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 性行為恐怖の男の子 3-2


 まだ新しい救命センター内にある医局は明るく広いが、旧棟にある小児科の医局は暗くて狭い。ガラス張りのドアから中を覗くと医師はひとりだけ。ノックをして開ける。


「お疲れ様です」


 振り返った医師は目当ての男だった。人のよさそうな顔を和ませ、立ち上がる。七尾より背が低くて身体つきも頼りない。まあ大抵の医師がそうなのだが。


「七尾先生? お疲れ様です。珍しいですね」
「少し用事があって。君に」


 銀縁眼鏡を指で押し上げ、笑いかける。が、その目が笑わないことは自分が一番よく知っていた。
 なにか違う雰囲気を感じ取ったらしく、男性医師は小さく首を傾げた。本人の癖で意識はないだろう。


「先生、ここに来て何年でしたっけ」
「やだなー忘れちゃったんですか。七尾先生の三年下なだけじゃないですか。一緒にサークルもやったのに」


 そう、この医師は七尾と同じ大学出身だ。研修もここだった。それをすべて見てきたし、最初の面倒も見てやったものである。
 七尾の目が怒りを孕んで細くなる。ただ事ではなさそうな雰囲気に、笑いを消した医師が数歩後ろへ下がった。


「な、なんか七尾先生、変ですね。働きすぎですよ」


 大学の頃、耳にした噂。サークルの誰かがしょっちゅうアパートに子どもを連れ込み、性的な行為に及んでいるらしい、というもの。それを聞いた時、隣で笑い飛ばしたのはこいつではなかったか。
 なぜそのときに一人だけ汗をかいていたのか。聞けばこうならずに済んだのだろうか。


「……名沖悟志、知ってるだろう」


 びくり、と、明らかに肩が跳ねた。顔が引きつる。わかりやすい。
 七尾が一歩近付くと医師が一歩下がる。


「知らないのか。名沖悟志? お前がずっといたずらしていた子どもの名前のはずだが」
「……し、しらない」
「ふうん、その子はよく覚えているがな。自分に嫌なことをした奴の名前も、何をされたかも」


 俺に話してくれたよ。
 そう言った七尾の言葉は嘘ではない。
 男の顔が真っ白になり、唇が震える。


「嘘だ。覚えてるはずがない、あん、あんな昔のこと」
「昔のこと?」
「そうだ。覚えてるはずがない。あの子は、治療のあとでぼんやりしていたから、オレはそれを狙って、」
「なんでだ」


 七尾の大きな手が、男の襟首を掴み上げる。その顔は怒りに染まり、憤怒そのもの。普段穏やかな顔ばかりで想像もつかないほどの迫力を持って迫る。


「なんで、あの子に手を出した」


 黙ると容赦なく首を絞め上げられる。七尾の方法は痕が残らず最も苦しい絞め方。筋力に任せず、角度や場所、力加減を適切にすれば可能だ。監察医である教授に習ったことがまさか活きるとは。


「可愛かった。いちばん、可愛くて、大人しくて狙いやすかった」
「何をしたか、はっきり、お前の口から言え」
「……」
「言え」
「触った。触って、性器を擦り付けて、舐めさせて、挿れた。写真も」
「その写真はまだあるのか」
「ある、ある!」


 ぎり、と勝手に手へ力が入った。絞め殺しても構わない気がした。しかし殺してしまえば名沖の写真が他の誰かの目に触れる。事によっては名沖が巻き込まれかねない。
 なんとか力を抜き、咽る男を机へ叩きつけた。伊達に筋肉がついているわけではない。息を詰まらせ、再びひどく咳込んだのを見ながら耳元へ顔を近づける。


「その写真を全部出せ。ネガやデータがあるのならそれも残らず貰う。コピーもだ。隠したら――」


 男の小指を曲がらない方向へ曲げ、強く引く。がくんと抜けた感触があった。脱臼を治せるのならば起こすことも容易だ。
 叫び声が上がる。
 意に介さず、七尾はさらにその指を引く。


