猫のきみ
リオ
サクラ
*
ぼくはゆっくり目を開けた。
清潔なシーツ、いい香りの部屋
、首を持ち上げてみた空は静かに晴れ渡り、塀の向こうを駆け回っているのだろう二、三人の幼い声が聞こえる。
ここはどこだろう?
ぐるりと見渡すと、慣れない純和風の造りや家具。
今まで住んでいた汚く荒れ果てた家とは全然違っていて戸惑う。と、静かな足音が聞こえてきた。
ふすまが開いて男が俺の隣へ座り、脇の下へ手を差し込んで抱き上げてくれた。目の高さまで体を持ち上げられて目があう。
「大丈夫か」
優しそうな若い男の人。丸い目を細めて、まじまじとぼくの顔を見つめた。
「美人だな、お前。真っ黒の毛もいい感じだし、洗えばなかなかの美猫だろ」
明日洗ってやるからな。と言って、ペーパータイプのシャンプーで体を拭いてくれた。手つきはいちいち優しくて、戻す時もゆっくり。食べ物も柔らかくて旨いものをくれた。
良いやつなのかもしれないがわからない。もしかしたらまたひどいことをする奴かもしれない。
優しそうなクズは山ほどいる。
信じられないぼくは、ひとまず様子を見ることにした。
*
二週間、観察したり試したりしてわかったことがいろいろある。
この男の人の名前はリオ。年は二十三歳でぼくより七つ上、この大きな家の持ち主でひとり暮らし、仕事は作家のようだ。
原稿を書いているところへ行っても笑って膝へ乗せてくれるし、ご飯も毎回くれるし、なでてくれる手も優しい。絶対に殴ったり乱暴に扱ったりしない、本当のいい人らしい。
動物に対しては。
朝、目が覚めてリオの部屋へ行くと、珍しく横になっていた。頭の下に座布団二つ折りの枕を置いて、よく寝ている。
もしかしたら徹夜したのかもしれない。
静かに近付き、頬へ前足を乗せてみる。けれど起きる気配もない。すやすや柔らかな寝息をたてて気持ち良さそうに。その懐へ潜り込むとぽかぽか、すぐに眠たくなってまぶたを下ろした。前に暮らしていた人とはありえなかった。
目が覚めたらなんだかおかしかった。感触、感覚、視界、何もかもが違う。体を起こすと肩からタオルケットが滑り落ちた。
少し離れた場所にリオがいるけれど、険しい顔でこちらを見ている。
体を見下ろして、わかった。
ああ、人型になってしまった。安心しすぎた。
「どういうことだ? お前は誰だ。獣人、なのか」
この世界には人と獣と人外がいる。人外の中でもヒエラルキーがあり、獣人は最低の地位で人には人扱いされない、獣には仲間と認められない宙ぶらりんな存在だ。
獣人は獣の力を持った人。どちらの姿にもなれるし、人型のときも獣の能力はある程度残る。
多くの仲間はペットにされたり家畜にされたり見せ物にされたり、ろくな扱いを受けない。「人の理性を持つか怪しい」などと言われてまっとうな教育も受けさせてもらえない。
前一緒に住んでいたやつも、猫の獣人であるぼくを暇潰しの対象にしていた。ペットでもない、ただの物。
気が向けば餌をくれ、洗ってくれることもトイレを掃除してくれることもなかった。人型になれと命じられたときだけ人になる。服など与えられず、殴られたり蹴られたりと散々な目に遭った。
逃げ出してもし誰かに通報されたら収容所で自由もなく死ぬだけ。
二週間前、どうなってもいいと急に思った。
「……部屋にいても殴り殺される。収容所送りになっても同じ。結局死ぬことは見えてる。それなら外に出てみたいと思ったんだ」
腐ったような酒とたばこと不潔な臭いに満たされた部屋じゃなく、きれいなきれいな空の下を歩いてみたかった。
「ごめんなさい、迷惑かけました。リオがやさしかったから甘えちゃった。出ていくから許して」
きっとわかりにくい言葉だったろう。言葉の話し方を習うことも少なくて、猫でいる時間のほうがずっと長かったから人の言葉になれてない。
猫に戻ろうとしたら、「待て」と声がした。
立ち上がったリオが隣へ座った。まっすぐにぼくを見つめる。
「行くとこ、ないんだろ。だったらここにいてくれ」
「……どうして?」
「広い家に独りでいることに飽きてたから、猫のお前が来てくれて嬉しかった。人になれるならときどき話し相手になってほしい。もし、よければ」
持ち上げられた手に、反射的に身体が跳ねる。けどその手は優しく頬を撫でてくれた。猫だったときみたいに。
「名前は? 美猫ちゃん。ずっと聞きたかった」
「……サクラ」
「サクラ。家にいてくれるか」
「……うん」
こうして、正式にぼくとリオの生活が始まった。
*
各ページのトップへ戻る場合は下記よりどうぞです
1|2|3|4|5|6|7|8|9|10|11|12|13
-----
拍手
誤字報告所