小説 | ナノ

一つの愛の話


 

ヒト
清浄(せいじょう)


ちょっと痛苦しいところもありますご注意を。





 たまに、夢を見る。長く暮らした古い家で当たり前のように寝起きして、仏壇に手を合わせて、出勤して、帰って。日常の夢。ひどく尊い、わたしにとっては幻のような夢。
 目を開けると、明るかった。日光が室内を照らしているせいなのか、明かりが点けられているせいなのか、よくわからない。視界がぼやけている。もやもやと色や明暗はわかっても、像を結ぶことのないわたしの目。夢の中だけだ。何もかもがわかるのは。

 手探りでベッドの脇の時計のスイッチを押す。告げたのはまだ早い朝の時間。
 廊下を歩き、リビングへ行く。ようやくこの新居の間取りと家具の配置に慣れたから、ぶつからないでいられる。何の物音もしないリビングの壁に指先で触れながらキッチンへ足をのばし、冷蔵庫を開けて指で探る。毎回同じ並びにしているから、オレンジジュースを選んでキャップを開け、これもまた同じ配置で棚に収めているコップを取り出して注いだ。
 椅子に座って、飲む。
 静かな部屋の中。どこにも気配はなくて、音もない。しんとしているのが耳に痛いほど。夏の初めだと言うのに妙に肌寒く、七分袖に長ズボンの薄い寝間着のままでは足元が冷える。冷たいものではなくて温かいものにすればよかったな、と考えながら、ゆっくり飲み干した。喉が鳴る。その音も、部屋に染み込んですぐ消えた。

 雨が降ってきているらしい。音で気付いた。ぱたぱた、窓に当たる雨音。ぴたぴたと、雨どいから垂れる雫がどこかを打つ音。僅かに窓を開けると、家を囲む緑や土が放つ香りがした。新鮮な空気の匂いがひんやりと鼻腔を通り抜ける。
 着替えて、弱く火を点けたストーブの前で膝を抱えて座る。膝頭に頬をつけて丸くなるとなんだか安心した。でも背中が少し寒いような気がする。抱っこしてくれる存在がいないというのは心もとない。この家が完成して、引っ越してきて三か月。一度もあの人は帰ってきていない。ほかに家庭があると言われても納得できてしまう、男前で優しい人。忙しいのは仕事か、そのほかの付き合いなのか、誰かと会うのに忙しいのか。不誠実な人ではないと知っているのに、ついついいろいろ考えてしまう。本気ではないのだけど。浮かんでは消えて思い出せないような由無し事。

 周辺を歩くのは慣れたし、散歩でも行こうか。それとも音楽でも聞こうか。あれこれ考えながらぼんやり。ふと、思い出して、立ち上がってカウンターの上を探る。手に当たった平たいものを取り、また元の位置へ戻った。同じ姿勢になって頬を膝頭へ預けて、床に置いたスマートフォンを操作する。
 案内音声に従い、細い指でぽちぽち。開いたアプリはスタンダードなメッセージアプリの内容を保存しておけるもの。再生ボタンを押す。


「ヒト、ちゃんと飯食ってるか。ひとりだからって適当にしねぇでいいもん食えよ」
「ヒト、まだ起きてるのか。早く寝ないとまた辛くなるぞ」
「会いたいな、ヒト。抱きしめたい。声だけでも聞きてぇんだけど」
「ヒト、もうすぐ帰る」


 最後の、もうすぐ帰る、から、ゆうに二か月は経っている。わたしが返事をしないから怒っているんだろうか。話そうとしても、近くにいないと何を話していいかわからなくなる。この多機能な携帯電話に変えてから、こうして頻繁に連絡をくれるようになったのに心の距離は近くならない。前よりも遠のいたような気さえする。愛していることに変わりはないけれど、どうしてだろう。
 引っ越してきて、前より一緒にいられると思ったのに、帰ってこない。これならば離れて暮らしていた時のほうが良かった。次、会えるときを明確にしてくれて、必ずそれを守ってくれたから。こうしてひとりを感じることは、少なかったから。

 静かな部屋は、とても寂しい。
 あの人が帰ってきてくれる、そう期待すればするほど。


「……だめだ」


 こうじめじめしていても仕方がない。
 気分を切り替えよう。

 自室へ向かう。一番陽の当たる場所を選んで与えてくれた部屋は風通しがよく、日光が強い日でも暑さがこもらないようにしてあるらしい。確かに、ドアを開けておけば廊下の窓と外に面した引き戸といい位置にしてある。
 家を建てるにあたり、何か希望はないのかと聞かれた。特にない、と答えたような気がする。段差が少なくて把握しやすい間取りならなんでもいい、と。
 部屋の空気清浄機のスイッチを入れ、除湿をする。それからお香を焚いた。目が見えなくても火を扱うことはできる。今は便利なものがあって、香炉にお香を入れて蓋を閉めてスイッチを入れれば熱が先を温め、点火してくれる。アロマオイルよりお香のほうが好きだ。幼いころから親しんだ、祖父の家の香りに近いから。

