けんさんとゆきちゃん 2
猫間 幸海(ねこま ゆきみ)
半 献(なかば けん)
*
ゆらり、ゆらりと、揺れる。強い衝動ではなく、ずっと続く底を揺さぶるような揺れ。底というものが心にあるかはしらないけれど、ふらりふらりと揺れている。
目を開けると、強い日差しにくらんだ。思わずもう一度閉じる。
「先輩、なんかうーうーあーあー言ってましたよ」
「汗びっしょりにゃー。嫌な感じ。そろそろ屋上で過ごすのも限界かも」
「そうですね。暑いから」
後輩の満和ちゃんはひとりだけ日陰に避難していた。放課後の図書当番は前期と後期とに分かれていて、ボクたちは後期。腕時計を見ると、あと一時間ほど時間がある。本来ならば部活動なりに励むべきなのだそうだが、満和ちゃんはほぼ自由な部活だし、ボクはやっていない。だからよく屋上でごろごろしているのだが、もうそろそろ屋内を見つけなければならないようだ。
あーあーうーうー言っていた原因は、傍らに置いたスマートフォンにある。
マンションのベランダから飛び降りた下にいたお兄さん、けんさん、に、この間ハンカチを返しに行った。失恋してブロークンハートのボクに貸してくれた、清潔なハンカチ。一応洗濯してアイロンまで当てたけれど、新しいのも買って一緒に渡した。マンションの前で一時間ほど待ちぼうけて。
マンションの前で待っていたボクを見て、けんさんは奇妙なものを見たような顔をした。
「おかえりにゃさい」
「ああ。また来たのか」
「ハンカチ返しに」
「いいのに」
「受けた恩は返す派なの」
「いい子なんだな」
自然な手つきで頭を撫でてくれた。黒い髪をきちんとセットしていて、結構いい体格をしていて、ちょっとよれたシャツとスーツを着ている。しかし職業が窺い知れるようなところが何もない。大体目線の高さにあるズボンの膝の辺りから、座る系なのかもしれないことはうっすらわかるけれど。
「上がっていくか」
「うん」
誘った割に驚いたような顔をして、マンションの入り口についた数字キーを押してカードキーを通す。開いた自動ドアをくぐった背中にくっついて、一緒に通った。
あの人の部屋は二階だったけれど、けんさんの部屋は七階。乗ったことの無いエレベーターにふたりきり。けんさんは黙って腕を組み、壁に背中を預けていた。あまりたくさん話すタイプではないようだ。左の手首に太いごつい、高そうな時計をしているのが見える。スーツやシャツの様子とそぐわなくて、不自然。臙脂色の縁の眼鏡のレンズに度は入っていない。
エレベーターを降りてまっすぐ、突き当りの部屋がけんさんの部屋だった。
こちらは暗証番号と鍵で開け、ドアの横に手を伸ばして電気を点ける。
「……にゃむにゃむ、ここはゴミ捨て場ですか」
「失礼だな」
見事な荒れっぷりだった。
玄関といえば靴や傘くらいは置いてあるイメージなのだが、それ以外のものも山盛り置いてある。ベストオブなんでここにあるかよくわからないものは、ケチャップ。しかも結構減っている。綺麗だったハンカチと物凄いギャップだ。
けんさんは靴のままどかどか部屋へ入っていく。いろいろなものを踏みつけ、蹴りながら。それについてそろそろ、靴のまま上がる。
リビングも荒れ放題、ダンボールや服などが放置されていて、クリーニングの袋がたくさんその辺に落ちている。異臭がしないのが不思議なぐらいだ。見てみるとキッチンだけは不自然なほどきれい。使った形跡がまったく無い。
「どうぞ」
そのあたりのタオルでざっと座面を拭いて、こちらに椅子を差し出す。
どうも、と言って座る。けんさんはテーブルに軽く腰掛けるようにしながら立って、やはり腕を組みつつボクを見下ろす。
「で、ゆきちゃん」
低い、こすれたような声で「ゆきちゃん」と呼ばれるとなんだかくすぐったくてときめく。前の人もどんな人も、ボクをゆきちゃんとは呼んでくれなかった。いつも「ねこ」と呼ぶばかりで。
「俺の観察は終ったか」
「気付いてたんだ」
「あれだけじろじろ無遠慮に見られたら誰だって気付く」
じっと見つめてくる目は、眠そうにも見える。一重でやや細め。しかし油断なくこちらを見ていることがようやくわかった。
