小説 | ナノ

ピアノと喜びちゃん 3


コンスタンティン
樫戸 喜代(かしど きよ)





 広いベッドの中でもそもそしてから起き上がった喜代。ぼんやりした視界に入った広い部屋、その中でベッドにいちばん近いソファに座っているコンスタンティンはすでに寝間着姿ではなかった。
 目を覚ましたのに気付き、こちらへ移動してくる。大柄な彼が座った拍子に大きく揺れた。体格に見合った立派な寝台なのに。


「おはよ、喜びチャン」


 長い腕に抱きしめられ、厚い胸へ起ききっていないでぼんやりしたままの頭を寄せる。するとふわんとボディーソープの良い香りがして、すでに走ってきてシャワーを浴びたことがわかった。コンスタンティンは毎朝のジョギングを日課にしていて、今日のような休みの日も欠かさない。
 温かい身体が少し離れ、長いしなやかな指が喜代のピンクの前髪を整える。更に白い頬を手のひらで包み、軽く上を向かせてから唇を落とした。


「喜びチャン。今日もとってもカワイイ」


 歌うような弾むような声。外国語訛りのあるそれを聞くとなんとなくぽかぽかする。それは身体だけではなく、もっと深いどこかから満たされるような感覚だ。


「かわいい」


 口に出してみる。これは、わかる。かばんにたくさんついている、ふわふわした手触りの熊やうさぎや猿の人形に対して感じるもの。少し違った。
 ではなんだろう。喜代は首を傾げる。
 コンスタンティンといるといつもぽかぽか。オレンジ色のような赤色のような、不思議な色合い。

 感覚はわかる。

 単語も、言語的には捉えることができる。寒いとか温かいとか。だが、口から出そうとするとどうしても繋がらずに迷子になってしまう。感覚とことばがうまく一緒になってくれない。
 とても良い気持ちで、心臓がときときと打っている。そうわかるのに、名前がつけられない。素敵な呼び名が、確かにあるはずなのに。
 赤やピンクやオレンジが次第に灰色になる。黒になり、涙になる。何度も何度も繰り返してきた、嫌な思い。

 コンスタンティンの目の前で喜代が苦しみ始めた。そばかすの散った可愛い顔をくしゃりと歪ませ、泣きそうになっている。

 ことばが出ない、というのはきっととても苦しい。
 もしも目の前にあるピアノをピアノとして認識でき、鍵盤も音も楽譜もわかるのにいざ弾こうとしたら何もわからなくなり指も動かない。そんな状態になったなら。

 喜代の頬を撫で、目元に口付ける。


「落ち着いテ。ドウしたの」
「……わかんない」
「わかんない?」
「うん」
「ナニが?」
「……あ、」
「うん。イイよ、ゆっくり」


 背中を撫でる大きな手のひらに宥められ、少しずつ気持ちが和らぐ。息を吐き、藍色の目でコンスタンティンの灰色を見た。いつも慰めてくれる柔らかな色合い。心にまたオレンジ色の明かりが灯る。
 シーツに落ちた冷えた両手を、温かい手が包んだ。繋がれると分け与えるように体温が伝わる。


「こすちゃ」
「ナニ?」
「こすちゃに、なんて言えばいいか、わかるのに、わかんない。それが苦しい」
「ドンナ気持ち?」
「みかんで、いちご、で、火で、夏で、春」
「うん」
「……オレンジ色みたい、な、赤みたいな、あっ、あつい? あったかい? すごく、えっと……すご、く、たい、せつ?」
「うん」
「大切な気持ち。名前、何?」


 コンスタンティンは、白い歯を見せて笑う。それは安心したような、嬉しいような、とにかく甘ったるいもの。喜代にもわかり、首を傾げる。


「愛してる」


 コンスタンティンの声が、穏やかにその言葉を刻んだ。


「あいしてる」
「ソウ」


 すり、と額が合わせられ、すぐ近くにコンスタンティンの顔がある。金色のまつげに縁取られた目、驚くほどに深い彫りの顔立ちは端整で優しい。
 喜代の目からほろりと雫が落ちた。
 藍色から溢れる涙はとても清くて美しく思える。指先で拭いながら、コンスタンティンは微笑った。唇がそっと触れ合う。


「……あいしてる、コスチャ」


 涙を流し、嬉しそうに笑う喜代に対して強い感情が湧き上がる。喉の奥に詰まるような、胸を強く締め付けるような、背中を駆け上がる熱のような不思議な感情。それは押し留められるものではないし、押し留めるべきものではない。


「Я люблю тебя!」


 異国語では足りず、より強い感情を込めて愛を叫び、長い腕で抱きしめた。






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