ライン
※学パロ
放課後の教室は、思っていた以上にがらんとして静まり返っていた。
窓際の列の前から数えて4番目。
授業中にちょこっと意識を飛ばすにはちょうど良い、日当たり良好の物件、もとい机が私の席。
高校生になって3度目の秋。
放課後の教室を経験するのは、これがはじめてのこと。
カーテン全開の窓から降り注ぐ夕陽が、まぶしくて、すごくすごく、綺麗で。
4階の窓から覗くはじめての大パノラマ。
何だかひとりきりで見るのがもったいなく思えてしまうような、すごく綺麗なのに、何だかちょっぴり物悲しくなってしまうような、そんな西日。
「……綺麗だな」
「そーだなァ」
「え?」
驚いた。
誰もいないはずの教室で、返ってきた返事。
振り返ると、前の扉のところに担任が立っていた。いつものように、けだるそうな目をして。
「阿伏兎せんせ、居たんだ」
「下校時間過ぎてっからな。教室施錠して回ってんだ。それよか奈紅瑠、お前さん部活出なくていいのか」
陸上部、大会近ェんだろう?
言いながら阿伏兎先生はのんびりとした足取りでこちらに歩いてきた。
そうして私の席の前に立った先生は、窓の外に目をやる。
「なんだ、まだやってんじゃねーか」
眼下のグランドでは、部の仲間たちが走り込みの真っ最中。
くるくるとトラックを回るその姿が、どこか遠くに思える。
「……ちょっと、ね。調子悪くて」
「……大丈夫なのか?お前さん、うちの短距離のエースだろうが」
「そう……なんだけど、さ」
ここのところずっと心に住み続けるもやもやした気持ち。
夏の大会を終えて代表選手に選ばれてからも、このもやもやは消えてくれないまま。
それは私の体にも現れはじめて、夏が終わってから、私のタイムはどんどん遅くなる一方だ。
別段怪我をしたとか、そういうことはないのだけれど、身体が、足が、思うように動いてくれない日々が続いて。
「ちょっとね、スランプっぽい」
「奈紅瑠がスランプねえ……」
「走っても走っても、タイムが上がらなくてさ。っていうか、正直どんどん遅くなってくんだよね。走るたびに、さ。
もうなんか、今度の大会も出場できるかどうかも危うい、みたいな。
……顧問の土方先生、いるでしょ?たまには部活休んで気分転換でもしてみろって、言ってくれてさ」
「で、気分転換が教室で部活眺めるってことか?」
「……他にやること、見つからなくて」
中学校で陸上部に所属してから6年間、毎日部活漬けの日々。走ることだけが取り柄で、走ることしか知らずにいた私だから、こういう時の上手な息抜きの仕方なんて知らない。
走ってもタイムが上がらない、落ち込んで、また走って、タイムが下がって、落ち込んで、走って……ここ何週間かは、ほとんどずっとそんな調子で過ごしてきた。
まるで、抜け出すことのできない無限の輪の中にはまってしまったみたい。
このままじゃ、私はきっともう、走れなくなってしまう。
そんな不安が、どうしても私を捕まえてしまうんだ。
「どうしたらいいのかなー、私。走ることしか取り柄ないのにね」
えへへ、と阿伏兎先生に笑いかけると、先生は何だか渋い顔で私を見下ろしていた。
やがて、先生の口からは一つ大きなため息。
「んな、自分に嘘ついた風に笑うんじゃねえよ」
「…………」
「つらいときはつらい、キツいときはキツいってはっきり言えばいいんだぜ、奈紅瑠。
お前さん、どうせそうやって笑って、誰にも相談出来ないでいるんだろうが。
結局独りで全部抱え込むつもりか?そりゃあ走れなくもなるだろうさ。抱えてるもんが重すぎる」
「…………せん、せ」
「全部自分ひとりでなんとかしようとなんざするな。お前さんの悪い癖だ」
「…………」
いつになく真剣な先生の言葉は、まっすぐに、私の胸の真ん中を突き抜けていく。
どれもこれもが的を得たものばかり。
胸の奥がつんとして、思わず涙がこみ上がりかけるくらいに。
「……で、そのスランプってのは、お前さんが進路希望のプリントをまだ出してないことと関係あるのか」
「……っ」
なんてこった。
思わず、息を呑んでしまった私を見て、先生はそれを、しっかり図星だと悟ってしまったようで。
「やっぱりなァ。普段真面目な奈紅瑠がそういうもんの期限守らねーのは妙だと思っていたが。クラスでお前さんだけだぞ、提出して無ェのは」
