小説 | ナノ

麗華さんの幸せな日々 4


 
上石 麗華(かみいし れいか)
桃(もも)


◇◇


 いつかはこの日々にも終わりが来るだろう、そう予感していたし、そうなった時のために備えは終えておいた。
 麗華は微笑みながら、膝で眠る桃の髪をゆっくり撫でる。激しく鳴らされるチャイムと扉を叩き割りそうなほどのノックの音で、桃が目覚めないように薬を飲ませてある。目が覚めたら全てが終わっているはずだ。
 身体を伏せ、丸い頬に唇を落とす。ふにふに柔らかで心地よい香りがした。


 二年にわたる児童誘拐事件はあっけなく幕引きを迎えた。犯人は被害者宅の近くに住む大学講師。逮捕された際の映像で、あまりに顔が良く話題になったのはそのことばかり。
 そして、間もなく起きた十人惨殺事件に世間の興味は引かれ、誘拐事件のことに注目する者はいなくなった。当然、裁判も一切報道されなかった。被害児童への人道的立場もあったのだろう。


 ぼくは両親が苦手だった。
 引越しが多くてなかなか友人ができなかったこと、いきなり怒鳴り散らされたり泣かれたりと困る場面が多かったこと、出掛けると言うと事細かに聞かれてなかなか出して貰えず、常に見張られているような気持ちになったこと。
 家にいると息が詰まる。
 ひとり暮らしをしたい、と言っても拒否され、大学も家から通うことになった。なんとか出られないかと試行錯誤していたとき、目に入った留学生募集のポスター。
 海外ならばどうだろう。
 様々なことを調べ、この国ならばと思うところを見つけた。惹かれたのは空の美しさ。政府の公式ホームページにある写真の青空が本当にきれいで目を奪われたのだ。

「留学しようと思う」

 調べた結果を出して言ったが、両親は猛烈に反対した。学部に英語力は必要ない、英語なんて、と。ぼくは両親それぞれの顔を見て、冷静に尋ねる。

「それは、ぼくを誘拐した人が英語講師だったから?」

 黙り込んだ姿を見て、そうなんだな、と思った。
 自分からあの事件の話題を出したのは初めてだったが、両親が過保護すぎるほどに接してくる理由は知っていた。
 周りの人間が何を言わずとも、耳に入ってきたり目にしたりする。今は情報を手に入れる方法がいくらでもあるからだ。

「ぼくの将来を、過去で狭めないで欲しい」

 この一言を、両親は聞いてくれた。
 一年という期限をつけたけれど、留学を許してくれたのである。頑張って勉強してくる、と言うと久しぶりに、両親が笑った顔を見ることができた。

 飛行機に乗り、十二時間の空の旅。
 夜便で出発したぼくは、暗い機内の窓の外で遠ざかる夜景を眺めながら考えていた。両親に話したことの無い、朧げな記憶について。
 その人はとても優しかった。穏やかな口調で語り、好きだと何回も言ってくれて、いつも丁寧に接してくれた。怖い夜も、その人がいれば怖くなかった。
 その、今となっては顔も声も思い出せない人がきっと誘拐犯なのだろう。しかしどんな記事を読んでも、画質が荒く犯人の顔がはっきりしないニュース映像を見ても、その人に対する悪い感情は一切浮かんでこなかった。他人事みたいなそれらは記憶からすぐに抜け落ちる。
 こんなことを言ったら両親は卒倒するだろうが――いつ爆発するかわからない両親の元にいるより、余程落ち着く記憶になっている。
 柔らかな毛布の中で身体を軽く動かす。
 隣の人はアイマスクをして、既に眠っているようだ。
 ……あの人は今、どこで何をしているのだろう。

「……れー、か」

 この十数年、口にしなかった名前を初めて音にしてみた。それは不思議な感覚を持って、喉元をきゅうとしめつけたのだった。

 会うまでは緊張していたホームステイ先の家族。明るくて優しい人たちだった。
 早い英語についていけないとわかるとゆっくり話してくれ、勉強もよく手伝ってくれる。お姉さんは特に、面白い映画を教えてくれたり音楽を教えてくれたりとても親切だ。大学のひとつ上の学年にいて、何かと面倒を見てくれて助かるし、嬉しい。

