小説 | ナノ

めぐむとひかる 3


 

めぐむ
亮 熙(りょう ひかる)
氷魚(ひお)





 熙様がぼくに何も言わないで帰って来なかった。そんなことはもうずっと無かったからいつも身の回りの面倒を見てくれている氷魚さんに尋ねた。初めは無表情で知らないと繰り返していたけれど、夕飯を食べない、という行動を取ったら仕方なさそうに教えてくれた。


「亮様は本日、食事会にお出かけです」
「食事会……?」
「ええ、めぐむ様とお会いになった、あの場所です」


 それって、ぼくみたいな子どもが売り買いされるっていうあの場所?
 熙様はそんな場所に何をしに行ったんだろう。興味ない、って言ってらしたけど、もしかしたら、ぼくと暮らしてみて他の子とも暮らしてみたい、などとお思いになったんじゃ。

 居ても立ってもいられなくなって、そわそわして、氷魚さんに無理矢理会場まで連れて行ってもらった。呼んできます、と言って氷魚さんが車を離れたすきに、ドアを開けて会場のでっかいお屋敷に入る。

 人の出入りが激しい重厚な扉は見覚えがあった。

 あの日、施設を出て連れて来られて、この扉をくぐって、そして――見た目だけは華やかな、人がたくさんいる食事会の会場で、熙様に出会った。今日もたくさんの大人がいて、ちらほら、ぼくと同じくらいの年頃の子がいる。誰かの傍にいたり、囲まれていたり、ぽつんとしていたり。

 熙様はどこだろう。氷魚さんが呼ぶ、と言っていたけれど、この会場に来るまでの廊下で会わなかったからまだここにいる可能性もある。
 うろうろ、人の間を抜けて探した。けれどあの美しい顔はどこにもなく、凛と伸びた背筋にも出会わない。中年くらいのおじさまおばさまばかり。はぁ、と溜息。そして自分が考えなしの行動に出ていると言うことに改めて気付いた。

 やっぱり車で待とう。
 今なら熙様が来ているかもしれない。勝手に行動をしたことでお叱りを受けるかも。
 一度もそんなことないけれど、この場所はたぶん、あんまり安全ではないからさすがにお怒りになるに違いない。

 くるりと方向転換、くぐってきた扉を目指す。
 すると、急に手を掴まれた。見知らぬ厚い手。振り返り、見上げると、禿頭のでっぷり肥った中年の男が酒に酔ったような赤黒い顔でにたりと笑った。


「これは、可愛い子だ。着ている物も上等だし、さぞ良い値で売られているんだろうな」
「あ、ぼく、違います」
「この会場にいるんだから売買の対象だろう? お前の売主はどこにいる。言い値の倍でも出してやる。お前のように可愛らしい子ならば金も惜しくない」


 熙様と異なる、礼儀も何もない言い草。腹が立つような、怖いような、なんだかよくわからない悪寒と共になんとか振り解こうとしたけれど、ぎっちりと掴まれていて放してもらえない。


「売主とはぐれたのか。だとしたら好都合だ。今のうちに連れ帰ってしまえばただだからな。目を離したそいつが悪い」


 周りの人は、よくあることなのかだれも気にしていないようだった。涙が滲みでてくる。助けてくれやしないかと見回しても目すら合わない。皆、目の前の話であったり料理であったり、子どもであったりに夢中なようだ。
 ここにいる人たちは着飾っている悪魔だと思った。
 怖い。誰も、人ですらないのかもしれない。人を人と思わずに簡単にお金でやり取りする。こんな世界もあるのだ。


「ひかるさま」


 か細いぼくの声など、場所のざわめきにかき消えてしまう。小さな小さな存在。心細さとこれからどうなるのかわからない純粋な恐怖に、ぼろりと涙がこぼれる。

 腕を強く引かれ、男が進むのは出入り口とは違う方向。何やら扉がもうひとつある。売り買いする人専用の通路でもあるのだろうか。あそこから出たらもう戻れないような気がした。優しくて、温かな、熙様のもとに。

 足を踏ん張ろうとしてもだめで、転びそうになりながら腕を反対方向に引く。しかし男はそれさえも楽しいと感じるのか、にたにたと笑ってたまにこちらを振り返るだけ。足を緩める様子もなかった。


「ひかるさま」


 涙でぐずぐずになった声で名前を呼ぶ。すると、ふわりと後ろからお腹の辺りを抱かれた。嗅ぎ覚えのある香が香った。
 ぐっと男が立ち止まった。振り返り、ぼくの後ろを見て、また嫌な笑みを浮かべる。


