小説 | ナノ

白い男


 

ハキム・ラシェッド
バスマ
柳 海尊(リュウ ハイズン)


人身売買描写があります。




 色が白く背が低く痩せていて、稚い雰囲気の男だと思った。
 少年らしさを残した顔つき、屈託のない笑い方。大きな目をくりくりさせ、こちらを見てにっこり笑う。思わず足を止めると、前を歩いていた案内人が困ったように俺と男とを交互に見た。


「あれは特別なんです」


 ガラスがはめ込まれた木製のドアの隣、陰気で暗い空間でも見えるように蛍光色で書かれた掲示を見る。「東洋人・出自不明・少々難あり」……案内人が言う特別とは、最後の項目のことだろう。無言で見下ろす。背の低い案内人は深くフードをかぶりつけているので、どんな顔をしているのかはわからない。


「この売買宿に来て半年ほどになりますが、商人が連れてきたときからもう……自分の身の回りのことはできますが、旦那さまのお世話などとてもとても。夜伽にしても役はできないと思われますので、今後他の売買宿に売る予定となっております」


 さ、他に参りましょう。
 しゃがれた声で、先を促される。
 狭い通路の両脇に同じようなガラス扉が複数並んでおり、その中にそれぞれ男や女が閉じ込められているのである。奥に伸びる闇がどれほどあるのか、良く知らない。
 そして、今日も知ることはできないようだ。

 男は石の上に敷かれた薄い絨毯の上へよろよろと四つん這いになり、頼りない様子でこちらへ来てすぐそこから見上げ、にこにこ笑う。その笑みには混じり気というものを感じず、真っ白の笑みというものがあるとしたらこういうものに違いない。

 ここには美しい男も女も、いくらでもいる。
 だが俺はなぜか、この男がひどく欲しかった。

 離れない俺を見兼ねてか、案内人が戻って来る。


「旦那さま?」
「……他の売買宿に売ると言ったな。もう値段はついているのか」
「とりあえず、当方が奴隷商から買い取った際の値段の倍ということになっております」
「倍? ここで売れなかったのに、倍で相手が買うのか」
「実はそちらの宿ではこのような者を専門に売買しておりまして」
「なるほどな……ならば俺はその宿の更に倍、出す」
「……旦那さま?」
「いくらでも構わないとは言えないが、不満なら上乗せしよう」
「いいえ、いいえ。十分でございます……私が主より叱られます故」
「そうか」


 鍵の束を取り出した金属音が、暗闇に響く。するとどこからともなく、板を両手で叩く音が聞こえた。新参者が出して欲しいと願う叫びだ。
 しかし目の前の男は不思議そうに首を傾げ、鍵が差し込まれると慌てたように、不器用な動きで狭い部屋の向こうの壁にへばりついた。その様子に眉をひそめると、気付いた案内人が「これは分別がつきませんで、よく仕置をしました」と、先に言い訳をした。


「出ろ。こちらの旦那さまがお前などを買ってくださるそうだ」


 老爺とも老婆ともつかぬ声が、狭い石造りの部屋に響く。その男は目をぱちぱち瞬かせ、じっと俺を見上げてきた。湿った床に衣の裾がつくのも構わず、しゃがむ。


「共に来い。今日からお前は俺のものだ」


 しばらくしてから、ずりずりとあの四つん這いでこちらに来た。立てないわけではなく、筋力が衰えているのだろう。
 ローブを脱ぎ、その男を包んで抱き上げる。華奢で小柄であるからやはり軽く、子犬のように頼りない。


「金は後で届けさせる」
「はい。またのお立ち寄りをお待ちしております」


 暗く湿った売買宿から、表の明るく澄んだ空気の中へ出た時、男は不思議そうに目を眇めた。太陽が眩しかったのだ。
 砂に覆われた街、照り返しがきつく、行き交う人々は身体の表面九割を白い布で覆って暮らしている。
 急激に光を浴びて害にならないよう、用心して身体を包み直す。


