかと問えば、純文学に投稿するつもりだと言う。少なくとも大人向けではないですね、と言うと、やっぱりそうですか、と、宛名を変えた。
今回の文学賞は、かつて彼の初受賞になったものだ。あまり頻繁に書いてはいなかったけれど。
生きているのだろうか、それとも戦中の動きが今になって実を結んだのだろうか。短い文章からは読み取れなくて、慌ててはがきを持ち出した。新聞社に問い合わせればわかるはずだ。
そのとき、とんとん、戸を叩く音。珍しいことではない。何かあったら住人がやってくるのだから。
仕方なく鉛筆を置き、戸を開ける。
「こちらは、長谷川群慈さんのお宅でしょうか」
にこにこ、記憶の中のそれとぴったり同じの優しい笑顔。しかしすぐにぼやけて見えなくなった。震えてしまい、舌が喉に張り付いたように息が苦しく声が出ない。ただみっともなく涙は溢れて、土間へと落ちた。
「探しましたよ、群慈さん」
ああやっぱり強い人。あなたの影から逃げている間にも、ずっと自分を探してくれた。
「あなたの涙が見られるなんて、生きた価値がありました」
優しい手のひらが涙を拭い、その温かさが消えないように両手で引き寄せ抱きしめた。
生きている。生きている。
群慈が泣いているとき、専も一緒に泣いていた。ただ見られないようにこっそり拭っていたけれど。
「群慈さん、やっぱりあなたの着物姿はとっても素敵です」
震えた声にも気づかない。
群慈はただひたすらに涙を流した。
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