「……ごめんなさい」
「いや、別に謝れとかそういうことじゃなくてだな」
ガシガシと頭を掻いて、阿伏兎先生はふっと窓の外に目をやる。
私は、うつむいて、外を見ようとはしない。……見たくはなかった。
それでも聞こえてくる、「あと三周!」なんて土方先生の容赦ない声や、仲間たちのかけ声。
聞き慣れたはずのそれが、無性にきりりと胸を締め付ける。
やがて、温かい温度がぽんと頭の上に降ってきて
「なあ、もう我慢すんな。……お前さんの抱え込んでるもんくらい、俺が一緒に持ってやるよ」
「せんせー……」
見上げた阿伏兎先生の顔が、じわりとにじんで見えなくなった。
頭を撫でてくれる手からは、不器用だけどすごく優しいぬくもりが伝わる。
何だか、いままで胸につかえていたものが、すっと消えていくような、そんな感覚がして。
ああ、
楽になってもいいんだって、そう思えた。
「……私、短距離で大学の推薦、いくつかもらえてるでしょ」
「ああ……4校ばかり来てたな、熱烈なのが」
「……嬉しかった。自分がいままでやってきたことが、認められたんだって思えて。走ることがすごくすごく大好きだから、私きっと、もっともっと頑張れるって思えた。
…………だけど、ね。私……走るの、高校で最後にしようと思ってんだ」
「……」
「私もさ、こんな馬鹿だけど、一応夢とかあってね。……小さい頃から、保育士さんになりたかったんだ。こう見えて、子どもとか実は超好きでさ。……あ、ちなみにこれ、まだ誰にも言ったことないから、超レアな話しだよ」
そう言って笑ったら、目の端から少しだけ涙がこぼれた。
阿伏兎先生は黙って……でも、優しい目をして先を促してくれた。
「推薦がきてる大学のどこにも、保育系の学科とか無くってさ。で……狙ってるのは夜兎大の保育なんだけど」
「…奈紅瑠。そこまで決まってて何で悩んでんだ」
……本当に。
先生の言葉は心臓に悪い。
優しくて温かいのに
嘘をつくことも、隠すことも出来そうに無いなんて。
「……これは、私の、我が儘だから」
ぽつり、ぽつりと。
絶対に面に出さないと思っていた感情が、阿伏兎先生の言葉で少しずつこぼれていく。
それは無性に、
嬉しいような、悲しいような。
ううん。きっと、本当は寂しいんだ。
「これでも一応、エース張ってるから……両親も、友達も、私がこれからも走るんだろうって思ってて、応援してくれてる。
実際ね、私自身も今までそう思ってた。私はこれからも走るんだろうなあって。
…だけどさ。もうそろそろ、自分の本当にやりたい夢に向かおうって、夏に決めたの。それが私のずっとやりたかったことだから。
……それなのにね、先生。
私……もう走れないって、思ったら、なんか……なんかね……」
思いが胸に絡まって、声が出なくなる。
まるで、心臓を鷲掴みにされてしまったよう。
泣かない、泣かないと思っていても、涙はやっぱり、こらえられなくて。
次から次へと溢れる涙。拭うのに精一杯で上手な言葉なんかもう出て来ないよ。
涙でにじんだ阿伏兎先生の顔は、よく見えない。けれど、すごく温かい表情でいてくれているような気がして。
「ああもう、走れないんだなあって…………私の、いままでが、ぜんぶ……っ、なくなっちゃう、気がして……!」
「……分かった」
もう何も言うな。
そう言って、阿伏兎先生は柔らかく頭を撫でてくれた。
その温かさに、泣くなと言われてもどうしたって涙が出る。
阿伏兎先生の手は、こんなにも温かくて優しかった。
「お前さんの気持ちは分かった。……お前さんがいままで、ひたすら頑張ってきたことはお前さんの周りの奴等も、俺も、みんなよく分かってる。……走るのを止めたくらいで、いままでの時間が無くなったりはしねえよ。誰より、奈紅瑠にとって、一番大事な時間だったんだろう?」
「っ……うん」
「なら自信持て。いままでもこれからも、全部がお前さんの時間で、全部奈紅瑠自身が決めることだ。自分がやりたいようにやればいいさ。……それでも、くじけちまいそうになったときには、俺がお前さんの背中を押してやるよ」
だから、もう迷うな。
このままいくと、次の大会が本当に最後なんだろう?
