小説 | ナノ

山の神社


 

晴(せい)
大山(おおやま)





「その耳すっげーね。どうやってやるで?」


 ぼんやりと座っていたら話しかけてきたお兄さんの声にはっとした。声は優しげ、でも振り返って見上げてみたらとんでもない強面だった。頭皮が見えるくらい短く刈られた丸坊主、がっちりむっちりした身体に藍色の作務衣姿、ツリ目に八重歯。がぶりと噛みつかれたらとても痛そうに見える。


「最初からこのサイズの穴を、専用の道具でばちんて」
「開けられるだ。すげー。痛かったら?」
「覚えてないです。前の事だから」


 無意識に、耳へ手をやっていた。左の耳たぶに開いた大きな穴。そこには真ん丸のステンレスを通してあって向こうの景色がよく見える。穴に人差し指を引っ掛けて引っ張るのがくせ。それをお兄さんは俺の前にしゃがんで見て、おお、と呟き、驚いたように目を瞬かせた。


「おめ、いつもここにひとりで座ってるよな。暇なんか」


 曖昧に頷く。どっちでぇ、とすぐに突っ込まれたけれど何も答えなかった。

 この町に来て三か月、学校には馴染めず、かといって前いたところに戻りたいとも思わない。どこにいればいいかわからない、座りの悪い居心地の悪い思いを抱えて昼夜ふらふら、そして見つけたのが、樹が茂ってうっそうとした神社の境内。社に続く石段に座って、狛犬を背にして暇な時間があればその時間ずっといる。朝でも、昼でも、夜でも。このお兄さんはそれを見ていたのだろうか。全く気付かなかった。


「おめ、先っころ引っ越してきた家の子ずら。名前は? 何て言う?」
「……せい」
「せい?」
「晴れるの漢字一字で、せい」
「晴れる、ああ、なるほどな。晴っていうだ。おれはこの神社に住んでる大山っつーだよ」
「おおやま、さん」
「おう。よろしくな」


 大山さんは、大きな手で頭を撫でてきた。人に触られるのは嫌いじゃない。そして触れてもらえるのは久しぶりで、おとなしくその感触を受け入れた。温かくて、厚くて、好きな手のひらだと思った。
 隣に座った大山さんは、この町のことを話してくれた。どこの川がきれいだとか、どこの山は人が来ないかとか、俺がいられそうな場所。居場所がないということを察したのかもしれない。暇なら見に行けと言われて、見上げてみると、鋭い目を和ませて笑う。


「おれと一緒に行くけ?」


 頷くと、ほーか、と言って立ち上がる。おぼつかない灯りの中で腕時計を見ると、もう間もなく四時になろうとしていた。午前四時。秋の今、まだ夜は明けないけれど、家に帰った方がよさそうだ。


「暇だったらここに来。他んとこ連れてってやっから」


 うん、と頷いて、少し離れて振り返り、手を振る。大山さんは笑って手を振り返してくれた。



 次の日、学校へ行ってもやっぱり面白くなかった。
 よそものは受け入れない、とでも言いたげな、距離を測るクラスメイト。こちらを見ても話しかけてはこない。俺は俺でそれを横目に見て、それならそれで良かった。下手に親しくなって、また前の学校のようなことになるのはごめんだと思ったからだ。
 三階の教室、窓の外に広がるのは、以前ならばビルや家だった。今は取り囲まれるように森。木々だけが見える。鉄格子のようにも見えて、自分にはぴったりだと思う。

 ここを離れた方が良い。

 静かに、ひんやりとした声で親が言ったのを聞いたのは、真夏のうだるような昼。
 高校で同級生や教師に性的なことをされていたのが知られてしまったのだ。最初は、ただのいじめだった。ただの、というのが正しいかどうかはわからない。物を隠されたり、嫌なことを言われたり、殴られたり、なんだかそういうことだったように思う。入学直後から始まり、戸惑っているうちに、次第に加熱していった。耳に穴をあけたのは、面白がった上級生。噂を聞いて俺をいじめにきたようだった。

 そして、あの日。
 真冬の体育館、併設された体育倉庫。
 最初にその行為を行った場所だ。体育着を着た同級生の手によって着ているものを剥かれ、とても寒かったことを覚えている。抵抗はしたか、しなかったか。よく覚えていない。状況はこんなにはっきり覚えているのに。そしてそこへ来た教師は、止めるでもなく参加した。それは、発覚する二年生の夏まで続けられた。つまりは今年の、三か月前まで、だ。
 夢に見るのが怖くて眠らなくなり、この町に来てからは余計に。たまにうとうとして、すぐに目を覚ます。いかにも不健康。

