月明かりの君に


瀞霊廷に、静かな夜が訪れていた。

季節は春。
とはいっても、春とはまだ名ばかりで、夜は未だかなり冷え込む。
深夜近くともなれば尚更だ。
そんな夜更けの技術開発局に、浦原喜助の姿があった。

既に夜が更けていることに気付いていないのか、はたまた夜を徹するつもりで、時間の経過を気にしてさえいないのか。
どちらにせよ、彼はいつになく真剣な様子で、無数の電子画面とにらめっこを続けていた。
時計の秒針が時を刻む音と、喜助がキーを叩く音。
そして精密な電子機械の発する独特な機械音以外、何一つ音はない。


「…………」


時刻は早くも深夜になろうとしている。
が、彼には一向に仕事を上がる様子は見られなかった。

突如、背後の扉をノックする音が響き、喜助の手が止まる。
霊圧を探った喜助は、すぐに口元に微笑を浮かべた。


「どうぞ。空いてるっスよ」


そう言葉をかけながら、喜助は扉を振り返る。


「まだ起きてたんスか?彩サン」


喜助の目線の先に立っていたのは、手に湯気の立つ湯呑みの乗った盆と、薄手の羽織りを持った、十二番隊四席夜桜彩だった。


「それはこっちの台詞ですよ、隊長」


呆れたように微笑んで、彩はそっと部屋に入ってくる。
後ろ手で閉めた扉が、小さく音を立てた。


「隊長が休まれていないのに、部下の私が先に上がる訳にはいきませんから。
今まで別室で書類処理をしていたんです」

「部下の鑑っスねぇ。でも、アタシにそんな気遣い無用っスよ。第一、夜更かしは美容の天敵じゃないスか」

「あら。それこそ無用な心配ですよ?隊長がご無理をなさらず、早く仕事を上がってさえくだされば、私も心おきなく眠れるんですから」

「……返す言葉もないっス」


申し訳なさそうにポリポリと頭を掻いた喜助に、彩は優しく微笑んだ。


「お気になさらないで下さい、隊長。私は自分のことよりむしろ、隊長のお身体の方が心配なんですから」


そう言いながら、盆を手近な机に置いた彩は、持っていた羽織を喜助の肩にふわりとかけた。
嬉しいっスねと、喜助も顔を綻ばせる。


「……そろそろ一息つかれる頃だと思ったので、お茶を煎れてきました。召し上がりますか?」

「そりゃあもう、喜んで」

差し出された湯呑みを受け取り、吹き冷ましながら一口啜る。


「……お茶っ葉、変えたんスか?」

「ええ。昨日浮竹隊長に頂いたんです」


それを聞いて、喜助の眉がピクリと動く。

「……お口に合いませんでしたか?」


心配そうに尋ねた彩に、喜助は慌てて笑った。


「そんなことないっスよ。彩サンが煎れたお茶は何時も絶品スから。
……ただまぁ……ちょっとだけ、妬けるっスね」

「………」


彩が顔を赤らめたのは、決して寒さのせいだけではないだろう。


「……全く。何を寝ぼけていらっしゃるやら」

「おや。アタシは正気っスよ?」

「……っ」


三日月を描いた喜助の目と唇に、彩は一層頬を赤くした。


「……知りません」


その顔を隠すように俯いた彩の、髪の間から出ている耳までが赤くなっているのを見て、喜助は彼女に気付かれないよう、極々小さく吹き出した。


「おやぁ?怒っちゃったっスか?」


悪戯な笑みを口元に浮かべて、喜助は彩に問いかける。


「別に、怒ってなんかいません……」

「機嫌直して下さいっスよ…彩サン?」


彩の言葉はお構いなしに、喜助は彼女の長い髪に指を差し入れ絡ませる。
柔らかな絹糸のようなそれは、しっとりとした彩の香りとともに、微かながら洗い髪特有の、甘い石鹸の香を漂わせた。


「おや。もうお風呂、すんでるんスか?」


さっきまでの悪戯そうな様子を消し、真面目な声で尋ねてきた喜助に、未だ少々頬を紅に染めた彩は、顔を上げて答えた。


「はい。今日は長丁場になるのを予想してましたから……先に戻って、湯浴みだけ済ませて来たんです」

「そうなんスか…」


頷いた喜助は、湯呑みの茶をまた一口啜ると、画面にちらりと目を走らせ、再び彩に視線を戻した。


「……それじゃあこうしましょう。アタシがこのお茶を飲み終えるまで残りの処理をしたら、今日は上がります。
ですから彩サン……終わるまで手伝ってくれるっスか?」

「もちろんです!」


にっこりと頷いた彩に、喜助も満足そうな笑みを浮かべる。


「いやぁ、彩サンに手伝ってもらえると助かりますー。これなら早く終わらせられるっスよ」

「いえ……」


照れくさそうにしながら、彩は喜助の隣に腰掛けた。


「このデータ処理をすればいいんですか?」

「はい。どうにも理論と計算式が複雑で、少々てこずってたところで」

「任せて下さい!」


情報処理能力にかけては、彩は十二番隊一の切れ者だった。
すぐさま画面に向かい、キーを叩いていく。
そんな彼女を見て、湯呑みを持った喜助は口元に柔らかな笑みを浮かべた。




「ねぇ彩サン?」

「はい?何でしょう」


しばらくして。
突然の問いかけに彩はキーを叩く手を止め、喜助に目を向ける。
湯呑みが机に置かれ、陶器の軽い音が響いた。


「お茶、飲み終わっちゃいました」

「あ……」


小さく声を上げた彩は、ちらりと湯呑みに目をやる。
中は空になっていた。


「すみません隊長。まだ全部終わっていなくて……」

「いいんスよォ。アタシも押し付けたみたいになっちゃいましたし、それにだいぶ終わってるじゃないスか。もう今日は充分っスよ。ありがとうございます、彩サン」

「いえ……」

「それじゃあ、帰りましょうか」

「はい。……あ、湯呑み持っていきますね」


立ち上がって湯呑みに手を伸ばした彩の手を、喜助はそっと掴んだ。


「隊長……?」

「……こんなに冷え切ったんスね」


静かにそう言いながら、喜助は自らがかけていた羽織を彩の背にかけてやり、その指を包み込むように握った。


「これで少しは温まるっスよ」

「……隊長……」


にじみ出るような喜助の優しさに、彩の声は少し震えた。


「さ。帰りまショ」

「はい…!」


アタシたち、二人の部屋へ――



fin
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