なら、ぐじぐじ悩んでる場合じゃねえだろうが。
全部吹っ切って顔上げて、最後に一つ、デカい花火打ち上げてやれや。
次の走りにお前さんの全部をぶつけてやれ。
誰よりも速く走る姿を、お前さんの最後の勇姿を見せてくれや、奈紅瑠。
「阿伏兎せんせ……っ」
「当日は、俺も応援行くからよ。……大丈夫だ、お前さんなら出来る」
出来る。
そうだ、私
まだ、走れる―――
心の中に、ふわりと優しい風が吹いた気がした。
私はまだ走っていいんだ。まだ走れるんだ。
そう思ったら、なんだか、身体がすごく軽くなったような気がして。
「……せんせ、ありがと。なんか……すごい、元気出た」
「おう。そりゃあ何よりだ。本番楽しみにしてるぜ」
そう言って笑った阿伏兎先生の顔は、真っ赤な夕日に輝いて。
なんだか無性に、この笑顔をこの先ずっと忘れたくないと、そう思った。
『女子200メートル決勝を行います。出場選手はトラックに集合してください』
その日は、朝から雲一つない晴天。
部員のみんなに笑顔で手を振って、土方先生と笑って頷き合って。
最後のスタートライン。白線の白さが、太陽に反射して少し眩しい。
一つ深呼吸して、空を見上げる。
秋特有の突き抜けるような青。心まで洗われるような気がした。
「奈紅瑠!」
不意に、私の名前を呼ぶ声が聞こえて。
振り返ったら、応援席のみんなのところに、ひときわ目立つ、大きな姿。
いつものけだるそうな目じゃなくて、あの日と同じ、優しい瞳で。
笑ってこちらにグーを突き出しているから、私も笑って同じように右手を挙げた。
『用意!』
弾ける空気。
そのとき突き抜けた風は、いままで身体に感じたどの風よりも、心地よかった―――
「よう、何やってんだこんな所で。陸上部の集まりとか行かなくていいのか」
「もう式のあとに終わっちゃったよ。後輩たちがね、泣きながら花束やら手紙やらプレゼントやらいっぱいくれたの。モテモテだね私」
「そりゃあそうだろう。なんたって最後の最後に自己ベスト叩き出して全国制覇だからなァ」
「……ま、完全引退しちゃったけど、ね」
窓際の列の、前から数えて4番目の席。あれから2回席替えのくじ引きがあったけど、結局そのどちらとも私はここから動かなかった。自分でも、びっくりするくじ運の良さ。
夕焼けに染まった窓の外では、桜の花びらが舞う中、どこかの部のお別れ会がいくつか進行中。後輩たちが涙声で別れの歌を合唱しているのが聞こえる。
「……終わったなら、なんで帰らないでこんなとこにいんだ」
「……ここにいれば見つけてくれるかなって、思って」
私の席の前に立った先生は、いつかのようにまっすぐ私を見ていて。
夕焼けに染まった顔。
思わず、見とれてしまいそう。
「せんせ」
「……おう」
「私ね、阿伏兎せんせーのこと、好き」
あのとき。
先生が私の背中を押してくれた、あの日から。
ずっと、今日がきたら言おうと思っていた。
ありがとうと一緒に
大好き、と。
「卒業、したから。言うだけ言ってさっぱりしようと思ってさ。……ごめんね?」
……じゃあ、行くね。
そう言って立ち上がって、鞄を掴みかけた腕は、強い力で掴まれて。
「おいおい言い逃げか?そりゃねえだろうよ、奈紅瑠」
「せ、んせ……」
「おっと、もう“先生”じゃねーから。……じゃ、俺ももう我慢せんで良いんだな」
次の瞬間には、先生の腕の中に。
夕焼けに染まった教室。
重なる、橙色の二つの影。
私の時間は、二人分の時間になって新しいスタートラインに立った。
fin
BGM:ブラック★ロックシューター Presented by ryo feat.初音ミク