薄紅




近頃だいぶ暖かくなった江戸の町。
屋敷の掃除もあらかた終えた私は、一息つこうと庭に面した縁側に座してお茶を啜った。
おばばには内緒で、来客用の湯飲みと急須、それに一級品の玉露を台所からくすねてきた。
女中としてのささやかな贅沢。バレたら怒られるのは必至だけど、きっと罰は当たらない。

庭の木のつぼみが、柔らかく膨らみ始めているのが目に入って、なんだかあたたかな気持ちになった。
あれはたしかソメイヨシノ。
もうしばらくすれば、春を感じさせる可愛らしい花を咲かせてくれる。
そう思ったら、とたんに春が待ち遠しくなってしまった。


「奈紅瑠」


不意に背後で、愛しい、けれどいま此処にはいないはずの声が私を呼んだ。
まさかと思って振り返ると、そこには柔和な表情を浮かべた彼の姿。


「東城さん……」


どうしてここに?と半ば呆けたままで問いかける。
いつものように、若にくっついて出稽古に向かっている時間のはずなのに。


「出稽古くらい一人で行く、と若に言われてしまいましてね」


心なしか寂しそうな口調で言って、東城さんは少し笑った。


「それから、恋人との時間を大切にしろ、と」


ないがしろにしているつもりはないのですが……と頭を掻いた東城さんは、少し照れくさそうで。
つられて私も、笑みをこぼした。
同時に、若の心遣いに心から感謝した。


「隣、よろしいですか」

「もちろんです」


頷いて、すぐにもう一杯お茶を煎れた。
お茶の道具を盆ごと持ってきていてよかった。
運よく手元には、焼き物の湯飲みがもう一つ。
それを見てすぐに来客用だと気付いた東城さんは苦笑した。


「おやおや。おばばにどやされても知りませんよ」

「あら、もう東城さんも共犯ですよ。そのときは一緒に叱られてください」

「困った人だ」


そう言いながらも、東城さんは楽しそう。
いつもの糸目が、いまは余計に細められているみたい。
お茶を一口啜った東城さんは、さっきの私と同じようにソメイヨシノに目を留めた。


「そろそろですかね」

「ええ、楽しみです」


それだけで、互いに言いたいことがわかる会話。
なんだか熟年の夫婦のようで、嬉しかった。


「花が咲くころになったら……」

「はい?」

「花見にでも行きましょう。もちろん、二人で」


柔らかな風が、東城さんの長い髪をさらりと連れて行く。
思いもかけない言葉をもらって、ほんの一瞬驚いたけれど、刹那の後にはもう、返事の代わりに東城さんの胸に飛び込んでいた。



fin
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