 滞在も半年を迎え、生活も耳も落ち着いた。
 母国の言葉を一切使わない生活のお陰か、かなり上達することが出来たような気がする。これなら半期は上のクラスだね! とホストファミリーも嬉しそう。
 休日、ふらりと街に出かけた。
 両親がいたら考えられないくらいに自由な外出。すっかり慣れてしまい、あちらに戻ったらますます息が苦しくなってしまうかもしれなかった。それを考えると憂鬱になるので、美しい青空を見上げた。今日もどこまでも続く濃い青が広がっている。
 この下にずっといたいな。
 ぼく、何でこんなに青空が好きなんだろう。
 空を見上げながらふらふらしていたから、誰かにぶつかってしまった。すみません、と謝る。背が高いその人は「いいえ」と答えた。この国の言葉で。

「こちらこそ不注意でした」

 穏やかな低い声。見ると、眼鏡をかけた男性だった。

「では」

 姿勢の良い後ろ姿は、すぐに雑踏に紛れてわからなくなってしまった。アジア系、の人だったが、この街にはたくさんいる。かっこいい顔をしていたな、と思いながら、ぷらぷら散歩をして家に帰った。

 部屋に戻ってまもなく、こんこんとノック。返事をすると入ってきたのはお姉さんだった。

「今帰ってきたばっかりなのは知ってるけど、ここに行ってみない?」
「お茶屋さん?」

 手渡されたのはダイレクトメール。ポストカードになっていて、そこには今日の日付と新規オープンにより通常価格より安くなっていることが記されていた。シンプルな、飾り気のない葉書だった。

「さっきポストに入ってたんだ」
「いいよ、行ってみよう」

 住所は少々離れた郊外のものだったので、お姉さんが車を出してくれた。着いてみれば周りはお洒落なカフェやお菓子の店が並んでいる。それも、様々な国の。

「あそこだね」

 適当な駐車場に車を停め、心地好い風が吹く中を少し歩いた先にある、白い建物を指さすお姉さん。スロープを上がり、きぃ、とドアを押し開けた。

「いらっしゃいませ」

 迎えてくれたのは、ぼくの国の言葉だった。
 小さな店内にお客さんが何人かいて、ふわりと香るのはほうじ茶の香り。お茶屋さんって、こういうことだったのか。
 カウンターの中にいる男性と目が合う。
 さっき、ぶつかってしまった人だった。向こうもぼくに気づいて「ああ」と微笑む。

「先程はどうも」
「すみませんでした……」
「どういたしまして。何飲みますか」

 仕組みを説明してもらいながら、メニューが書かれた黒板を見上げる。さまざまなお茶が並んでいたが、一番のおすすめのところには少々見なれないお茶が書いてあった。

「一番は、ピーチティーなんですか」
「ええ。わたしがこだわり抜いた桃のお茶です。おいしいですよ」

 ならそれを、と注文する。お姉さんは緑茶をお願いした。まもなくして運ばれてきたお茶に、透き通ったゼリーがついていた。

「新しい店ですので、これは最初のサービスです。こちらが桃、こちらが葡萄のゼリーです」

 ごゆっくり、と言われ、スプーンを手に取った。葡萄の精密な細工がされた銀色の、きれいなスプーンだ。
 一口、葡萄のゼリーを口に入れた瞬間になんとも言えない気持ちになった。懐かしいような苦しいような、奥歯の辺りがぎゅうっとするような気持ち。思わず手を止める。お姉さんは「おいしい!」とぱくぱく食べていた。

「……?」

 ぼくはこの味を食べたことがあるのだろうか。
 実家にいる時にはゼリーなど食べたことがないのに。学校では給食で食べたことがあったが、こんなに美味しいと思うものはなかった。そもそも、給食のゼリーはこのような味ではなかった気がする。