 その日、午後になると学校を離れた。
 いてもいなくても同じ。勉強はこちらの学校の方が少し遅れているから、休んでも問題はない。

 足を向けた先は、いつもの神社。学校を出て農道をまっすぐ歩き、途中二手に分かれる道を山際に沿って上へ進む。この町に来て初めて、道の上下という言い方を知った。平地じゃない、山に囲まれた町ならではの言い方だ。

 古びた、でもしっかりと朱色に塗られた鳥居をくぐる。それから石畳。石段が続いて、その上に狛犬、また鳥居、社という順番。石段を上がるとそこに、大山さんがいた。まるで待っていたかのようだった。


「晴、来たんか」


 俺を見てにこにこ笑う。その笑顔になんだか安心して、頷いて隣まで歩いて行った。息がはずむ。


「暇だったから」
「ほーかよ。どっか行ってみるけ?」
「近場なら」
「じゃあ、社の裏の道から行ってみるべ。すぐそこに湧水があるで、きれーだから行ってみね?」


 頷くと、ごく自然に手が差し出された。一瞬戸惑い、そっとその上に手を重ねる。大きさの違う俺の白い手を、大山さんの浅黒い手がしっかり握って、先に立って歩き始めた。
 緩やかな山道。
 草鞋でのしのし進む大山さんと、履き古したスニーカーでついて行く俺。


「大山さん、お仕事は?」
「おれは神社の管理と山の見回りが仕事よ」
「そうですか。たいへん、でしょ」
「まあ、もう慣れたっけ」
「……慣れると、そうですよね」


 触られるのが好きになった。与えられるものが気持ちよくて、嫌だったとは言えなかった。だから、誰も何も言わないまま、校舎のあちこちでしていて、話題が大きくなっていって親の耳に届いたのだから。俺は、もうずっと被害者ではなかった。


「でもまー、慣れただけで大変じゃねーとは言えねっけどな」


 大山さんの声に顔を上げる。ずっと高いところに、タオルを巻いた後頭部。


「大変だと思うとしんどくなるでな。ほいで、慣れようと思って頭が命令して、心が騙されていくだけでよ。何も感じないとか、そういうわけじゃないと思うがよ」


 そうだろうか。俺の心も、騙されていたのだろうか。よくわからない。


「おい、もうすぐ着くど」
「あ、うん」


 力強い手に引かれ、辿りついた場所。木々が茂る中に存在する小さな池。多分俺が手で囲んだら覆えてしまうくらいの狭さ。その隅で水がぽこぽこと湧いていた。


「ここからずーと下に行って、神社の横通って、町に行くだよ」


 今日も順調だな、と、池に手を入れて大山さんが言う。真似をしてそっと手を入れてみると、とても冷たかった。びっくりしてひっこめると笑って、冷たいら、と聞いてくる。頷いて、もう一度指先だけを入れてみた。きんきんするほど冷たい。


「晴、もっと奥、行ってみるけ」


 大山さんがにこにこ笑って、先を示した。
 奥、と言われても道はない。が、良く見ると踏み込まれたけもの道のようなものが見えた。


「あんなほう、行っても大丈夫なの」
「おれはいつも歩いてっからよ」
「……なんか怖い」
「ほーか。んなら今日は帰るけ」
「うん」
「じゃ、この水持って帰れし。飲んで元気になれ」
「ありがとう」


 どこから取り出したのか、竹筒のようなものに水を掬って入れてくれる。それを持ち帰って、家に帰って飲んでみた。甘くておいしい、さらっとした水。
 大山さんと一緒に歩いたおかげかとても眠くなって、その日の夜は夢も見ないでゆっくり眠った。


 土日は学校がお休みで、神社からいろいろなところに移動した。広い山の中、そこに流れている川。話しながら歩きまわって木の実を採ったり、魚を採ったり。大山さんは神社でそれらを焼いたりして食べさせてくれた。


「うめーけ」
「うん。でも神社でこんなことしていいの」
「いいに決まってるら。おれの場所だもの。気にすんな」


 食べたら今度は眠くなる。すると、社を開けてその中で寝かせてくれた。畳敷きで正面には小さな祭壇、小さな神棚。とても古いように見える。大山さんが背中から抱くようにぴったりといてくれて、温かくてうとうとしながら、あの中には何が入ってるのか、と聞いてみた。


