※ワンドロお題「あじさい」から。



 しとしとと雨が降る日でした。外歩きにはあんまり向かないけど、買い出しの日なので仕方ありません。兄と私は色違いでサイズ違い(それってもう全部違うんじゃない? って思ったけどメーカーが一緒だからいいのです。)の傘をさして商店街に向かいます。通り道の脇ではあじさいが薄青に色づいていました。
「キレイだねお兄ちゃん」
「おう、そうだな」
 ごく普通に話しかけると、ごく普通の同意が返ってきました。上から見下ろすと、あじさいというのは存外きれいです。私はそのことをずっと昔から知っています。
 というのも私は幼いころ、今日と同じように雨の道を兄と歩いたことがあるのです。その道にもあじさいが咲いていました。その頃の私たちは今では考えられないほど貧しくて、傘といえばゴミ捨て場から拾ってきた汚らしいビニール傘が一本きり。兄は骨が折れ錆が浮いたそれを左手でさし、右腕で幼い私を濡れないように抱いてくれました。当時の記憶がこんなにはっきりあるのですから、幼いといってももうだいぶ大きかったはずですが、兄が疲れて私を降ろしたというような事はただの一度も記憶にありません。兄の腕の中は雨の空気にあてられてなお温かく、私には雨に冷えて不快な思いをした記憶もまた皆無なのでした。兄はきっと、その頃にはすでに自分の幼さを棄てていたのでしょう。棄てざるを得なかったというほうが正しいでしょうか。
 とにかく、私は雨の日にこうして兄と二人であじさいを見ると、幼き日の記憶がぼうっと蘇ってくるような心地になるのです。もちろん、私も兄もあの日とはずいぶん変わりました。傘は二本あるし、私は抱かれてもいなければ、薄着でもありません。私たちは変わりました。いいえ、兄が私たちを変化せしめました。
「あ、ここから色、違うね」
「おっ、そうだな」
 足元でぴちゃぴちゃ、水の音。とりとめもない会話が幸せです。脇のあじさいは薄桃色のものに変わりました。種類が違うのかな。それとも土のphが。あるいは早咲きで。真偽のはっきりしない知識がぽろぽろ頭の後ろから湧いてきます。結局、どれが本当なのでしょう。兄に訊けばちゃんと答えてくれるかもしれません。何しろ私の兄は天才なので。
「ねえお兄ちゃん、あじさいってなんで色が変わっちゃうんだっけ」
 商店街の喧騒が近かったので、私は少し急いで訊きました。はたして兄は灰色の瞳をきょとんとさせて、首をひねりました。あ、だめなやつです。そういえば兄は、天才といえば天才なのですが、それは基本的にパズルに関することばかりなのでした。
「さあ、かわいくなりたかったんじゃねえの」
 思わず吹き出しました。兄はけっこう、ロマンチストです。思わずしゃがみこんでしまうほど、私は一通り笑いました。
「おいこら、笑いすぎだぞ」
「えへへ、ごめん、ふふふ」
 でも私は、お兄ちゃんのそういうところがけっこう好きです。あじさいはかわいくなりたいから、自分の意志で変わったのです。誰のせいでもないのです。自分のために変わっていくんです。
「そんな笑ってっと置いてくぞお」
「あはは、んふ、待ってよぉ」
 私はようやく立ち上がって、ゆっくり歩いている兄を追うことにしました。
 道の脇にはあじさい。私の好きな花です。