※ヴェネチアンレッドアースのちょっと前の話



 アナ・グラムは絵を描いていた。ここではないどこかの絵だった。この世界を手の平に転がすすべを本能的に悟っている彼にとっては造作もないことだが、凡俗の人類はことごとくその能力にひれ伏した。その程度の所業であった。
 さて彼が向き合うカンバスにはここではないどこかの風景が描き出されていた。赤茶の壁と壁に挟まれた暗い路地の中から路地を抜けた先を見ている、そんな構図だ。路地を抜けた先は水路が流れていて、午後の光が水面に散って白く輝くのが、路地の暗さと強烈に対比されていた。路地とその先の水路、二つはお互いにお互いをますます暗くあるいはますます明るく見せていた。
 その暗い路地に男が立っていた。壁に寄りかかるようにしながら、男は路地を抜けた先を、まばゆく輝く水路のほうを見ているようだった。男は大柄な全身を黒っぽい衣装に包み、髪は壁の色とは異なる色味の赤である。路地の暗さが強調されているせいではっきりと判別はつかないが、それはアナの友の一人にとてもよく似ていた。そしてもし絵の男とその友が同一人物であるならば、きっとその風景はかの有名な水の都のものに相違ないだろう。
 男は今にも歩き出しそうだった。彼が見つめる先、ぎらつく水路のほとりに向けて歩きだそうとするエネルギーが、男の全身に満ちていた。そら、すぐ、壁をひと蹴りして歩いていくぞ、というばかりの気迫があった。(絵の中の男は当然壁に寄りかかったままであるが、そう思わせるだけの威力がアナ・グラムの絵にはあった。)それは他でもないアナが絵に宿らせたものである。アナが描き出す真理の一片である。
「あ」
 そのアナが、ちいさく声をあげた。彼は壁の赤茶の部分をより深く描き込んでいる最中で、そのための絵の具を追加でパレットに絞り出そうとしていた。しかしお目当てのチューブは既にぺったんこ。爪で押し込もうが、ぷらぷら振ろうが、ぷすんと音を立てたきりただの一滴も出やしない。尽きている。絵の具として最上の栄誉であろう使い切り死である。
 アナはひょいと立ち上がると美術準備室にふらり入っていった。しかしものの数分で引き返してくる。無かったのだ。在庫切れだ。完膚なきまでにゲームオーバーだ。
 アナは描きかけのカンバスを見遣った。それからぺったんこの絵の具を見た。視線が往復。うむむという唸り声。そして一分間の思考の上、世紀の大美術家アナ・グラムは不足の画材を買い出しに向かうことを決めたのだった。