小説 | ナノ

ピアノと喜びちゃん


 

コンスタンティン
樫戸 喜代(かしど きよ)





 ピアノブレイカーというあだ名を持ったロシア出身のピアニストが、かつてコンクールを荒らしていた。もちろん比喩だが、その音は本当にピアノを破壊しそうなもの。決して乱暴に弾いているわけではないのに通常の何倍もの音量が出る。指先の力が強いのだとか、さまざまな検証がなされたが結局何もわからなかった。ただ多少手が大きいということのみ。
 大音量なのに繊細、なのに大胆。全く掴めない演奏はコンクールで優勝できる物ではない。規定の枠に入らないからだ。しかし演奏自体は人を楽しませる。

 ピアノブレイカーはいつしか無冠の王と言われるようになり、ぱったりとコンクールや大会に出るのをやめた。

 現在はリサイタルや楽団との共演、サポートミュージシャンとして世界を相手に演奏している。
 東洋の島国を拠点に、だ。


「こすちゃー」
「あー来たね、ワタシの喜びチャン」


 コンスタンティンは自宅玄関を開けるなり喜色満面、両手を広げて抱きしめた。腰を曲げ、前屈みになって頬へキスをする。
 その相手は真っピンクの髪に眉なし、藍色の目に白い肌、わずかにそばかすのある男子高校生。
 着崩した制服のズボンや薄っぺらい鞄にはじゃらじゃらキャラクターをぶらさげ、手首には時計だけでなくたくさんのシルバーブレスレット。
 樫戸喜代は無邪気な藍色の目で背の高いロシア人を見上げてにこにこ笑った。


「よろしくお願いします、せんせー」
「ハイ、よろしくね」


 鞄を部屋の隅に置き、制服のジャケットを脱いでからアクセサリーをすべて外す。
 それから薄いワイシャツの腕を捲りあげて晒した白い腕、そこにはびっしり切り傷の痕。両手と言わず、太もも、足、お腹にまで残っている。

 ふたり並んでストレッチをしたあと、体操。手首を回したり指を動かしたり足を伸ばしたり、一通り終えて先にピアノの前に座ったのはコンスタンティン。
 最初にすることは音に合わせて声を出すこと。


「半音上げて」


 指示に従い、ピアノの音より半音上げた音を出す。と、不協和音が起きる。そのびりびりした感触や音の幅を体感することを目的にしているので、ぶつかることを怖がらない。


「三音飛んで」
「半音下げて」


 次々に飛ぶ指示をこなす。
 それが終わると、ピアノの椅子を調整して自分が向かう番。しかしコンスタンティンも、喜代の身体を包むように座る。特注の椅子はふたり、ゆうに座れるからだ。


「喜びチャン、まず聞かせて」


 喜代は二、三回椅子の上で身体を動かすと、急に鍵盤を叩いた。なんの準備もなく突然始まったのはリスト作曲『超絶技巧練習曲』のひとつ『鬼火』で、しかも改訂版ではない原曲の方。
 それをほぼ完璧に演奏してみせる。しなやかな手首を活かした細やかなパッセージ、楽譜通り精密な、人が溜息をつくような演奏だ。
 が、そこに感動は存在しない。
 敢えて言うなら自動演奏のピアノを聞いているようなもの。

 神さまはピアノの才能を喜代に与えた。けれどほかに必要なものは与えなかった。天は二物を与えない。
 しかしコンスタンティンと出会わせた。
 多分、必要なものを育てさせるために。


「……ん、うん。ハイ。相変わらず演奏ダケはイイよ」
「うー、うん」
「じゃあ、味付けシヨウね」


 コンスタンティンの手が喜代の手を覆う。まったく違う大きさだが、ゆっくり最初の音から一緒に辿る。


「音の感触を確かめるのがヒツヨウね。音の流れ、ドウシテこの流れがイルの? なんでここにこの音がヒツヨウなの? 想像シテ、オシエて。どんな音にキコエル?」


 たどたどしく切れ切れに想像を口にしながら音を弾く。打って変わって子どものような音になったのに、コンスタンティンは微笑った。

 楽譜からかけ離れた解釈の仕方は、通常ピアニストにはありえないもの。だが喜代にはこれでいい。
 本格的にピアノを習いに来ているわけではない。ピアノを通して心の発達を図っているのである。
 音を一音一音、もしくは小節、流れを想像することで、自分の中の出来事と結びつけたり切り離したり、感情を出したり引っ込めたり。ときにはイメージの話などもしながら、情緒の上下や表現の方法を学ぶ。