「これはこれは亮様ではありませんか。こういったことには興味をお持ちでないと窺っております。御存じではないのかもしれませんが、人が目をつけたものに横から手を出すのは無粋ですよ」
「ほう、無粋か」


 氷の塊のように冷たい声が頭の上から降る。目の前の男の赤かった顔が急に色を失った。


「妻を攫うのは粋か無粋か、その酒と金と色に呆けた頭でも解るだろう」
「妻……?」
「ああ。正真正銘、この亮熙の妻だ。それを連れ帰ろうと言うからには相応の覚悟があるのだろうな。亮家の全てを敵に回すという、覚悟が」


 何か口を開きかけたけれど、結局何も言わなかった。ぼくの横から扇子が出てくる。黒塗りの骨を持った閉じられたままのそれが、ぼくの手首を掴んだままの震える厚い手をばしりと叩いた。とても痛そうな音。


「わたしの妻に触れるな。塵芥にも等しい、卑しき下郎の分際で」


 解放されたけれど赤い手首。
 そこに白い指が滑る。見上げると、真上に熙様の顔があった。美しい眉の間には深い深い皺。「こちらへ」と、肩を抱いて、ぼくが入ってきた扉から廊下に出た。連れて行かれたのは大階段の下。影になっていて、その壁へ追い詰められるような形になる。


「ひかる、さま」
「めぐむ」


 覆いかぶさるような強い声。先程のように冷たい響きではなかったけれど、ぼくがびくりと肩を揺らすには十分な声だった。


「この場所がどういった場所か、よくわかったでしょう。だいたい氷魚はお前に、わたしを呼ぶと言ったはず。どうして車の中で待っていなかったのですか」
「……あの」
「心配しました。お前がいないとわかって、どれだけ……」
「ごめんなさい」
「手首を見せなさい。ああ、赤くなって」


 まったく、と呟いて、赤くなった手首をさすってくださる。雪のように白いけれど温かな手の感触に、ぽろぽろと涙が出てきた。熙様に抱きしめられ、着物にすがる。


「……まあ、何も話さずに出掛けたわたしも悪かったのでしょうね。ここに来ると知ったらお前が嫌がると思って黙っていたのですが、逆効果だったようです」
「ひかるさま」
「氷魚が、めぐむが考えていそうなこと、を、教えてくれました。ここで他の子どもをあさるつもりだとか思っていたのでしょう」


 腕の中でこくりと頷く。すると溜息が聞こえた。


「自分の欲の為だけに子どもを買うなど、そんなことをするわけがないのに」
「申し訳ありません……」
「わたしはめぐむと出会って満ち足りています。他の誰かなどいりません」
「……はい」
「今後は黙っていなくなったりしないこと、わたしや氷魚の目の届く範囲にいること。そうでないとお前の首に縄を掛けて引きずりまわしますよ」
「……はい」


 わかりました、と自分でもわかるような、涙でやわやわな声で答える。
 頭を撫でてくれていた手が頬を包み、顔を上げさせる。涙やいろいろなものでぐちゃぐちゃなぼくの顔をどこからともなく取り出したハンカチで不器用に拭い、身を屈めてちゅうと額へ口付けてくれる。


「帰りましょうか。この場所の料理も酒も全く口に合わない。めぐむとの食事が一番です」
「はい」
「氷魚にも一言謝るのですよ。あの男はあの無表情の下で、相当お前を心配していました」
「はい」


 さっきの男とは比べ物にならないくらい優しく手を引いてくれて、その感触にまた涙が出た。
 熙様と過ごす日々の中で確実に培われている愛情。熙様も同じでいてくれそうな気がした。優しくて、穏やかで、ぼくを見守ってくれている。なんて幸せなんだろう。満ち足りているのはぼくもおなじ。


「ひかるさま、ごめんなさい」
「氷魚にも言ってくださいね」
「はい……」
「あの男は、もしお前が見つからなければ腹でも切っていたでしょうから」
「はら……!」
「そういう男なのですよ」
「ぼく、ぼく……いっしょうけんめい謝ります……っ」
「そうなさい」


 車の前でうろうろしていた氷魚さん。ぼくの顔を見ると、無表情のままに涙を流した。ぼくも泣いてしまって、懸命に謝る。「ご無事ならそれでいいのです」と、その言葉にどれだけの心配があるのかわかった。いつも見守ってくれてありがとう、と言ったら、初めて笑ってくれた。


「あ、今、めぐむ、ときめいたでしょう。氷魚の笑顔に」
「え、いえ、そんなことは」
「間男なんて許しませんよ」
「まおとこ?」





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