麗華さんの幸せな日々
上石 麗華(かみいし れいか)
桃(もも)
誘拐監禁注意。
薄暗いかもです注意。
*
上石麗華はいつでも白いシャツにチノパンで、銀縁の眼鏡をかけている。さらさらの黒い髪をショートカットにして、着けている時計はさりげない高級品。靴もいつでも高そうなものを履いていて、こだわりが細かい所持品から読み取れる。
柔らかさを持つ整った顔に笑みを絶やさず、周囲からの受けも悪くない。仕事は大学講師兼翻訳家。大学では英語教育を担当しており、若さと容姿、穏やかな語り口が人気のようで、開講すれば毎回そこそこの人が集まった。
翻訳家と講師の収入はあまり多くない。しかし親の遺産や物件収入などがあることで、余裕を持った暮らしをしている。好きなものを買い、好きなものを揃え、自分を満たすことができる。
麗華は毎日がとても幸せだ。
家は大学から車で二十分の場所にある、親戚から譲り受けた一軒家。庭へ車を停め、鍵を開けてドアを開いた。
「ただいま」
シンとした室内に、返す声はない。それでも声をかけてしまうのは癖のようなもの。
靴を脱ぎ丁寧に手入れをした後、窓を開けながら突き当たりの書斎へ足を進めた。かばんを置いて窓を開け放つ。一日中いなかったせいで家に熱気が篭っているのだ。
裏手の竹藪はいつでも静かで、風が吹けばざわざわと音をたてる。それが心地よくて好きだ。だから譲ってもらったときは正直、嬉しかった。これでこんな洋風建築でなく、和風の家だったらもっと嬉しかったのだけれど。
お風呂の準備をし、黒いエプロンを着けて大きなアイランドキッチンで手早く料理を作る。甘めの味付けのエビチリ、バンバンジー、春雨サラダ、きくらげの酢の物、トマトとたまごのスープに、硬めに炊いた長粒米。温かいウーロン茶を煮出して完璧。
長方形の白いテーブルに青いクロスを掛け、箸を二膳、銀のスプーンとフォークを一セット用意する。箸は黒のおそろいで、スプーンとフォークには葡萄が細工されている。彼が好きな、葡萄。今日のデザートには桃と葡萄のゼリーを用意した。
ぐるりと見渡しひとつ頷き、跳ねるような足取りで二階へ向かう。階段を上がると少しずつ泣き声が聞こえてきた。上がるほど、大きくなるその声。二階のほうは些か温度が高く、一階よりもむわっとしている。
その空気の中、上がりきり、ちょうど書斎の上に位置する部屋のドアへ鍵を差し込み回し、開ける。
ふわりと、室内の冷風が廊下に漂った。
室内で、何を気にすることもなく泣いている少年がいた。
うわあああ
うわああああん
服も、本も、ぬいぐるみも、筆記用具も、部屋にあったなにもかもが足の踏み場も無いほど散らばっている。それらを拾い、適当に隅へ寄せてから、ベッドに座る。その上で少年が泣いていた。
涙を流し、とても悲しそう。
麗華は手を伸ばし、小さな身体を抱きしめた。
「寂しい思いをさせてごめんなさい。集中講座があったんです」
「……っ、どこも、いかないって、言ったぁ……ずっと、ももといっしょって、言ったのに」
「うんうん、ごめんなさい。びっくりしましたね」
「れーか、れーか」
ぎゅっと、強く抱きついてくる。ひくひくしゃくりあげ、震える身体を抱きしめて背中を撫でながら、麗華は優しく穏やかに微笑む。
かわいい少年をずっと見ていた。
いつも家の前を通って学校へ行く子。小さくて、ぴかぴかの頬や目をしていて、ちょっと色素が薄めの少年。他の子がにぎやかに話す中でにこにこ聞いている姿に惹かれて調べた。桃、という少年のことを。家、塾、学校、親の仕事、行動範囲、あらゆる情報を手にして計画を立てて、そして――家にお迎えした。
最初の二週間は泣いて怯えて、帰りたいと繰り返した。優しく宥め、帰る場所なんて無いんだよ、と何度も何度も囁いてやって、ここが君の新しいお家なんだよ、と。
「君が帰る場所はないんですよ。君の両親は、もういないんです」
桃は徐々に様子を変えた。
麗華が来ると甘えるようになり、与えたものに喜び、今では一緒に食事を摂るまでになった。最初は食事さえ拒否していたのだが、食べたいものを言うようにもなった。一方で、離れるとこうして泣き喚き部屋で暴れる。麗華が帰ってくるまで、声を枯らして泣く。
