小説 | ナノ

最速への愛情


 
芦葉 音偉史(あしば おといし)
飯尾 数豊(いいお かずとよ)





 音偉史が目を覚ますと、頭が痛く目が重かった。
 いつの間に全裸になったのだろうか。身体を起こすとカーテンも閉めていない大きな窓がベッドの横にあって、朝日が昇るところで。
 山の向こうから昇る明るい陽射しに目が惹きつけられ、きれいだな、とぼんやり思い、空の青と日差しのオレンジが自チーム『ガゼル』のマシンカラーリングであると気付くと、知らずしらずのうちにまた涙が溢れた。

 昨日の夜、なんとか辿り着いたホテルのこの部屋でまた散々泣いて酒を浴びるほど飲んだことをうっすら思い出す。
 それと一緒に昨日の最終戦の記憶も蘇った。

 自分がもっとタイヤのセッティングを厳密に考えていれば。
 可能性を追求して燃料計算をしていれば。

 たらればの話は好きではない。
 しかしあとからあとからとめどなく浮かぶ後悔は雫になり、目から零れて止まらない。
 声こそ出なかったがベッドに座り込んだまま力なくぼろぼろ泣いていると、後ろから抱きしめられた。
 音偉史の身体は細く、いつもチームメイトは「頭を使うのだからもっと食え」と食事を山ほど持ってくる。この抱きしめた腕の主も、しきりに食べさせたがるうちのひとり。

「おとさん、また泣いてんだね」

 無線でもよく通る低い声。耳元でそれが鳴ると、ぐっと胸が痛くなった。

「泣いて悪いかばかやろー……」

 音偉史の声はそれより少し高めで、普段なら威圧感すら覚える芯があるもの。しかし今は泣いているのでいつもの強さは見られない。

「昨日の夜も死ぬほどバカバカ言われたから、今日は勘弁してください」

 苦笑まじりの声。それから、髪に口付けられる感触。

「髪切らないの?」

 さらさらと肩を流れるほど伸びた髪。去年の最終戦終了後から今期のレースのことで頭がいっぱいで、そのままレースシーズンに突入してしまったために切るタイミングがなかった。その時にも既に相当長かったのだが、さらに長くなっている。

「切ってやるよ……くそ、お前より短く……いや丸坊主にしてやる……」
「おとさんにはそれも似合いそうだけどね」

 柔らかな声がなんだかあやそうとしている気がして、振り返る。
 日に焼けた顔にある、大きく、丸っこい目がぱちぱち瞬きして笑った。黙っていると不機嫌そうな怖い顔をしているが、笑うとなんとも可愛らしい。

「数豊てめー、へらへらしてんじゃねぇよ」
「それも何回も言われましたから、昨日の夜に」
「すっきりした顔しやがってよ……負けたくせに……」

 負けた、と口にすると涙が勢いを増す。

「自分で言って自分で傷ついてんじゃん」
「うっせー」

 はいはい、と音偉史の頭を撫でる数豊。

「俺は結構、晴れ晴れした気持ちだよ」
「俺はお前にシリーズチャンピオンになってほしかったんだよ……」
「うんうん。確かにね、ゼッケン1つけて来年走れたら最高だったけど。でも、もしあそこで引き下がって二位になってたら俺はレース辞めたくなってたと思うので」
「辞めるとか簡単に言うな……」
「ああ、すみません」

 飯尾数豊は素晴らしいレーシングドライバーだ。
 三歳の頃から始めたカートで頭角を現し、十代で全日本を制した。そこから順調にステップアップし認められていく。十代最後の歳にGT300クラスへ参戦、即座に最年少優勝を成し遂げた。
 一時海外へ戦いの場を移し、世界最高峰のレースへチャレンジする。そこでも見事な走りを見せ、目をつけた一流チームからのスカラシップを得る間際に『心身の不調』を理由に辞退して帰国。

 それからしばらくどこのカテゴリにも姿を現さなかったので引退説も流れたが、四年前のシーズンオフに突如、GT500クラスの名門老舗チーム『ガゼル』のシートを得てドライバー復帰することを発表、以降は前にも増して精力的にレース活動を展開している。

 しかし『ガゼル』に所属してから、未だシリーズチャンピオンのタイトルを獲得したことは無い。
 俺はお前と勝ちたかったんだ、と泣く音偉史は数豊がいいドライバーだからこそ悔しさが拭えないのである。