 椅子に座り、香りの中で目を閉じる。閉じても開けてもそう変わりはしないのだけど。
 最初は見えた。だから、あの人の顔も知っている。近寄り難そうな、少し怖い顔。初めて会った場所は警察署。事務をしていたわたしの前を通りがかって、戻ってきて、話しかけてきた。明らかにそちら側の人だったので怖かったけれど意外と優しくて、笑顔もかわいくて、ずるずるとのめり込んだ。あっという間に落ちてしまって、それで――。
 後悔はしていない。全く。こうなったのはあの人に関係していることだけれど、どうしてだろう。恨む気持ちもなければ、怖いとも思わない。


 突然、テーブルの隅から音がした。誰でも知っているだろう星の歌が、あまり大きくない音で流れる。鍵が開いたことを示す音で、この歌が鳴るときは侵入ではなく、玄関の鍵が正しいもので開けられたことを教えてくれる。
 正しい鍵を持っている人は、自分以外にはひとりだけ。
 なんだか急に、どきどきと胸が鳴った。緊張する。とりあえず手を伸ばしてボタンを押し、音をとめる。


 手のひらが後ろから頬に触れて、飛び上がったかもしれないくらいに驚いた。気配がなさすぎる。けれどその皮膚とか厚みとか香りとか、覚えがあったので大きな声を出すことは避けられた。


「玄関まで香の匂いがした。身体の匂いと同じやつ、だな。帰ってきた、って、安心した」


 上を向かされ、額に唇が触れる。目を開けても顔は見えず、でも影があることがわかる。あと黒い髪、のようなもの。


「待たせて悪かった。一人で寂しかったろ」
「……いえ、全然? 大人ですから、それなりに」
「嘘は向いてねぇからやめとけ」


 携帯電話から流れる声よりもっと深みがあって耳に心地よい、静かな低音。


「なんでわかられてしまうんですかねぇ。残念です」
「お前の顔も声も、えらく素直だからな。一目でわかる。寂しがってたことも、連絡しようと思ってできなかったことも」


 手のひらが、腕を滑って手を握る。温かい。


「冷えてんな。またこんな薄着でぼーっとして。寒い日は厚着しろって何遍も言ったろ」
「まさかこんなに早くお帰りになるとは思わなかったので油断しました」
「……ちょっと会わねぇ間にずいぶん言うようになったな」
「ちょっと? ちょっとですかそうですか。あなたの中ではそうなんでしょうね。わたしの中では半年近く会わないのはちょっととは言わないんですけど」
「怒んなよ。べっぴんが台無しだ」
「そうさせてるのはあなたですよ」
「すみませんでした。これからはずっと傍にいます」
「できもしないような約束、するものじゃないですよ」
「おう、俺のハートに挫滅創」
「おかえりなさい、清浄さん」
「ただいま、ヒト」


 優しい声で言われて、収まったかと思った鼓動がまた、速まった。安いわたしの心臓。
 手を伸ばして顔を探る。どのあたりかな、と一瞬彷徨った。手首を掴んで、誘導して、触れさせてくれる。ぺたりと頬に触り、顔の形、感触を確かめる。


「……清浄さんだ」


 息を吐きながら言うと、うう、と呻き声がした。額に唇がまた降ってきて、それだけでなく顔中にちゅっちゅちゅっちゅとしつこいくらいに触れてきた。


「あー可愛い。どこまで俺を好きにさせりゃ気が済むんだよ」
「今のどこにそう思う要素が」
「いや、ヒトはすげぇ可愛いんだよもっとわかれ自分の良さ」
「清浄さんがわからせてくれたらいいんじゃないですか」
「そりゃ名案だ。愛し合うか」
「もう四年くらい可愛がっていただいていませんけど」
「うっ俺のハートに挫滅創・再」
「まあ、清浄さんがそうできない理由もわかりますよ」


 そっと手を下ろして、自分の身体を撫でる。


「嫌ですよね」


 わかります、と、小さな声で言った。見たくない気持ちも触れたくない気持ちも、とてもよくわかるから。


「お疲れなんじゃないですか。早くお休みになっては?」
「風呂でも入るかな」
「そうですね」
「ヒトも一緒に」
「……いえ、わたしは」
「いいの。俺、離れてる間にいろいろ考えたんだよ」
「でも」
「俺はもう、逃げねぇから。だから、ヒトも俺を受け入れてくれ」
「……清浄さんがそうやって言うときは、頷くしかないとき、ですよ」


 わたしの手を引いて、清浄さんが浴室へ行く。お湯を入れる音がしていて、その間わたしはずっと立ち尽くしていた。まだ明るいのに脱ぐのが躊躇われる。
 ぎゅ、と、服を掴んでいる。子どもみたいに見えるんだろう。清浄さんはどこにいるんだろうか。急に不安になって、顔を動かした。


「ヒト」


 声がする。お湯の音が止んだ。


「ヒト」


 呼ぶ声に従って足を踏み出す。
 両手を握られて、それぞれの手首のあたりに唇が触れる。とても強い清浄さんの手も、唇も、皮膚に触れた息もなんだか少し震えていて、自分だけが怖いのではないのだと思うと、どこか少しだけ楽になる。