「今日、会ったときから見てたのを知ってる」
「ごめんなさい。癖なんだ、人をすごい見ちゃうの」
「別に」
あ、これ返します。
きれいにラッピングされたのと、洗濯したのとを一緒に差し出す。受け取って「ご丁寧に」と言って、テーブルの上に置こうとしてから、その上も汚いと思ったのか、手に持ったまま。
「マンション前で、どのくらい待ってた?」
「えっと、一時間くらい」
いちじかん、と呟いて、また奇妙な顔をする。
「よく一時間もあんなとこに座ってたな」
「にゃ?」
「あの、この前別れたばっかりの人が来たらどうしようとか思わなかったのか」
「うん。いっぱい電話きたから、あんまりしつこくされたら奥さんにばしちゃうかもーって言ったらぱったり。もう会いたくないって思ってるよ、きっと」
「……なるほど」
けんさんは箱をもてあそびながら頷いた。
箱の中には迷って買ったグレーのハンカチが入っている。気に入ってもらえるといいな。
用事を済ませたら、別にやることはない。いつもならここでお礼とでも言ってセックスするのだけれど、この部屋では無理だ。場所もないし、立ったままも辛そうだ。足元が。
「では、失礼致す」
「もう帰るのか――って、こんな部屋に長居したくもないか」
「そんなことないけど」
「次までに掃除しておく」
「にゃん」
「ん?」
「次があるのにゃ?」
きょとんとした顔を一瞬して、それから自分が言ったことを思い出すように頷いた。結構表情が豊かでかわいい。
「来たくないなら、別に」
「来るよー。けんさんがいいなら」
「じゃあ、連絡先でも教えてくれ。この前聞かなかった」
「あ、そっか」
電話番号やメールアドレス、メッセージのIDなどを教えてなんでも連絡を取れるようにした。我ながら安い。この間まで本気っぽい恋をしていて、また今、好きになりそうだ。
本気で好きになっても、好きだと言ってはいけない。それがボクの決めたルール。
「部屋をきれいにしたら、呼ぶ」
「そのときはにゃんにゃんする?」
「……考えておく」
部屋を出て、振り返る。玄関でけんさんが見送ってくれていた。手を振ったら小さく振り返してくれて、やっぱり好きになってしまいそう。
さて、暑い屋上でスマートフォンの電源を入れ、メッセージアプリをタップする。
最初に表示されたのは「けんさん」で、部屋をきれいにしたから、もし良かったら来い、と日付まで丁寧に。もちろん行きたいけれど、実際おにゃんにゃんするのかどうかが気になる。
今までの相手はそういうのが目当てで出会っていたからあれだけれど、けんさんは違ったから。軽い気持ちで言ったことに後悔をした。にゃあにゃあ悩み、日陰の満和くんの隣に座って指を動かす。
「いやらしいことする?」
白いふきだしに収まった文字が画面右側に現れる。
しばらくしてきょろん、という音と共に、緑のふきだしが左側に出た。
「別にしてもいいけど。ゆきちゃんがしたいなら」
「したいわけじゃないけど」
「じゃあしなきゃいい」
「したくない?」
「したいなら付き合う」
「……したくないです」
「一緒に飯でも食おう。何が好き?」
けんさんは、そういうのが目当てじゃない。
そう思うと却って緊張した。
「満和ちゃん」
「はい」
「にゃああ、えっちなしでどうやって一緒にいればいいの」
ぎゅうと抱きつかれた後輩は目を真ん丸くしてボクを見る。
「なに言ってるんですか。こうやって普通にいればいいじゃないですか」
「普通? 普通って、おさわりあり?」
「それは、関係性によると思いますけど」
「にゃ……会うの三回目」
「……平均何回で触っていいかとかは知りません」
「ううう」
「自然に振舞えば大丈夫ですよ」
可愛らしい後輩ちゃんはボクの頭をなでなでしてくれる。ふにゃあ、どうしたらいいやら。
ふらりふらり、揺れているのはきっと心。
好きになりそう、でも、好きになったら。
ふらりふらり。
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