マリアの嫉妬




古びた扉が、さらに古びた音を立てて背後で開く。
私は振り返らずに、知らぬ振りをして目の前の書類に向かう。
わざわざ確認なんてしなくても、入ってきた相手は分かっているから。
いまの一瞬で部屋に漂う、大嫌いな香りを纏った、その相手のことは。


「蘭花、お仕事中?」

「…………」


彼、鳥哭は背中越しでも分かるほどのにやけた声でそう言った。
取り合わない私。
いまの彼とは、言葉を交わしたくない。
大好きな彼の纏う、大嫌いな香り。
その匂いのする限り、私は彼にこのどうしようもない思いを理不尽にぶつけてしまうことは自分でよく分かっている。


「ねえ、蘭花」

「……出てって頂戴。忙しいの」

「んーつれないなぁ」


出て行くどころか、鳥哭は書類に向かう私の背に覆い被さって、首筋に唇を寄せてきた。
嬉しくないわけなんてあるものか。
本当ならばいますぐにでも、この腕に抱かれてしまいたい。
けれど、鼻を突くあの香りが、再び私の神経を逆撫でする。


「離れてよ鳥哭。いまのあなたに触れて欲しくなんかない」

「いまのボクって?」

「……自分で分かってないのね」


一つ、ため息。
もう書類の文字の羅列なんかほとんど頭に入って来ない。
脳が沸騰してしまいそうなこの感情に名前を付けるのならば、それは怒りなのか、それとも嫉妬なのか。


「……大嫌い」

「また、そんなこと言って」

「大嫌いよ。あの方の相手をしてきたばかりのくせに」


こんなことで涙を流せるほど、私は初心じゃない。
けれど、これしきのことと笑い飛ばせるほど、“イイ女”になったつもりもない。
だからこそ懸命に、自分の思いをセーブしているというのに、彼はその原因すらも、分かっていない。
それならば、ほんの少しだけ。
私の心を溢れさせたって、バチは当たらないかもしれない。


「また玉面公主様でしょう」

「あれ……分かった?」

「……匂いで分かるわ。本当、大嫌いな匂い」

「向こうから迫られちゃあ断れないでショ?一応、大事なスポンサーだから」

「……分かってるわよそのくらい」


あのひとに性欲処理を求められれば、鳥哭は断らないし、断れない。
それがしかたのないことだというくらい、私にだってよく分かっている。
だけど、それに嫉妬を覚えたって、女としては当然のことだと思わない?
他の女を抱いたその手で愛される、だなんて。
ひどく陳腐な悪夢にうなされているような気分にすらなってしまうから。

書類を机に放って、後ろから抱きしめている鳥哭の腕に、そっと触れる。
この腕が、指が、唇が。
いつまでたっても私だけのものになってくれない。
それが悲しくて、哀しくて。


「嫉妬、してるんだ?」

「……今更?」

「蘭花はそういうのドライだと思ってた」


私の耳朶を舌先で弄びながら、鳥哭はくすりと笑う。
それはそれは、至極愉快そうに。


「……こんな私は嫌いかしら?」

「いんや?どっちかって言うと」


イイんじゃない?


囁かれた低い言葉に、胸の奥が震えた。


「でもさ、ボクも好きでお相手してる訳じゃないよー?」

「当然よ。じゃなかったら殺してるわ」

「怖い怖い」


くすくす笑って、鳥哭は私の胸元に指を滑らせた。
器用に片手でボタンを外して、シャツの中に右手を侵入させる。
その動きが、妙にもどかしくて、思わず息を吐いた。


「かーわいいなあ蘭花」

「……馬鹿……」


なんだか無性に、このまま溺れてしまいたくなる。
けれどやはり、鼻を突く女の匂いには我慢ならなくて。


「……鳥哭」

「んー?」


下着の中にまで入り込んで胸を愛撫していた彼の腕を、そっと抑えて。


「とりあえず、シャワーを浴びてきて」

「……そんなに嫌?ボクは今すぐ抱きたいんだけど」

「あのひとの名残を全部落としてからに決まってるでしょ。話はそれからだわ」

「わーかった。じゃ、それまで大人しく待ってて?」

「ええ」


離れていく温もり。
なんだか名残惜しさがこみ上げるけれど、ほんの少しの辛抱。
いつしかあのひとの匂いにも、さほど嫌気がささなくなった。

扉に向かう鳥哭の真っ白な背中。
あの広い背中に、またあのひとの爪の痕が残っているのかしら。
……ならば、その上から私を刻み付けてしまおう。
この思いが少しでも彼に伝わるように、強く強く。
それはきっと、私なりの独占欲と、ほんの少しのいじらしさ。


ふと、扉の前で立ち止まった鳥哭が、こちらを振り向いた。



「鳥哭、」

「……心配しないでいいよ?ボクが好きなのは蘭花だけだから、サ」


閉じられた扉。

嗚呼。

本当に酷い人ね?

大人しく待っているだなんて、出来そうもないじゃない、鳥哭。


fin
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