「桃ちゃん、帰ってくるのが遅くなってごめんなさい。寂しかったですね」
「うん……」
真っ赤な目で見上げてきた桃。柔らかく真っ赤なほっぺを撫でてやると、まだうるうるの目でじっと見つめながら、足をもじもじと動かす。
「どうしたんですか」
名前と同じくぷりぷりの柔らかな尻を、大きな手で包み込むように揉み撫でる。すると桃は肩に手を掛け、耳元に口を寄せてきた。
「おといれ……いきたい」
「あ、そうでしたね。身体に悪いですね」
鍵を閉めて行ってしまったので、一日我慢していたのだろう。軽い身体を抱き上げて二階にもあるトイレへと連れて行く。もちろん目の前で、させる。麗華が見ているのを最初は嫌がったが、今ではおとなしく用を足すようになった。
備え付けの水道で手を洗わせペーパータオルで拭ってやり、手を引いて一緒に一階へ。
「れーかのお膝じゃなきゃいや」
「そうですか」
「だめ?」
「もちろんいいですよ」
横座りにさせ、口元まで運んでやる。最近ではこのように食事さえも麗華の手から貰いたがるようになった。愛しさで胸をいっぱいにし、学生に見せる笑顔よりずっと華やいだ美しいもので、あむあむエビチリを噛む桃を見つめている。
桃が愛しすぎるあまり、家中の窓とドアの鍵を換えた。大人の力でないと開けられないようなものにしたのだ。それから、一見してはわからないような二重ロックになっている。火も簡単に使えないようなシステムにしたし、ガラスも簡単に割れないような特殊ガラスにした。
桃が怪我をしないように、誰かに攫われたりしないように。
「おいしい?」
「うんっ。れーかのご飯、世界でいちばんおいしいよ」
「嬉しいです」
薄い茶色の髪に口付けると、毎日使っている天然シャンプーのにおいがした。大切な桃の肌が、髪がダメージを受けないようにと気を遣って、選び抜いたものを使っている。身体を拭くタオルまで、安全安心なメーカーでそろえた。
「桃ちゃんはかわいいですね。とっても」
「うれしい」
頬を桃色に染め、照れる。
食後のゼリーまで、麗華の手からもらって満足そうな桃。お風呂に入れてもらって、歯を磨いてもらって、髪を乾かしてもらって、至れり尽くせり。麗華は喜んで世話をしている。なにもできなくなり始めた桃がなおさら愛しい。
荒れた部屋を避けて、自分の寝室のベッドに桃を寝かせた。隣で肘をついて横になり、お腹の辺りをぽんぽんしつつ寝かしつける。
光量を抑えたアンティークのナイトトランプは優しい光で桃の寝顔を照らし出す。
あどけない顔で眠る桃の目元をそっと指で辿った。お風呂で暖かいタオルを使ったおかげか、腫れがすっかり引いている。自分も枕に頭を置き、眼鏡を外して目を閉じた。しかしまだ深く眠ることは出来ない。浅い眠りのあたりにふわふわ浮かんでいたら、隣から泣き声が聞こえた。子猫のようなそれに、意識が戻る。
「桃ちゃん」
桃はよくこうして泣き出す。完全な眠りに着く前、意識がなくなる境目が怖いようだ。いつもその瞬間に身体を揺らし、抱きしめて欲しがるかのように手を伸ばす。
麗華は、腕の中に桃を収めた。
ガーゼ生地の上掛けごと、普段よりも強く抱きしめる。そうすると安心するようで、親指を口に入れて吸いつつ再び眠りにつく。涙を唇で拭ってやって、後頭部のあたりを撫でながら目を閉じた。こうして抱きしめている限り、落ち着いて眠るはずだ。何度起こされても腹は立たないが、桃の身体によくない。
麗華の一日はこうして過ぎる。
大切なたいせつな桃と、毎日を楽しく、愛情いっぱいに暮らすことが出来る幸せ。
*
「これ、どうしたんですかねえ」
翌日の朝、講師控え室に行くとすでにいた講師たちがテレビを点けていた。「少年誘拐事件」とテロップが出て、元刑事だとか言う男が犯人像を披露している。
「恐ろしい事件ですね」
麗華は、穏やかに笑って、言った。
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