拝啓、きみ | ナノ

喪ったもの


 不思議だった。もうだめだ、と思ったとき、頭に浮かんだのは、親や、兄弟や、仲間への感謝の気持ち。それから、ほんの少しの後悔と未練。この場所でなんの役にも立てずにただ朽ちることに対する未練、大切に思った人の顔をもう見られないことと多分その人には誰も伝えてくれないだろう後悔。

 案外律義なあの人は、きっと待っていてくれるだろう。何年も、何十年でも。几帳面な性格の誰かが生き延びて伝えてくれるとありがたいのだが。一応託した遺品が、回り回って届くといいな。あの、空色の目が綺麗な蝶々さんのもとへ。最期に聞くならこんな銃声じゃなく、あの人の唄声がよかった。贅沢か。





 嫌な役だ。最初に伺った中尉の家では、気丈な子どもが待っていた。遺品を見てどこか安心したように微笑んだきれいな子。
 次に訪れた大尉の家は跡形もなく、近所の方の話では家族全員が犠牲になったのだそう。遺品は、家族が弔われたらしい石の横に穴をほって埋めてきた。

 そんなことを繰り返して三日目。

 藤原将官に連れられてきたことがある、立派な妓楼。
 戦後は旅館と名を変えているらしかった。相変わらずの盛況ぶりか、身なりのいい紳士淑女外国人が訪れる。表から入り、応対に出てきた男に「雅からの遣いだと、蝶々様に伝えてくれ」と言うと飛ぶように消えた。いつ来ても慣れない場所だ。欲の匂い。


「久しぶりだな」


 明るい場所、素顔、簡素な身なり。それでも輝くのだから、美しい、とはこのような人を言うのだろう。長い黒髪を高い位置でまとめた蝶々は微笑み、雅からか、と、声を朱い唇へのせる。その目の前に薄汚れた布包を置いた。


「……南方にて、雅佐織は立派に戦いました。これはあなたにと」
「……そうか」


 どうして皆こうなのだろうか。感情を出さない。ただ微笑み、どこか安堵したような顔をする。「なぜお前だけが生き残ったのか」と罵ってくれでもしたら、苦しむこともできるのに。これが職業軍人と添うた人々の覚悟、なのだろうか。労われ、頭を下げて楼を出た。残りふたつの包。





「お辞めください、蝶々様はお休みでございます」
「お辞めください」


 賑やかな声に我に返るとすでに辺りは真っ暗だった。いつの間にか明かりが灯され、ぼんやり室内が照らし出されている。賑やかな声は廊下から聞こえているようだ。禿たちの「お辞めください」と幼い声、重なるように店主の声も。


「蝶々っ、具合が悪いってのは本当か!」


 姿を見せたのは楽市だった。腰回りに困って泣く禿をくっつけ、後ろには怒ったような困ったような顔の楼主と男たち。


「体調が悪くて休みだと聞いて心配で心配で……蝶々、いっつも元気ねぇから大病じゃねぇかって……美人薄命とも言うだろ?だから……」
「……落ち着け。落ち着いて座れ」


 畳にあぐらをかく楽市を見て、廊下に目をやる。


「親父殿、心配なさるな。この客人はいつもこのよう、猪突猛進を体現するようなお方なので」
「そうかい。本当に大丈夫かね」
「ええ。お前たちも少しお休み」


 抱きついてきて泣く禿を撫で撫で、言い聞かせて隣の部屋へ。


「……休みに来てもいいことはないぞ。着飾ってもない、化粧もしてない。夢など見られないだろう」
「いや、蝶々はいつもきれいだ。そうすっきりした格好も悪くない」
「……物好きめ」
「悲しいことでもあったのかい。今日のお前は、普段よりもずっと弱々しく見える」
「さあ、どうだか」
「蝶々」
「楽市、お前に頼みがある」
「何だ。蝶々の頼みなら火にも飛び込むぜ」
「これで、髪を切ってはくれないか」


 雅の遺品は、短刀だった。ごく短いものだが立派な拵え、家紋が付き、刀身もまだまだ活きている。髪を切るに十分な切れ味を残しているようだ。畳においたそれと、こちらの顔とを何回も見比べる。


「いいのか」
「ああ。もうこの髪を辿ったところでその先に待つ者はない。ならば断ってしまいたいのだ。重たいしな。……お前が躊躇うなら、自分の手で」


 短刀を手に取り鞘を払い、髪を掴んで一息に。ざくり、と、布が千切れるような音がして、黒いものが畳を打った。これが俺の思いの重さか。こうなってしまえば随分軽いもの。


「呆気ないものだ」
「蝶々、何を……勿体ねえ」
「構わない。軽くなった」


 黒い髪と一緒に、思いが落ちるかと思えばそんなことはなかった。佐織への思いが無くなるかと思えば、そんなことは、なかった。
 こうして夜の中を溺れるように生きている人間が、たまたま掬いあげてくれた客に恋をした、と、笑い話にもならない。何百年も前からこの手の話は悲劇としてしか伝わっていない。その程度の事。自分がまさかこのようになるとは思っていなかった。
 客を思って泣くなんて、あってはならないことなのに。


「蝶々……?」
「……見るな」
「どうしたんだ」
「なんでもない」


 見るな、と言ったのに、楽市はこちらへ近付き、顔を覗きこんでくる。今、一番してもらいたくないこと。
 顔を俯かせれば膝を濡らし、横を向けば肩を濡らす。声が出ないようにするのに必死だった。涙はもう止まらないとわかっている。


「……蝶々」
「なんでもない」


 楽市は、何も聞いてはこなかった。
 ただ、抱きしめただけだった。昼のように明るい男に包まれて、強烈な明かりと熱さに目がくらみそうになる。求めていないのに縋ってしまう、それがなんだかひどく悲しく思えた。


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