クラッシュドアイスの夢
真っ暗な宇宙空間から望む月の、とても綺麗な夜のこと。
お気に入りの花の香りのシャンプーで髪を洗って、ぷくぷくと可愛らしい泡の浮かんだバブルバスに、いつもよりものんびりと浸かってから、軽い足取りで阿伏兎の部屋へ向かうと、小さな薄明かりの中で彼は静かにお酒を楽しんでいる最中だった。
「よお、一杯付き合ってくれるか?」
もちろん、と頷いて、ソファにくつろぐ阿伏兎の隣に落ち着いた。
テーブルの上には高そうなウィスキーの瓶と、氷、たぶん水か炭酸水の入ったボトル、それから図ったようにグラスが二つ。
一つは阿伏兎の飲みかけで、琥珀色の液体の中に大きな氷がひとつ、がぼりと浮いていた。
「奈紅瑠は飲み方どうする」
「これは?水?」
「いや、炭酸」
「じゃあ割って」
「言うと思ったぜ」
クックッと喉の奥で笑った阿伏兎は、片腕で器用にウィスキーを注いだ。
割合はウィスキー1:炭酸4。砕いた氷は多め。あまりアルコールに強くない私の好みを、阿伏兎はちゃんと覚えてくれている。
出来上がったグラスを私の前に滑らせたその指先が嫌に艶かしくて、不覚にも少しドキッとしてしまう。
細かいキズだらけの、太くて武骨な手。
だけどこの手が、一瞬で目の前の敵を倒し、たくさんの書類を書き上げ、ウィスキーを私好みに作る。
温かくて、すこし乾いたあの指が、いつも私を快楽に溺れさせる。
「なんだ?手ばっかりジッと見て」
「別に、なんでも」
「んな色っぽい目で見てくれるなよ。オジさん興奮しちまうだろう?」
「ばか……」
見抜かれていたことが恥ずかしくて、そそくさとグラスに口を付ける。
ウィスキー特有の甘い香りが鼻を抜け、アルコールの溶けた炭酸の刺激が喉をするりと滑り降りていく。
薄めのはずだけれど、まだだいぶ強い。
それでもかなり上質なウィスキーなのか、嫌なアルコールの風味は感じなかった。
「美味しいね、これ」
「ああ。こないだ寄った星の名産だそうだ」
「でも少し強いかも」
「相変わらず弱いな、奈紅瑠は」
そう言って阿伏兎は、ロックのグラスを豪快に煽ってみせた。
私がやってくるまでにもいくらか呑んでいただろうに、その顔にはほとんど酔っている様子が見えない。
さすがだなぁと感心しつつ、舐めるようにグラスを傾ける。
大きな窓から差し込む月の青白い光に照らし出されて、間接照明のみの室内でもぼんやりと明るい。
別段気の利いた音楽がかかっているわけでもないのに、それだけで高級なバーにでもいるかのような、そんな心地よい気分に包まれた。
「あー、やっぱり美味いな。時間無ェ中買っといて正解だった」
「この間はまた団長がやらかしてくれて忙しかったもんね」
「全くな。“出来のイイ”上を持つと苦労するもんだ」
「でも最近は阿伏兎、機嫌良さそう」
「ここんとこ書類の山に会ってねえからなァ」
「あはは」
進む会話と、美酒。
私がやっと1杯を空にするまでに、阿伏兎は3杯、ロックで飲み干していた。
「おう、奈紅瑠どうだ?もう1杯」
「ん、でも、だいぶ酔いがきてるから」
「固いこと言わずに付き合えよ。な」
「しょうがないなぁ」
促されるままに、空になったグラスを阿伏兎に差し出す。
確かに、もうだいぶ酔ってはきていた。
けれど、もう一度私の酒を作る阿伏兎の手を見られることに、期待もしていた。
よどみなく動く阿伏兎の指先。
ウィスキーと炭酸をグラスに注いで、マドラーでかき混ぜる、その動きがふと、止まった。
「あ、」
「やっぱりな」
思わず目線を上げると、悪戯っぽい笑みを浮かべる阿伏兎と、ばっちり目が合ってしまった。
「まァた見てやがったな、奈紅瑠」
「あー……」
「そんなに俺の手が好きか、ん?」
カラン、と。
マドラーがグラスにぶつかる音が聞こえたと思うと、阿伏兎との距離がぐっと近くなった。
背中には、さっきまでウィスキーを注いでいた、大好きな手。
鼻先が触れそうな距離で、面白そうに阿伏兎は笑う。
その涼しげな瞳は、心なしかアルコールで濡れていた。
「さて、さっきから俺の手に色目で視線を送る理由、教えてもらおうじゃねぇか、お嬢さん」
「やだ、してないもん。そんな目」
「あん?あんなエロい顔して、何言ってやがる」
口角を上げた阿伏兎の唇から、ぺろりと赤い舌が覗く。
その仕草に、心臓が大きく跳ね上がった
「……阿伏兎の方が、よっぽどエロいじゃない」
「奈紅瑠程じゃねぇだろ」
そのまま、阿伏兎との距離がゼロになって、唇に熱が重なる。
深い場所で絡められた舌は、強いアルコールの味がした。
与えられるのは、脳みそまでどろどろに溶けてしまいそうな熱。
必死になって酸素を求めながらも、私の腕は夢中で阿伏兎の背に縋り付いていた。
もう、とっくに。
私の心はひどく酩酊していたみたいだ。
ウィスキーではなく、この愛しい人に。
「続きは、ベッドでな」
欲望に濡れた唇を舐め上げて、低く囁いた阿伏兎の声に、私は素直に頷いていた。
fin
紫恋さんへ