「清浄さん、怖い?」
「当たり前だろ。すげぇ怖い」
「……どうして?」
「どうしてだろうな。いろいろと」
「清浄さんみたいに強い人でも、怖いと思うことがあるんですね」
「怖いことばっかりだ。例えば、長期間家を開けて嫌いになられたら、と思うとすげぇ怖いし、連絡無視されてると思うと怖いし」


 清浄さんの手がそっと離れて、シャツの裾にかかった。思わず跳ねてしまうわたしの身体。


「何より怖いのは、俺が、ヒトの前から逃げ出すこと。泣いてるヒトほったらかして、尻尾巻いて逃げ出すようなことになるのが一番怖い」


 服を脱がせた清浄さんの手のひらが、肌に触れる。そうされるのはとても久しぶりで、以前触れてもらったときにはまだそれなりにきれいだった皮膚。今は、とても醜いだろう。傷がついて痕になったところ、焼け爛れて引き攣ったようなところ。上にも下にも、表にも裏にも。
 

「……っ」


 すべて脱がしきってしまって、清浄さんが息を詰めた。小刻みに揺れているのは、わたしなのか、清浄さんなのか。腹の辺りへ顔が埋められ、息がかかった。深い深い、溜息。


「……清浄さんの目に、何が見えていますか」
「……自分の不甲斐なさ」


 髪を撫でる。しなやかで、記憶に残っているものよりもいくらか伸びているような気がする。しばらく切っていないようだ。


「清浄さん、まだ、わたしのこと、好きですか。こんな、身体ですけど」
「ああ。お前は、残念かもしれねぇけどな」
「どうして?」
「俺みたいなのの傍にいたら、次は殺されるかもしれないだろ」
「それでも、別に構いませんよ。わたしを失った後にあなたも死んでくれるなら」
「……本当に、言うようになったな」
「日々成長しているんです」
「そうですか。それは結構なことです」


 感覚があいまいな部分に指先が触れたらしい。もやもやとしたものを感じる。そこは爛れた場所で、とても汚いだろう。けれど清浄さんは何度も何度も撫でて、キスをした。周りにも。
 手のひらが内股をさする。そこにも凹凸がある。足を開かされて、つけられた。その時のことを思い出して背中が粟立つ。鳥肌が立って、清浄さんの手だとわかっているのに叩き落して逃げたくなってしまった。


「……嫌か、ヒト」
「……気持ちよくは、ないです」
「そうか」


 すり、と、長い間慈しむようにもみ撫でられて、段々嫌なだけではなくなってきた。感覚が上書きされるように。


「なあ、ヒト。本当は、嫌か」
「なにがですか」
「住み慣れた場所から引き剥がしてこんなとこに閉じ込めて、待たせるだけ待たせて、視界まで奪われて、全部の原因の俺の傍に置かれるの」


 まるで、嫌だと言ってほしいかのようだった。清浄さんの声はとても辛そうだ。


「……清浄さんのほうが、嫌なんじゃないですか」
「あ?」
「わたしがこうなってもなお、傍にいるの。鬱陶しくてたまらないんじゃないですか」


 わたしの声もそうだった。清浄さんに、嫌だと言ってもらいたいかのように聞こえた。


「そんなわけないだろ。ヒトがいないと生きてる意味もわかんねぇよ」
「わたしも同じです。清浄さんがいてくださらないと、わたしは、どうして生きているのかわかりません」


 水が落ちる音がした。
 清浄さんの腕が、腰のあたりを抱きしめる。


「……なんでかな。ヒトのこと、自由にしてやりてぇのに」
「わたしは清浄さんといれば自由ですよ。いつだって」
「籠の鳥でも?」
「羽ばたくだけが自由だと思いますか。地面を歩いてなお自由な鳥だっているでしょう」
「……俺の手の中でも?」
「大切に可愛がっていただけるなら、満更でもありません。あと、待たされるのだけはもう嫌です」
「……ヒトは強いな」
「ええ、あなたよりは、そうかも」
「あー」
「どうしました」
「ヒトには敵わねぇな。好きだ。すげぇ愛してる」
「こんなわたしでも?」
「まるごと愛してる。服従の証に足でも舐めてやろうか」
「それは布団の上でお願いしたいですね」


 えろいな、くそ。
 呟きが、お腹をくすぐった。笑うと、冷えちまったな、と聞こえて手を取り、身体をお湯に浸からせてくれた。


「身体、洗ってやる」
「久しぶりですね」
「んで、愛してやるよ」
「施しですか」
「愛させてください」
「可愛がってくださいね」
「飽きるくらいな」
「お願いします」
「錆びてねぇかな、俺の息子」
「錆びていたら、舐めてとってあげますよ」
「……おや、錆びているようだ」
「ヤスリが先かな」
「あらびっくりめちゃ元気。全然現役」


 清浄さんはわたしの全てを奪った。
 でも、わたしに全てを与えた。


「清浄さん」
「ん」
「大好きです。殺されてもいいくらい」
「俺も愛してるよ、ヒト。殺して食いたいくらい」





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