小説 | ナノ

アルバイトについて 3


 

鞠宮 雨生(まりみや うき)
鞠宮 俊寿(まりみや としひさ)





「ただいまー」


 玄関からおっとりした低い声が聞こえ、雨生はコンロの火を弱めて走っていった。履いている青いスリッパがぱすぱすと音をたて、その音が目の前に来るのを俊寿はわざわざ玄関で靴を脱いで待っていた。


「お帰りなさい」


 にこにこ笑って抱きついてきた、可愛いかわいい伴侶。普通にしていたらほぼ目に入らない雨生のふわふわくるくる髪を身長に見合った大きな手で撫で、屈んで白い頬へちゅっと唇を落とす。
 すると頬を赤らめて嬉しそうに笑うのが可愛くてたまらない。出会ってもう十数年、苗字を同じくして三年と少し経つのに嫌になることも見飽きることもまったくない。不思議なくらいに雨生のことを好きなままである。
 小さな顔を両手で挟んで、柔らかな頬の感触を堪能するように軽く押してみたりする。


「ただいま、うーちゃん」


 ただいま
 お帰り

 そんなやり取りだけでも、胸がきゅうっとする。彼に恋をしたあの日と同じだ。

 ベッドに埋もれるほど小さかった雨生。顔色が悪くて、たくさんの機械を身体につけて、無機質な空気の中に機械音が混ざる病室で初めて会った。生命を刻む音が露出して、人を不安にさせるような感覚なのに彼は笑って、俊寿に挨拶をした。


「こんにちは、せんせい」


 前の病院では手の施しようがないと言われたらしい。けれど送られてきた雨生は何も聞いていないのかと思うような明るさだった。看護師に対しても子どもらしく振舞い、可愛いともっぱらの評判だ。確かに病室を覗くと子どもらしすぎるほどに元気で、天真爛漫ということばが良く似合うような子に思えた。

 しかし、どうだろう。明るすぎやしないだろうか。
 そう気付いたのは俊寿だけ。

 転院してきて一か月後の夜。白衣を着ない主義の俊寿は夜中の小児科病棟へやってきた一般人にも見えた。ゆったりした白の長袖Tシャツに同じくゆったりした紺のタイパンツ。巨人とあだ名されるほどの長身をゆらゆら揺らめかせるように歩く。新人らしき看護師がぎょっとした顔で呼びとめてきたほかに異常はなかった。

 一度端の病室まで行き、担当の子が眠っているのをドアの傍から確認する。当時は心臓外科に所属していた俊寿は、たびたび小児の分野も担当することがあった。
 ナースステーションに程近い個室を覗く。と、カーテンの向こうではまだ灯りが点いていた。腕時計を見るとまもなく午前になろうとしている。


「雨生くん、入ってもいいですか」


 吐息を多分に含んだ声で話しかける。するとかすかに、どうぞ、と声が聞こえた。少女のような少年のような、区別のつかない妖精の声。
 丁寧にドアを閉じてカーテンの内側へ行くと、やはり雨生は起きていた。ごしごし、一生懸命目をこすっている。俊寿は細い手首を柔らかく掴んで、止めた。大きな目から涙がぼろぼろとこぼれる。


「可愛い目が傷んでしまいますよ」
「……発作より、いたくないです」
「小さな痛みでも、身体によくありませんから。そもそも泣くという行為は悪いことではありません」
「でも、心配します、まわりの、ひとが」
「周りは心配することが仕事です。雨生くんは心配させることが仕事なんですよ」


 白い布団の上へそっと手を置き、頬を撫でる。あたたかな涙が俊寿の親指の上を滑って落ちた。子どもらしく明るいばかりの雨生は、癇癪を起こしたり不安を表すことが一切なかった。大人でも、長期間の闘病は苦痛を伴う。先の見えない病に関する心の苦しさの片鱗を見せることがある。しかし雨生は、一切なにも口にしなかった。
 それは故意に隠しているとしか思えないような不自然さだった。

 誰にも何も言わないままで、こうして夜にひとりで泣いていたのだろうか。
 だとしたら、なんて悲しいことだろう。抱えきれるはずがないのに。


「雨生くん、辛いときは辛いって言ってください。俺にだけ、でも構いません。文章でもなんでもいいんです。あなたがひとりで泣いていると思うと辛くてたまらない。俺まで泣きたくなってしまいます」
「……でも、先生は、いそがしい」
「いいえ。大丈夫です」

 
 雨生は静かにしくしく泣いた。一度も声を漏らしたりはしなかった。ただ、涙を流すだけ。病室という場所で泣き慣れた子はこういう風なのだろうか。
 そっとベッドへ腰掛けた俊寿の腕に柔らかく抱きしめられ、雨生は不器用に身体に力を入れたまま、泣いた。

 この子どもに恋をしたのだと、気付いたのはもう少しあとのこと。
 手術をして愛しい子の身体を割り開いて心臓に手を入れて、どうかずっと一緒にいられますようにと呪いにも似た願いをこめて閉じた。
 それから愛を告白して呼び方がうーちゃんに変わり時を重ねて、苗字と家とを共にして、成長を見守って。まさかここまで共にいられるとは予想もしていなかった。数回の手術のたびに、もう最後なのだろうかと思ってみたりして。今でも一日いちにちが過ぎることが、ただ尊い。


「先生?」


 不思議そうに首を傾げる雨生は当然あの頃よりずっと大人で、身長も伸びて体重も増えて、見た目は健康的な同じ年頃の子と変わらないように思える。やや小柄で色白で細身ではあるが。
 しかしその目や性格はあまり変わらない。いつだって大きくてきらきらしていて、我慢ばかりしてしまう。


「なんでもありません。少しぼーっとしてしまいました。疲れてるみたいです」
「今日は早く寝ましょう」
「そうですね。ご飯を食べてお風呂に入って、速やかにベッドへ行きましょう」


 俊寿はおもむろに雨生の身体を引き寄せ、抱き上げた。細身で小柄な伴侶は簡単に腕の中に収めて抱え上げられる。身体からはいつだっていい匂いがして癒される。
 肩に担ぎ上げられた雨生は驚いたように目を丸くし、けれどすぐ楽しそうに笑った。


「高い!」
「天井が近いでしょう」


 そのままでのしのし、廊下を歩く。
 雨生はきゃっきゃと楽しげに声をあげていた。キッチンから漂う出汁の匂い。今日はそうめんだろうか。それと焼き魚。あとはなんだろう。

 幸せの匂いは、今日も家の中にあった。





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