 例えマシンが破損しようと、思いがけず後方からのスタートになろうと「いけるんじゃないですかね?」と言って順位を上げていき、首位争いに絡んでみせる。
 一年目はマシントラブルが多発し、二年目はレース中の他車両との接触を原因とした不調でのリタイアが多かった。ようやく三年目を迎えたのである。

 今年は順調だった。冴え渡る走りとチーム全体が数豊の走りに慣れ、成熟したことによる良い雰囲気によって、シリーズチャンピオンがすぐそこに見えていたのだ。
 それが、昨日の決勝レースのラスト一周の最終コーナー立ち上がりでガス欠によるリタイア。
 全ては泡となって消え果てた。

 チャンピオンから遠ざかって久しいチームを優勝させたい。
 数豊にチャンピオンとしての景色を見せたい。

 その思いに並々ならぬものがあった音偉史は、マシンがコース脇の芝生に止まって動かなくなったのを目にした瞬間、耐えられず号泣した。椅子から立てなくなるほどに泣き、監督やほかのチームメイトが声を掛けても反応できないくらいに。

「おとさんがあんまり泣いてるから、俺の涙が引っ込んじゃった」

 当の数豊は徒歩でピットに帰ってきてすぐ、まだ泣いている音偉史に軽い調子でそう声を掛けてきた。

「いかせてくれ、って言ったのは俺だから、おとさんはなんにも悪くないじゃん? 計算だって合ってたからガス欠になったんだし」

 からりと笑う数豊の顔を涙の向こうに見て、ますます涙が止まらなくなってしまった。

 確かに、残り五周のところでそろそろ燃料が限界だと言ったのは自分だ。
 途中で二位に後退したものの、終盤で再び一位に。
 ラスト五周、二位のマシンとは二秒差。
 燃料を節約して最後までもたせるには下がる必要があり、二位フィニッシュでもシリーズチャンピオンの可能性はあった。

 数豊のテクニックならば多少マシンパフォーマンスがダウンしても二位を死守できるだろう。

 そのため音偉史は「下がれ」と数豊に無線で提案した。このレースでの優勝を逃しても、ランキングポイント的には十分だ。しかし数豊はこう返してきた。

「もしここで後ろに一位を譲るんだったら、止まってリタイアしたほうがずっといいのでいかせてください」
「ばっかやろうふざけんな! チャンピオンと意地とどっちが大事だ!?」
「意地です!」

 最終的な決定権はドライバーと監督にある。
 今にも怒鳴り散らしそうな音偉史をなだめた監督は、しばらくの後「お前に任せる」と数豊に告げたのだ。

「こっちからはタイヤと燃料の予想だけ伝える。お前は好きなように走ってください」
「ありがとうございます」

 そしてマシンは止まった。
 動かない機体の中で、疲労と暑さからしばし呆然としていた数豊にも、悔しい気持ちが相当あった。もう少し燃料がもてば、このレースでの優勝もシリーズチャンピオンも獲得できただろう。
 手が届かなかった勝利への執念がどろどろと腹で渦巻く。
 しかし今シーズンは確かな手ごたえがあった。
 やりきったな、と思った数豊がピットに戻る前、シートから外へ出てすぐにレース実況を行うアナウンサーの声を聞いた。サーキット中に響くそれ。

「ガゼルの芦葉チーフが泣いていますね。念願のチャンピオンを目の前にして掴むことができなかった悔しさでしょうか。ちょっと大丈夫かなって心配になるくらいの泣き方です。大丈夫かな? 監督の木場さんや第一スティント担当だった古暮選手が一生懸命なだめてますねえ」

 心なしか、パドックが見えるメインスタンドの観客席も静かだったように思う。
 そして歩いて帰り、ピットで見た音偉史は見たことがないくらいの泣きぶりだった。考えてみれば、音偉史が泣くのを数豊が見たのは初めてだった。


 宿泊先のホテルになんとか連れて帰ったものの、そのまま数豊の部屋へ来て泣きながら酒を飲み潰れ、今に至る。

「お前が表彰台のてっぺんでへらへらしてんのが見たかったよ……」
「来年見せてあげるって。だからあんまり泣かないで。ほら切り替えましょうよ! 頼みますよ、チーフエンジニア様。さ、泣いてないでお風呂入ろ」

 よいしょと太い腕に抱えられ、温かい風呂に入れられると少し落ち着いてきた。
 浴槽の外で、縁に腕を乗せて見ている数豊は微笑っていて、まるでもう昨日のレースのことなど忘れているようだ。
 プロだな、と思う。
 悔しがれども引きずらない。切り替えて分析して、来年へ向けて自分を高めていく。