「あん中にはご神体が入ってるだよ」
「ごしんたい」
「おう。普通は、鏡とかよ」
「かがみ?」
「だけんどうちは、ご神体がこの山だっけね。あん中には何も入ってねえ。この山自体が聖なるものだけんな」
「……そうなんだ」
「ほーだよ」


 そんな、聖なる場所とかで魚を採ったりしてもいいのかな。
 一瞬そんな風に思ったけれど、すぐに寝てしまって、その考えはきれいに消えてしまった。

 目を覚ますと、夜だった。
 大山さんにお別れを告げ、家に帰ると親がいて、ちょっと来なさい、とリビングに呼ばれる。和室畳敷きだから、居間、と言った方がいいのかもしれない。
 机を挟んで差し向かいに座るのは夏以来だった。
 あれ以来、一緒に食事すらしたことが無い。俺がふらふらしているということもあったし、親もなんだかこちらを避けていた。会話も、こちらに来てからは数える程度しかしていないような気がした。


「いつもいつも、どこへ行っているんだ」
「山とか、だけど」
「本当にそうなのか。また、どっかで変なことされてるんじゃないのか」
「ないよ」
「夜に出て行ったり、学校からもいなくなったり……もう少し大人しくしていてほしい。心配になるんだ」
「大丈夫だよ。ここは、あそことは違うから」
「大丈夫じゃない。お前に隙があるからああいうことになったんだろう。頼むからここではあんなこと、やめてくれ」


 溜息をつきながらそう言われ、なんだか身体がびくりと震えてしまった。
 俺に隙があったからあんなことになったと、思っているんだろうか。俺にも非があったから、そう言いたいんだろうか。
 返事もしないで立ち上がり、追いかけてくる声を無視して部屋に入る。
 大山さんが言っていたことは本当だったのかもしれない。
 心を自分で騙していただけで、俺は、本当は。
 だって、こんなに傷ついている。俺は何もしていなかったのに。俺が何かしたわけでもなんでもなかった。ただ普通に過ごしていただけだったのに、突然降りかかって来た暴力。それが、俺に隙があったから、そう、言われても。親は理解してくれていると思っていたのに。

 とても、悲しかった。
 けれどその悲しみを冷静に見ている俺もいる。どうしてだかわからないけれど。

 外に出るなと言われたので、玄関からは出ないで窓から外に出た。一階に部屋があってよかった。
 吐く息が白い。頭上の夜には星が広がる。その下を、走って行く。なぜだか俺は神社を目指していた。大山さんの笑顔に会いたいと思ったのだ。

 石段を上がり、灯りのついている社の格子を叩く。
 戸を開けてくれた大山さん。後ろは昼のように明るくて目が痛いくらいだ。


「どーしたよ、晴」


 んな薄着じゃ風邪ひくぞ、と、中に入れてくれる。暖房の類は見えないのに、外と違ってとても温かかった。そして、なんだろう、空気が違うように思う。重たい気持ちを少し軽くしてくれ、息がしやすくなるような、不思議な密度。
 いつもの作務衣姿の大山さんは、おいで、と俺を呼び、膝の間に座らせて抱きしめてくれた。


「こんなに冷えてよ。どうしただ」


 可哀想に、と言って、太い腕でぎゅうぎゅうと抱きしめる。胸に後頭部を寄りかからせ、なんでもない、と言うのが精いっぱいだった。説明するのは嫌だった。


「……大山さん、俺、変かな」
「あ?」
「俺って、隙がある?」
「あー……なくはねぇな。それが人も寄せるもんかはしらねえけんど」
「……そっか」
「どした」


 ううん、と首を横に振り、俯く。泣いてしまいそうだった。俺が悪いと言われたような気がした。


「晴」


 大山さんの声が俺を呼ぶ。思ったよりも近くで。


「なにがあったかしらねーけど、お前は何も悪くねえぞ。悪いんだとしたら、欲が深い他の人間よ。自分が傷つきたくねえ、欲ばっかりの人間に遭っちまったのが悪かったな。晴は悪くねえ」


 最初にかけられたときと同じ優しい声に、我慢していたものがぼろりと零れた。一度そうなってしまえばもう止まらない。泣く俺に対して、大丈夫、と繰り返して撫でてくれるので、余計に涙が出てきた。
 そういえば、誰もそうは言ってくれなかった。
 誰も、俺を慰めてはくれなかった。慰めてもらいたいと思うのは悪いことなのだろうか。