 コンスタンティンと会う前の喜代は、自分の心や思ったことをほとんど口に出すことができない子どもだった。単語は知っているのだが、状態を口にしようとしても何が正解の言葉かわからなくなってしまい、混乱してしまう。結果的に思いが伝わらない。
 そのストレスは自傷行為となって現れ、縫うほどの傷も数多かったと聞く。

 喜代が入っていた精神症神経症サポートの施設へ、たまたま音楽ボランティアにやってきたのがコンスタンティンを含む楽団。そこで妙に正確にピアノ演奏を再現してみせた喜代に気付き、音楽を通じた交流が始まったのだった。

 ひとりでピアノに向かい合い、音について話すのは怖がるからいろいろ試行錯誤して背中にくっつく今のスタイルに。
 練習が終わってからも喜代はコンスタンティンにくっついたまま、さまざまなことを話す。学校のこと、勉強のこと、秘密、おいしかったもの。事実はスムーズに告げられるのに、感想になるとなかなかうまく言えない。
 困って、コンスタンティンの腕に顔を埋めたりする。それを慰め、ゆっくり自分の言葉で話し出せるようにするのだ。

 リサイタルがあろうがなんだろうが、喜代のためにしょっちゅう日本へ帰ってくる。疲れなどなんのその、まったく見せたりしない。
 プロは皆自分のペースがある。彼の中ではすでに喜代と過ごす時間を持つことが最良のペースになっているのだった。


 楽譜の序盤、半分もいかないうちに喜代がぐったりし始めた。普通の少年に見えるがまだまだ成長途中、慣れないことをするのは大変で。


「ヤスモウね」


 絶妙のタイミング。
 コンスタンティンの声に、がちがちだった身体の力がふっと抜けた。
 長い腕が喜代の華奢な腰を強く抱く。腕の中でえへへと照れ笑い。そんな姿をいかにも愛しげに見る金髪美形。

 腹の上で重なる白くて大きな手を、それに比べれば小さな手がそっと撫でた。


「こすちゃは優しいね」
「喜びチャンのがんばり、ダヨ。よくやっててエライね」


 会ったばかりのころ、喜代は本当に傷だらけだった。見舞いに行って何回か鎮静剤を打たれているところに遭遇したこともある。自傷行為が止まらずに拘束されている時もあった。
 それから考えると、こうして当たり前に会って笑ったり話したりできることはすごいこと。実によく頑張っている。
 学校や生活も今のところ問題なしで、素晴らしいことだ。
 そしてそんな喜代が、愛しい。
 コンスタンティンはピンクの髪に頬を寄せた。
 もう気持ちは伝えてある。あとは返事。喜代がどうにかはっきり言ってくれたら、諦められる。二十年待たされようがなんだろうが構わない。



「このフレーズは、こうネ」


 上から重ねた手で、指を押して三小節分弾く。唸った喜代、一音一音確かめながら弾く。


「ここはなにカナ」


 突然振り返った。
 近くに藍色の目、吸い込まれそうに深い深い色。
 薄い唇は、こう言った。


「愛してる」
「へ?」
「愛してる、って聞こえる」


 果たしてそれは喜代の感覚か事実か、それとも遠回しの返事なのか。ピンクの髪の下の赤い耳に含まれた真実はどれだろう。

 コンスタンティンはゆっくり耳元へ口を寄せる。


「……それは、ワタシとおなじ、カナ? 喜びチャン」


 鍵盤の上で手が小刻みに震えている。そっと握りしめ、唇を耳につける。リップ音をたてて離れたら、喜代の首が縦に揺れた。

 今が言えるタイミングだったのだろう。
 ああ、たまらない。勇気を振り絞り、脳をフル回転させて言ってくれたに違いないのだから。


「ワタシの喜びチャン。ありがとね」


 可愛らしい喜びは、愛をもたらす。
 愛はきっとこれからの演奏をより豊かにするだろう。





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