「……あ、」


 建物と建物の隙間を通り、何食わぬ顔で通りに出ると男が小さく声を出した。視線の先には果物の屋台。


「心配するな。家にもある」


 そう囁くと意味がわかったのか、こっくり頷いた。それからはおとなしく腕の中でうとうとしていたらしい。

 市場通りの端、一際目立つ大きな家の門から中に入る。プールや庭を横目に、室内に入った。


「お帰りなさい、ご主人様!」


 すっ飛んできたのは俺とそう変わらないような年の東洋人。いかにも顔を顰めてやると愉快そうに声を上げて笑う。


「なんだよ、そんな嫌そうな顔するなよ」
「するに決まっている。お前は小間使いなのか友人なのか、どっちだ」
「俺はお前の友人で秘書で警備さ。で? 今回は何を買ってきた? 酒か、犬か、虎か」


 腕の布の中を覗き込み、笑顔のまま固まる。一重瞼の、淡い茶色の目が何度か閉じられ、開かれ。錆びた機械のようにぎこちなく俺を見上げる。高い鼻、頑強そうな顎の線を覆うような濃い髭、太い首、しっかりした身体。
 大学で出会い、今は秘書兼ボディガードとして共にいる。どこまでも誠実と自称する男だ。


「……我が腹心の友、ハキム・ラシェッドよ、正当という名を持つ友よ」
「どうした、我が友リュウ・ハイズン」
「俺の目が腐っているのか。お前の腕にだかれているのは虎でも犬でも山犬でもなんでもなく」
「人だが」
「我的天帝!」


 頭を抱え、天を仰いで叫ぶ。身に着けている白と青の涼し気な中国風衣服の袖がめくれ、太く筋肉質な腕にびっしり入った精密な刺青が顕となった。彩り鮮やかでいつ見ても美しい。


「人身売買は人道に背く行為だ友よ!」
「ふむ、そうだな」
「じゃあなんで買ったりする!」


 勢い込んで聞いてくる。その声に目を覚ました腕の中の男が、下から見上げて明らかに怯えた顔をした。確かに寝起きでこの髭面ににじり寄られていたら怖いだろう。


「こんな無垢な目をした男を、あんな場所に置いておけなかった」
「男って、まだ少年だろ! 少年だなんて……子どもだなんて……」
「この国では成人扱いだ」
「十五歳かよ」
「わからないが、多分そのくらいだろう」


 言いながら、歩き出す。売られて半年、ろくに水浴びもしていないようだからまず身体を流してやろうと思ったのだ。廊下へ入り、中庭の木々が茂る中、人工的に流れている滝に近づいた。
 この国は砂に覆われてはいるが、水がないわけではない。ただ地中のずっと深くにあり、掘削には莫大な費用がかかる。国中の金持ちがあちらこちらでボランティアでの作業に励んでいる最中だ。
 ほとりにそっと下ろし、布を解く。木の中なので日差しもさほど強くない。


「ほら、水だ。水は好きか」


 きょとんとしている男の手を取り、水面に触れさせてやる。すると嬉しそうににこにこ、服を着たままするりと水に入った。自分で好きなように滝へ近付き、遊び始める。
 それを座って眺めていたら、隣にハイズンがあぐらをかく。


「怒っているのか」
「当たり前だ」
「そうか」
「……あの子に名前はないのか」


 ハイズンの目が、水に入って心地良さそうな背中に注がれている。その目は優しい。


「名前はないらしい。決めねばならない」
「そうだな」
「あの子に無茶な労働などを強いるつもりはない。ただ……あの無垢な目で傍にいてほしいだけなんだ」


 ばしゃばしゃ、水音を起てて戻ってくる。明るく笑っている顔に貼り付いた黒髪を退けてやると手を掴み、頬を擦り寄せてきた。愛らしい。とても。
 たまらなく胸が締め付けられる。甘いような苦いような、これは一体なんだろうか。


「……バスマ。今日からお前はバスマだ。いいな?」


 くりくり、と瞳が動いた。透明度の高いそこに、俺の顔が映っている。


「ばすま」
「そう。いいか、バスマだ」
「うん」


 掠れた声は低くも高くもないように聞こえる。
 光を弾く水滴を纏ったバスマは、今までに見たことがないくらいの綺麗な人間に見えた。





各ページのトップへ戻る場合は下記よりどうぞです
||||||
|||10|11|12|13

-----
拍手
誤字報告所
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -