幸福論




こらえきれず、笑みがこぼれた。


大丈夫か?とか、
無理させちまったか?とか。

さっきから阿伏兎は、私を気遣う言葉ばっかりで。
ティッシュで丁寧に後始末をしてくれる、その手つきは優しさに溢れていて。


そのたびに私は、大丈夫、そんなことないよ。嬉しいの。本当に。

そうやって、けだるく、けれどはっきりと、阿伏兎の言葉にひとつひとつ答えて。
そうしたらなんだか、すごくおかしくなってしまった。
くすりと笑った私に、阿伏兎はイロイロと拭う手を止めて顔を上げた。


「どうした?くすぐってーか?」

「ん、それもあるけど。なんだか、おかしくって」

「おかしいだぁ?何が」

「阿伏兎が。だって阿伏兎、すごく優しいから」


嬉しいの。
そう言って、私の体の上の阿伏兎に、微笑んだ。
阿伏兎は、少しだけ恥ずかしそうに眉を寄せて。
手に持っていたティッシュを床に放ると、ゆっくりと私を抱きしめるように覆い被さった。


「あったかい」

「ああ……」


お互いに一糸纏わない姿。
阿伏兎の上半身の裸は今まで何度か見たことがあった。
けれど、彼の全てを知るのも、私の全てを彼の前に差し出すのも、初めてのこと。
それでも重ねあわせた肌からは、気恥ずかしさはすでにどこかへ消えていた。
洗ったばかりのシーツと阿伏兎の右腕に包まれて。
私を埋め尽くすのは、何にも勝る安心感と、この上も無い幸福。


「……体、痛むか」

「少し。でも、痛いより疲れた方が大きいかな」


けどそれは、至極幸福感をまとう疲労。
はじめて阿伏兎と体を重ねた。私の中に、いっぱいに、阿伏兎を感じた。
その事実がゆるやかな温もりとなって、また私の口角を緩める。


「阿伏兎、お願い聞いて」

「おう。何だ、お嬢さん」

「あのね。ぎゅってして。もっと、強く、長く。ぎゅって」


あの熱い幸せが私の中から消えていかないように。
ただの記憶ではなくて、出来ることなら私の血肉の一部として、刻み込まれるように。
そう願ったら、阿伏兎の腕は何も言わずにそれに答えてくれた。
あたたかい、たくましい腕。
伝わってくる左胸の鼓動や、汗の香りや、息づかい。
阿伏兎の全てが愛おしくて、たまらない。


「阿伏兎」

「おう」

「阿伏兎」

「あいよ」

「阿伏兎、阿伏兎、阿伏兎」

「……」


限りなく、無限を願うように。
私は阿伏兎の名前を口にする。
律儀に返事をし続けた彼は、やがて黙ってそれを聞いていた。
あぶと、あぶと、あぶと。
言葉にすればするほど、それはどこまでも甘い。


「阿伏兎。すき。阿伏兎」


阿伏兎の胸に顔を埋めて、名前を囁き続ける。
私にとっては阿伏兎という名前、言の葉が、「愛」や「恋」や「夢」、はたまた「大切なもの」「失くしたくないもの」「生きること」それら全ての同義語であって。
それを口にする時、その響きが、音が、すべてが、私の舌の上で甘くとろりととろけて、それは何よりも上質な砂糖菓子のように、蜂蜜のように、私を魅了して止まない。


「阿伏兎、阿伏兎……」

「……奈紅瑠」

「……あぶ、と?」

「奈紅瑠、奈紅瑠、奈紅瑠……」


いつしか名前を紡ぐのは私ではなくて、阿伏兎になって。
形にされる名前は、彼のものではなく私のものになっていた。


「奈紅瑠。奈紅瑠」

「ふふ。嬉しい」

「奈紅瑠……」

「阿伏兎」


顔を上げると、とびきり優しい目をした阿伏兎の顔がそこにはあって。
二人でにやりと笑いあい、吸い込まれるようにキスをした。
ゆるくて、甘くて、心までとろけそうな、キス。
もっともっと繋がっていたくて、深く舌を差し入れることで、顎が痛くなるのも気にしないくらい。
合わせた唇の間から、まざりあった唾液がこぼれて、枕にシミを作る。
それでも、こんなに簡単に。けれど濃厚に。
阿伏兎と繋がっていられることが嬉しかった。


「ねえ、阿伏兎。私いまね、すっごく幸せ」

「奇遇だな、俺もだ」


心ゆくまでキスをして。
二人で額を合わせて、笑いあって。
互いの名前を呼んで、抱きしめあって。
二人、同じベッドで眠る。


そんなありふれていて、唯一無二の幸せが、いつまでも続きますようにと。


阿伏兎の腕の中で迎えた朝は、ひどくまぶしくて。
世界が、昨日とはまるで違う、とても美しいものに見えた。



fin
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