「小狡い真似したら、どっかでお前の全身の骨を丁寧に外して救急車を呼んでやるよ。救急に来たら最後、担当は俺だ。どうなるかわかるだろ?」


 忙しい時の救命救急は戦場で、いちいち誰が何をしているか気を配っている暇はない。にこりと笑った七尾は、医師にあるまじき言葉を低い低い声でそっと囁いた。


「      」


 目を見開いた男は、震える手で机の一番下の引き出しを示す。
 そこにはファイルがあった。背表紙には名前が書いてあり、一見患者の記録ファイルにも見える。その中に名沖悟志と書いてあるものがあった。
 急にすべてが汚らしい物に見える。多分ここにある名前の子は、すべて名沖と同じことをされたのだろう。
 名沖のものを抜き取り、男から手を離す。開くと内側にネガやUSBが入っていた。ご丁寧にデータ化したようだ。それから小さなテープ。動画まで撮影していたのか。
 舌打ちをすると机に伏せたままの男が身体を揺らした。完全に七尾に怯えている。

 目を逸らしたくなるような写真ばかりがそこにあった。可愛らしい子どもによくこのようなことを強いたと思う。
 泣きながら嫌だと言ったはずだ。やめろと、怖い、と。ここにある名前の子は皆言ったはずだ。
 名沖が怯えて、冷える。この時もきっと同じだったはずなのにこの男は、構わずに。
 怒りに任せて男の顔の真横へ手を振り下ろした。みしり、と鳴る机。鼻の僅か先で業務机の表面が凹んだのを見て男はガクガク震える。


「本当にこれだけだな?」
「ほ、本当です。疲れたら見るように、ここに。バレないようにこれだけにしてます」
「下衆が……」


 七尾はすべてのファイルを重ね、他の引き出しにないのを確認してから院内専用の電話で連絡を取った。
 相手は副院長。手短に説明し、今すぐ来るようにと言う。小児科長も連れて。

 さり気なく名沖のを隠し、急いでやってきた二人に事情を説明して引き渡した。病院にいられることはおそらく、ない。もし有耶無耶にされようものならその時はそれなりの方法を取る。
 警察なんかに通報して終わりにはしない。
 もっともっと、一生苦しめて追い込んでやる。

 銀縁眼鏡を押し上げた七尾の顔は、ぱっと見普段と変わらない。その小脇に茶色のファイル。その左手は赤く腫れ始めていた。

 こんなに怒りを覚えたのは初めてで頭がガンガンする。戻った、まだ新しい部屋。夕日に染まる室内はオレンジで、七尾の手も普通に見える。


「……小児科の先生が、子どもに猥褻してたらしいですね」


 白い巨人の異名を取る先輩医師がソファに座っていた。


「もうご存知なんですね」
「巨人ですから」
「……どうケアしたらいいのかわかりません。こんな辛いことをされてついた深い傷は、俺なんかの手にはおえない」


 力なく、七尾は椅子に座った。痛む頭にもたげる疲労感と虚無感。
 机に肘をついて頭を抱える。原因がわかってもなんの意味もない。それで名沖が楽になるわけでもなんでもないのだから。
 むしろあの男を逃しておいても良かった。誰も何も言い出さず、名沖のように記憶のそこで蓋をした子だっていたはずだ。これから苦しむかもしれないのに。
 それでもあの男を責めずにはいられなかった。
 何よりも大切な子に酷いことをした男がこんなに近くにいて笑っている、と思うとやりきれなかったのだ。


「悟志くんは七尾ちゃんのことが大好きだから、一緒にいて気長に付き合ってくれることだけ望んでるんじゃないですかねえ。難しいこと考えないで」


 しばらくの沈黙ののち、静かな部屋に響いた鞠宮の言葉は真実のような気がした。
 七尾の目が開く。


「時間が解決してくれる、とかは言わないですけどね。でも、時間をかけて積み上げた関係の中で変わる物もあると思いますよ」
「……なんか、はっきり言いますね」
「ええまあ。あ、その被害者の子たちには最大限配慮するように上層部のボンクラ共に圧を掛けますし、俺があらゆることに立ち会うのでご心配なく。お疲れ様でした」


 笑った鞠宮はするりと立ち上がって出ていった。
 残された七尾は、ファイルを引き出しにしまって鍵をかける。それから帰り支度を始めた。
 早く帰れる貴重な日を逃すわけにはいかない。家でぬいぐるみと一緒に可愛い子が待っているのだから。


「ただいま、名沖くん」
「おかえりなさい」


 パンダを抱いてやってきた名沖を、七尾はしっかり抱きしめた。
 温かく、小さく、華奢な恋人。可愛く笑って身を委ねてくれる。
 これからゆっくりやっていこう。必要があれば、今日のことを話そう。


「愛してるよ」


 名沖は驚いてから、嬉しそうに。


「うん。おれも七尾先生がすき。愛してる」


 玄関でのキスは、パンダのみが見ていた。
 




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