けんさんとゆきちゃん
半 献(なかば けん)
幸海(ゆきみ)
*
「おにーさん、ちょっとごめんなさい! そこから動かないでー!」
そんな声が降ってきて内容を理解するより先に、足が勝手に止まった。危険を察知した、といえば聞こえがいいが、単に大きな声に驚いただけだ。すると少し先にぼたぼた落ちてきた靴。茶色のローファー。それからシャツが落ちてきて、次に素肌にセーターとグレーチェックのスラックスを穿いた裸足の男子高校生が落ちてきた。しなやかに着地して立ち上がる。
「奥さんが帰って来たから出て行けって、ホテル代けちったのはそっちだってのににゃん」
唇を尖らせぶつぶつ言いながら靴を履いてシャツを手に持ち、ようやく気付いたように俺を見た。柔らかそうな茶色の髪、白い肌、ふんわりした頬、猫のような目に、ふにゃんとした口元。甘い顔つきの男前でさぞかしモテそうな気がする。ほっそりした身体の胸元が露になっているのが妙に卑猥で、思わず目をそらした。
「ごめんなさいねおにーさん。びっくりしたでしょ」
「いや、別に」
「なら良かった。じゃあ、失礼するのにゃ」
にゃあにゃあ言いながら、俺の隣を足音もなく擦り抜けて行く。だぶだぶの白いセーターの後姿からでも痩せている身体の想像がつく。一体彼は何なのか、猫のような子だった。三毛猫、のような。
その子がもう一度現れたのは、それから一週間後。
マンションの扉の前に座ってシャボン玉などをしていた。今日はシャツをきちんと着ているけれど、あいかわらずサイズの合っていないセーターを着ている。肩からずり落ちているのを直しもせず、ぷわぷわと丸い玉を作っては空に飛ばしていた。傍らに、この前はなかったスクールバッグが置いてある。
「あ、おにーさん、この前の人だ」
忘れられているかもしれないので、何気なく前を通り抜けようとしたらにこにこ話しかけられた。覚えていたのか。足を止め、見下ろす。
「こんにちは」
「こんにちは。何してるんだ」
「にゃー、人待ち?」
「そうか。入って待つか」
「ううん、ここでいいの」
ピンクの容器に、黄緑色のそれを入れては口に銜えて空気を送る。幾つも飛ばしてみたりひとつを作ってみたり。なんとなくそれを見ていたら、彼が急に立ち上がった。後ろを振り返ると、マンションの住人会で見たことがある男性が立っていた。
優しそうで誠実そうで、いつも奥さんと仲睦まじく催しに参加している男性。彼を見て俺を見て、気まずそうな顔をした。
「もう、おしまいね」
彼はシャボン玉の容器に蓋をして、スクールバッグを肩にかけた。その言葉を聞いた瞬間、さっと男性の顔色が変わる。
「そんなこと言わないでくれ。君がいないと僕は」
「知らないのにゃー。終わりと言ったらお・わ・り。次の人でも探してちょうだいな」
これ、あげる。
そう言って、真っ白の顔になった男性に一式を押し付け、猫を思わせるしなやかな足取りで振り向きもせずさっさと歩いていく。どうしてか、俺はその背中を追いかけた。
名前も、学校も、何も知らない。
一週間前にただ、上から落ちてきただけの子なのに。
「待って」
声をかけながら、肩を掴む。
振り返った彼は猫のような目から透明な涙をぼろぼろと零していた。予想外の表情にどきどきする。動揺のどきどきと、涙の美しさへのどきどき。
「何か用かにゃー……今傷心中なのね」
「傷心って」
「さっきの人には結構本気で恋してた。優しかったし、いい人だったから。でもやっぱりだめかあって、先週やっとわかった」
好きだったのに。
ぽつりと呟く。その言葉が、とても悲しかった。関係を軽く終らせたように見えたのだが、あの一瞬の中にそんな大きな決意があったとは。
俺は追いかけてきた割に何を言ったらいいかわからなくて、とりあえずハンカチを差し出してみた。少し間を置いて受け取り、涙を零しながらふにゃんと笑う。
「優しくされたら好きになっちゃうにゃー」
「……」
「嫌?」
「……別に」
「おにーさん、名前は?」
「半」
「なかば?」
「苗字だ」
「そっちじゃないほうは?」
「献」
「けん? けんさん」
「ああ」
「ボクは幸海っていうの」
「ゆきみ?」
「うん。ゆきちゃんって呼んで」
「……ゆきちゃん」
「けんさんはまじめなのにゃ」
ふはっと笑ったとき、彼はもう泣いていなくて、少し潤んだ目でこちらを見ていた。
「今度はけんさんのところに遊びに行くね。ハンカチ返しに」
「ああ」
「ありがとう」
「別に」
またね、と言って、とことこ去って行く。その背中を見送り、マンションに着いてから、いつ頃来るのか本当に来るのか、連絡先すら聞いていないことに気がついた。ろくに人と付き合ったことがないのでまったく気にしなかったけれど、そういうことが必要なのではないだろうか。
玄関で少し考え、まあいいか、と思い直す。
来てくれたら嬉しいが来なくても仕方ない。あの短い時間会話しただけの、何の関係もできていない相手なのだから。
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