 しかし人間なので悔しいと泣きわめくのもまた当然だろうと思うから、音偉史は泣いた。数豊が泣かないならその分まで泣いてやる。
 チームメイトだから、ではなく、恋人として。

「泣いてるおとさん、かわいーね」
「うっせー……」
「可愛い目が溶けちゃいそう」
「もう泣かねぇよ」
「泣かないの?」
「……泣くかも」

 はぁ、と息を吐いた音偉史の柔い頬を撫でる。
 ステアリングを握りすぎて硬くなった手のひらに優しい、もちもちほっぺ。
 可愛い顔をしておとなしくなでられてくれるような、プライベートの音偉史を見られるのが自分だけだと思うと、ひそかに優越感を覚える。

 どこのチームも認める頼れるエンジニアの音偉史。
 もとはメカニック志望だったが、チーム加入直後の新人時代に抜擢されてエンジニアへの道を歩き出した。現在はマシンの調整からドライバーへの聞き取りから、最終的なセッティングまで決める、チームの中心的存在であるチーフエンジニアである。

 若くして名門チームのチーフに就任したため、というのもあるが、それだけではない知名度の高さを誇る音偉史。
 チーム関わらず、レースファンからは『猛犬ポメラニアン』と密かに呼ばれている。

 容姿はとても愛らしい。美少女、と言っても差支えはないし、大袈裟でもない。
 体型もよくタイヤを転がせるなと思うような小柄さだ。ドライバーやメカニックと並ぶと、その体格の小ささが特に目立つ。

 しかし口を開けばまあよく通る声でしきりに吠える。
 言葉遣いは悪いし、レース中に何か他のチームと接触したり幅寄せがあったりトラブルがあれば、無線でドライバーに明確な指示を飛ばした後、無線を投げ捨てて対抗していたチームのパドックに乗り込む。
 監督に向かって猛烈な直接抗議を行うのだ。
 それで、ついたあだ名が『猛犬ポメラニアン』
 SNSでは『猛ポメ』というハッシュタグがあるくらい日常的に呼ばれている。

 いいレース展開をすれば嬉しそうによく褒めてくれるし、自身の研鑽も忘れない。
 レース発足時から参戦を続けている老舗チームで若くして活躍するだけあり、セッティングもタイヤチョイスも名人の域だ。


 四年前のチーム加入後、オーナーに連れていかれた音偉史との初挨拶時。次期チーフだと言われてオーナー含めた三人だけで対面した。場所はガゼル本社内にある音偉史のオフィスで、びっくりするくらいよく整頓された清潔な部屋であったのを覚えている。
 マシンと同じバゲットタイプの椅子に座った音偉史の可愛らしい目が、しかしぎろりと睨みつけるように見てきたことも。
 すすめられた椅子に数豊が座るより先に過去のドライビングデータをすべて出されて質問攻めにされ、最後には

「てめーうちのマシンでこんなクソみてぇなボケた走り一回でもしてみろ。レース中だろうがマシンから叩き落してトラスポカーで轢いてやる」

 可愛らしい顔にそぐわない恫喝。
 そこできゅんと恋に落ちてしまったのである。直前まで行われていたデータ分析の緻密さと的確な質問にも胸は高鳴ったが、マシンに絶対の自信を持っていることが決め手だった。
 プロフェッショナルとして自信を持っている姿がかっこいい。きゅん。好き。

 しかも、オフィスを出てすぐにオーナーが話してくれたところによれば、音偉史は数豊がチームに来てくれるのを心待ちにしていたという。四歳下の数豊の活躍を見続けていて、オーナーが数豊に接触し続けていると聞くと「絶対うちのチームに合います。マシンは俺たちが最高に仕上げて合わせてみせます。だから必ず引っ張ってください」と直に言いに来たと。
 そんなんもっと好きになるじゃん……と、数豊は思わずオーナーの前で言ってしまった。なので今は会社公認のお付き合いだ。

 数豊から告白し、恋人として付き合うようになってもチーム内での態度はあまり変わらないが、このようにレース後の時間を共に過ごせるのが嬉しい。
 もし音偉史ひとりだったら、昨日から今日まで部屋でただひたすら泣いていたのだろう。
 そんなことは耐えられない。勝てなかったことで、ひとり泣かせるなんて。

 ふにふにの頬を撫でつつ、数豊は笑う。

「来年はやってみせます。これまでも食らいついてきた。勝ち切るまで牙を引っこめるつもりは無いので、おとさんによく牙を研いで貰わないといけないんです。そうしないと他チームの首を噛みちぎれないですから」
「見てろ、ぐうの音も出ない最速マシンにしてやる」
「楽しみだな。おとさんのベースセッティングがあると、乗ってて気持ちいいから好き」
「来年はさらに分析する。ありとあらゆるパターンを想定して計算するから、絶対誰よりも早く走れよ、数豊。お前にはそれができるだろ?」
「もちろん!」