「いかがですか」

 あの、店主らしきお兄さんが再びやってきた。お姉さんは「とてもおいしい」と満足していることを伝えている。
 ぼくは改めてお兄さんを見上げた。
 白いシャツにチノパンで、銀縁の眼鏡をかけている。さらさらの黒い髪をショートカットにしていて、顔はやはりきれいで穏やかな美しさ。まじまじと見ていると、軽く首を傾げた。

「どうしました?」

 どうしました……ちゃん。
 耳の奥に、遠い声が響いた。誰のものだろう。

「あまりお気に召さなかったでしょうか、桃のお茶」

 桃ちゃん

「どうしたの、タカユキ」

 お姉さんの声にはっとする。どこか遠くに強く引っ張られていたような感覚があり、まるで全力疾走したあとのように心臓がどきどきしている。

「大丈夫ですか」

 気遣わしげな声はもう、聞き覚えのあるものだった。
 ぼくは、思い出した。

「……れーか?」

 お兄さんは、ふ、と笑う。

「日曜日はお休みです。もしよければ、ゆっくりお話しましょう」

 日曜日が来るのが待ち遠しくて仕方なかった。
 怖い、とは思わない。ただ話をしてみたかった。

「こんにちは……」

 バスに乗ってやってきたぼくは、店のドアを押し開けた。カウンターにれーかの姿がある。背の高いスツールに腰掛け、こちらへどうぞ、と隣を示す。
 座ると、くるりと座面を回転させてれーかがぼくを正面から見た。

「大きくなりましたね」
「うん」

 れーかはとっても嬉しそうな笑顔。

「あれから、大変なことはありませんでしたか」
「うーん、あったかもしれない」
「そうですか」
「れーかは?」
「わたしは真面目に執行猶予を過ごしましたので、ご覧の通りです」

 不幸そうだという雰囲気はどこにもなかった。むしろ幸せそうだ。にこにこと明るく笑い、そっとぼくの手に手を重ねる。温かな手がぼくの手に触れることに、なんの嫌悪感も湧かない。
 銀縁眼鏡のレンズの奥から、じっと優しい目が見つめてくる。それはまるで、嘘を許さないかのように強かった。

「桃ちゃん」

 そう呼ばれたとき、ぐっとあの時間に引き戻されたような気持ちになった。ぼくはまだ幼くて、あの家にいて、れーかの腕の中だけで生きている。あったかいあの家は……ぼくにとって、本当に居心地の良い、場所。

「本当に困り事はありませんか。桃ちゃんのためなら、麗華はなんでもしますよ」

 穏やかな笑いを浮かべ、静かに囁く。ぼうっとしたぼくの頭の片隅を、両親が掠める。過去に絡め取られた、ぼくにとっては爆弾のような存在。困り事、かもしれない。

「桃ちゃん」

 片手に手を包まれたまま、もう片方の手で優しく髪を撫でられ、それに甘やかされたぼくは思わず言ってしまったのかもしれなかった。
 記憶は、定かではない。


 両親の葬儀は滞りなく終わった。
 留学を終えたぼくを、空港まで迎えに来てくれる途中で事故を起こしたらしい。遺体は損傷が激しく、対面も許されなかった。
 既に成人年齢だったぼくは、弁護士から遺産相続について説明された。相続税として費用がかさむ家などは売りに出し、かなりまとまった金額になったので、それで中古の家を買った。
 事件現場ということで買い手がつかず、放置されたままだったその家を改装して住むことにしたのは、やはり思い出から離れられなかったからだ。
 近所の方はほとんど、あの事件を知らない人達になっていた。周囲は開発が進み、新興住宅街といった雰囲気である。

 さらさらと竹の葉が音をたてる心地好い音を聞きながら、ぼくは隣のれーかの肩に寄りかかった。

「これからも一緒にいてね」
「桃ちゃんにならば一生を捧げますよ」
 




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