「……晴、つれー?」


 大山さんの声に頷く。心が軋んで、辛い。悲しい。その気持ちはとても大きくなっていて、ようやく認めた今、すでに破裂してしまいそうだった。これが破裂したら俺はどうなるんだろう。それも怖い。


「ほいじゃ、おれと一緒に行くけ」
「……どこへ……?」
「森の奥」


 顔を上げ、振り返ると大山さんは笑っていた。それはとても優しい笑顔で、縋りつきたいと思うには十分で。立ち上がって手を伸ばしてくる大山さん。ついこの間のように、俺はその手のひらに、手を重ねた。


「これ、邪魔だっけ置いて行こうな」


 すっと、大山さんが耳に触れる。するりと外れる感触。小さな音をたてて畳の上に落ちたのは銀色のステンレス。


 夜の山なのに、星や月があるせいか道がよく見える。そしてさっきより全然寒くない。
 大山さんは俺の手を引いて、やっぱり少し前を歩いている。


「……森の奥、なにがあるんですか……」
「なんずらな」


 振り返って笑いかけてくる大山さん。


「晴、おめーよ、この山のもん、やったら食ったよな」
「うん」
「知ってるけ? 神が棲む山のもん口にしたら、その神のもんになっちまうっちゅう話」
「ううん」
「しらねーか。ほいじゃ、この辺だけの話かねえ」


 池の横を通り過ぎ、より奥に向かって、獣道を歩いて行く。


「最初に水飲ましてよ、んで山のもん食わせたり、川のもん食わせたり。うまかったら?」
「うん……」
「あれが合わねえ人間はよ、食ったあとに身体がおかしくなるらしいわ。半身半獣になったり、意識を失ったり、おかしくなっちまったり、山には二度と近寄らなくなったり」


 何の話をしているのだろう。
 大山さんはどんどん、木々の間を歩いて行く。
 さっきから足元がおかしい。たくさんの木の葉や枝の上を歩いているはずなのに、音が何もしない。鳥の声も獣の気配もない。振り返ると、後ろはぞっとするほどの闇だった。思わず大山さんの隣に走って行って、腕を掴む。掴んだ手を撫でる大きな手。


「この山のもん、食って、無事でいる晴はもう、神のもんだでな」
「……?」
「一緒に、行こうな」


 笑う、大山さん。口元からこぼれる八重歯がなんだかいつもと違う。いつもよりずっと太くて、長い。気のせいだろうか。


「俺のこと、嫌いけ?」
「嫌いじゃ、ない」
「ほーか。安心した」


 ぴたりと足を止めた大山さん。俺を抱きしめ、頭を撫でる。


「晴も安心しろな。人はもう誰も、晴を傷つけたりしねえ。おれが守ってやっから」
「……おおやま、さん」
「余所から来てこの山の近く通ったとき、晴、見て、惚れちまった。なんつーか、大事にしてえなって思った。だめけ?」


 俺は少し迷った後に、だめじゃない、と呟いた。小さな声で、届いたかどうか長身の大山さんを見上げる。嬉しそうな顔があって、なんだかほっとした。


「まだまだ先はなげーからよ。大事にすっから」
「……うん」


 大山さんは再び歩き出した。
 周りの闇は、もう気にならなかった。
 久しぶりに耳に手をやってみると、何度触っても、そこに穴を見つけることはできなかった。





 家に帰らない少年。
 誰に聞いてもその姿を見た者はない。両親は何度も何度も家から学校までの道を歩いた。農道沿い、一本道でどこにも隠れる場所はない。財布も携帯電話も置きっぱなし、その中に変わった様子はなく、町を出た形跡もない。やがて両親は探すのをあきらめ、どこかへ引っ越して行った。

 間もなく、噂が経った。
 山の神に攫われたんじゃないか、という噂だ。
 町の青年団が、木々が多い茂り隠していた山道を切り開いて、草や蔦で隠された荒れ果てた神社へと足を踏み入れた。鳥居は崩れ、石畳や石段はばらばらになり、狛犬がどこにあるのかも定かではない。壊れた社は扉が外れていて中は空っぽになっていた。しかしそこにぽつんと落ちていた、履き古したスニーカーと丸い輪っかのようなもの。
 少年の姿は、誰も見ていない。





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