 ふっふっふ、と真っ赤な目をしながら笑う音偉史。数豊もにこにこだ。

「お風呂から出たらなんか食べようよ。お腹空いた」
「ああ」


 お風呂から上がると、だいぶすっきりしたようだ。
 遠征先のホテルの部屋で必ず着ているリラックス着のチームシャツとスウェット姿で、髪を乾かしてベッドでごろごろ。隣で数豊もごろごろする。ルームサービスを頼みおなかいっぱい食べて、広いベッドでごろごろするのは心地いい。

 そのうちに数豊の腕が巻き付いてきて、ぐいと引き寄せられた。

「なんだよー」
「おとさんは小さくてパワフルで可愛いなーと思って」

 髪に顔をうずめると、やめろーと笑う。腕の中でくるりと寝返りをうち、正面から見上げてきた。数豊のちくちくと短い髪を撫で、ちゅうと顎にキスをする。

「最終戦も終わったし、明日はオフだし。どうする? 明後日は地獄のミーティングだけど、明日は休みだ」
「このままもう一泊して、いちゃいちゃして帰ろ」
「えー、家のベッドで寝たい」
「じゃあ家に帰る?」
「午後になったら出て、寄り道しながらのんびり帰るか」
「うん」

 さりげなく音偉史の小さな尻を撫で、腰のあたりから手のひらをシャツの下に滑らせる。ひひ、と笑う音偉史の同意を取ってさていよいよというところで、枕元の携帯電話が鳴った。

「お前のだぞ」
「え、俺のー? 誰だ」

 画面にはオーナーである内藤の名前が出ていた。

「もしもし、おはようございます」
「おはよう。昨日までお疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
「そこにいる? 音偉史」
「はい」

 数豊の胸の辺りへ額を押し付けて、胸筋すげぇと楽しんでいる音偉史の髪を撫でる。

「どうですか、様子」
「さっきまで泣いてましたけど、今はちょっと落ち着いてますよ」
「それならよかったです。みんな昨日の泣きっぷりから心配してますので、一通りいちゃいちゃしたらグループチャットにメッセージ送ってください」
「はーい。伝えます」
「はいよろしく。ではまた明後日のミーティングで会いましょう」

 電話を切ると、内藤さん? と聞いてきた。手で数豊の背中を直に撫でている。

「そう。一通りいちゃいちゃしたらメッセージをグループトークに送ってねって……おお、すごいことになってるよ」

 ん、と見せられた画面。そこには数豊のパートナードライバーの古暮や監督、メカニックなどあらゆるチームメイトから「大丈夫か」「生きてるか」「飲みすぎるなよ」「数豊、おとさん頼むぞ」などのメッセージがずらずらと並ぶ。

「ありがてぇなー」
「愛されてるねえ」

 ちゅっちゅと可愛い恋人の額にキスをしつつシャツを脱がせ合い、柔い肌と密着しながら温かな体温を堪能する。
 そこでまた、ぽこんとメッセージの着信が鳴った。数豊の携帯電話を先に手に取ったのは音偉史で、いつの間に知ったのかパスワードを手際よく入力する。

「内藤さんからー。『いちゃいちゃしすぎて帰れないなんてことないように』だって」
「うっ……」
「家に帰ってからにするか?」
「……そうしましょう……鎮まれ俺の下半身……」
「よしよししてやろっか」
「逆効果なんで大丈夫です」

 予定より早めにホテルを出た。音偉史が運転する車でやや遠回りをして、うまいと他のチームのドライバーが教えてくれたラーメン屋に寄ってみたり、SNSで見たカフェに立ち寄ってみたり。
 ちょっとした旅行気分を味わった音偉史だったが、数豊は楽しみつつも若干の色欲が抑えきれずに困っていた。

「おとさんさぁ、前から思ってたけどオーナーと仲良いよね」
「そりゃ長い付き合いだからな。俺が大学校のメカニカル科に入ったときの先生でもあるし、レースに引っ張ってくれた人だし」
「……それだけ?」
「心配してんの?」
「だってオーナーめちゃくちゃかっこいいじゃん」
「かっこいいけど、俺は隙がある人が好きだ。だからお前が好き」
「わーい……? ん?」
「深く考えると傷つくぞ」





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