小説 | ナノ

猫のきみ


 

リオ
サクラ





 ぼくはゆっくり目を開けた。
 清潔なシーツ、いい香りの部屋
、首を持ち上げてみた空は静かに晴れ渡り、塀の向こうを駆け回っているのだろう二、三人の幼い声が聞こえる。

 ここはどこだろう?

 ぐるりと見渡すと、慣れない純和風の造りや家具。
 今まで住んでいた汚く荒れ果てた家とは全然違っていて戸惑う。と、静かな足音が聞こえてきた。

 ふすまが開いて男が俺の隣へ座り、脇の下へ手を差し込んで抱き上げてくれた。目の高さまで体を持ち上げられて目があう。


「大丈夫か」


 優しそうな若い男の人。丸い目を細めて、まじまじとぼくの顔を見つめた。


「美人だな、お前。真っ黒の毛もいい感じだし、洗えばなかなかの美猫だろ」


 明日洗ってやるからな。と言って、ペーパータイプのシャンプーで体を拭いてくれた。手つきはいちいち優しくて、戻す時もゆっくり。食べ物も柔らかくて旨いものをくれた。
 良いやつなのかもしれないがわからない。もしかしたらまたひどいことをする奴かもしれない。

 優しそうなクズは山ほどいる。

 信じられないぼくは、ひとまず様子を見ることにした。



 二週間、観察したり試したりしてわかったことがいろいろある。
 この男の人の名前はリオ。年は二十三歳でぼくより七つ上、この大きな家の持ち主でひとり暮らし、仕事は作家のようだ。
 原稿を書いているところへ行っても笑って膝へ乗せてくれるし、ご飯も毎回くれるし、なでてくれる手も優しい。絶対に殴ったり乱暴に扱ったりしない、本当のいい人らしい。
 動物に対しては。

 朝、目が覚めてリオの部屋へ行くと、珍しく横になっていた。頭の下に座布団二つ折りの枕を置いて、よく寝ている。
 もしかしたら徹夜したのかもしれない。
 静かに近付き、頬へ前足を乗せてみる。けれど起きる気配もない。すやすや柔らかな寝息をたてて気持ち良さそうに。その懐へ潜り込むとぽかぽか、すぐに眠たくなってまぶたを下ろした。前に暮らしていた人とはありえなかった。

 目が覚めたらなんだかおかしかった。感触、感覚、視界、何もかもが違う。体を起こすと肩からタオルケットが滑り落ちた。
 少し離れた場所にリオがいるけれど、険しい顔でこちらを見ている。
 体を見下ろして、わかった。
 ああ、人型になってしまった。安心しすぎた。


「どういうことだ? お前は誰だ。獣人、なのか」


 この世界には人と獣と人外がいる。人外の中でもヒエラルキーがあり、獣人は最低の地位で人には人扱いされない、獣には仲間と認められない宙ぶらりんな存在だ。
 獣人は獣の力を持った人。どちらの姿にもなれるし、人型のときも獣の能力はある程度残る。
 多くの仲間はペットにされたり家畜にされたり見せ物にされたり、ろくな扱いを受けない。「人の理性を持つか怪しい」などと言われてまっとうな教育も受けさせてもらえない。

 前一緒に住んでいたやつも、猫の獣人であるぼくを暇潰しの対象にしていた。ペットでもない、ただの物。
 気が向けば餌をくれ、洗ってくれることもトイレを掃除してくれることもなかった。人型になれと命じられたときだけ人になる。服など与えられず、殴られたり蹴られたりと散々な目に遭った。
 逃げ出してもし誰かに通報されたら収容所で自由もなく死ぬだけ。

 二週間前、どうなってもいいと急に思った。


「……部屋にいても殴り殺される。収容所送りになっても同じ。結局死ぬことは見えてる。それなら外に出てみたいと思ったんだ」


 腐ったような酒とたばこと不潔な臭いに満たされた部屋じゃなく、きれいなきれいな空の下を歩いてみたかった。


「ごめんなさい、迷惑かけました。リオがやさしかったから甘えちゃった。出ていくから許して」


 きっとわかりにくい言葉だったろう。言葉の話し方を習うことも少なくて、猫でいる時間のほうがずっと長かったから人の言葉になれてない。
 猫に戻ろうとしたら、「待て」と声がした。
 立ち上がったリオが隣へ座った。まっすぐにぼくを見つめる。


「行くとこ、ないんだろ。だったらここにいてくれ」
「……どうして?」
「広い家に独りでいることに飽きてたから、猫のお前が来てくれて嬉しかった。人になれるならときどき話し相手になってほしい。もし、よければ」


 持ち上げられた手に、反射的に身体が跳ねる。けどその手は優しく頬を撫でてくれた。猫だったときみたいに。


「名前は? 美猫ちゃん。ずっと聞きたかった」
「……サクラ」
「サクラ。家にいてくれるか」
「……うん」


 こうして、正式にぼくとリオの生活が始まった。





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