※シリーズ2終了後のアナギャ



「はい、お会計、3000円だね」
 初老の男がのんびりとレジを打っている。古びた木のカウンターを挟んで反対側に立っていた大柄な少年は、レジスターに表示されたぼやけ気味の青い数字をまじまじと見て、はてなと首を傾げた。
「オヤっさん、計算間違ってんぞ」
 少年は数字を指差し、ヤンキーらしさ全開の口調で指摘する。ボケるにゃはえーんじゃねっスか、とからかうような一言も添える始末だ。しかし初老の男は怯えた様子もなく依然としてのんびり口を開き、
「ああ、間違いじゃないよ。ほら、ギャモンくん、いつも贔屓にしてくれるから」
 おまけだよ、と鷹揚に微笑んだ。
 逆之上ギャモンは珈琲好きである。自宅のキッチンにはお高めのコーヒーサーバーが設置されていて、毎朝毎夜唸りをあげて美味しいコーヒーを淹れてくれる。ぼーっとした朝は砂糖とミルクをたっぷり、パズルプリンスの締切前はブラックで飲むのが通例。そんな彼のコーヒーに欠かせないのが、隣町の文化通りの真ん中あたり、ちょっと引っ込んだところにある珈琲店で挽く珈琲豆だった。√学園に入ってすぐのあたりで見つけたこの店のオリジナルブレンドをどうにも気に入ってしまって、もう一年近く通いつめている計算になる。隣町まで足をのばさねばならないのは億劫といえば億劫なのだが、鉄の馬を乗り回すギャモンにはどうという距離でもない。というわけで彼はもうすぐ高校二年になろうかという三月にも、変わらずここに足を運んでいるのだった。
「マジかオヤっさん!」
 ギャモンはわかりやすい喜色を顔に浮かべて興奮している。しかしすぐにむっと真面目な顔を作り、あんまり値引きしすぎっと赤字になんじゃねえの? といっちょ前の心配をのたまった。「大丈夫大丈夫。ギャモンくん、また、買いに来てくれるんだろう?」
 初老の男こと珈琲店のマスターは、カウンターに据えられた馬の置物の背を撫でつつ笑った。ギャモンの方はというと、常連として認められた嬉しさと照れとちょっぴりの申し訳なさで、耳をほんのりと赤らめている。
「ったり前じゃないスか、俺、ここのコーヒー気に入ってんだからよ」
 素直にありがとうと言えないギャモンの精一杯の褒め言葉を、マスターはにこにこと聞いていた。

 ほくほくで店を出たギャモンの頬に冷たいものが触れた。季節外れの雪である。道理で冷えると思ったぜ、と一人納得したギャモンは、店の脇に停めていた愛車に駆け寄った。豆が湿気ないよう、備え付けの収納鞄にそっとしまう。
「あー、ギャモーン」
 間延びした声。特徴的なそれの持ち主は、ギャモンの知る限り一人しかいない。顔をあげて通りを見れば、ふんわりと長い亜麻色の髪の美少女……と見まごうほどの美貌の少年、アナ・グラムがこちらに歩いてくるところだった。
「アナじゃねーか! おめー、こんなとこで何してんだァ?」
 ここは√学園からはだいぶ距離のある場所だ。ギャモンはまだしも、アナの普段の行動範囲がここまで広いものだろうか?
「マイマイのー、ベネベネレッドがなくなっちゃったんだー」
「おお……すげえ……ほぼわかんねえ……」
 アナはごく普通に自分の目的を語ったようだったが、いかんせん語彙が特殊すぎてギャモンには理解が及ばない。「なくなった」という言葉とアナが提げる袋についた絵筆のマークから、画材が不足したから買い出しにきた(っぽい)ということがかろうじてわかる程度だ。
「そういえば、ギャモンこそ何してたのー?」
「あ? ああ、俺は行きつけの豆屋に用があったんだよ」
「豆屋?」
「コーヒー豆な」
「あー!」
 ギャモンが注釈をいれると、アナは得心がいったとばかりに手を打った。
「前にギャモン言ってた! 美味しいコーヒーのお店があるって!」
「!」
 ふふふ、ギャモンはコーヒー通なんだなー。楽しげに言葉を重ねるアナを、ギャモンは驚愕の表情で見つめていた。
 以前、天才テラスだかどこかで、コーヒーが好きだとか、お気に入りの店があるとか、そんなとりとめもない話をしたことがある気がする。どこで話したかも曖昧なくらいだ、たいして長く語ったわけでもなかろう。しかしアナはそれを覚えていた。覚えていてくれていた。あの美術にしか興味がないはずのアナ・グラムが。これは些細なことだ。些細なことで普通のことだけれど、しかしギャモンとアナにとってはとても巨大なことだ。自分の好きなものを覚えてもらうということは、こんなにも嬉しい。
 驚喜の波にさらわれ呆然としていたギャモンの視界へ、アナの抱える紙袋のマークが飛び込んでくる。お気に入り。好きなもの。会話。店。好きなこと。頭の中を回る単語がぱっと散って、意識がぎゅうっとその絵筆マークに収斂した。記憶が花開く。
「あ」
「ほえ?」
「それ」
「これ?」
「アナが気に入ってるって言ってた店のか?」
 今度はアナが目を丸くする番だった。よほど驚いたのか、一言もなくこっくりと頷く。その子どものような姿を見ていると、記憶がどんどん蘇る。
「たしか、こっちじゃ珍しい絵の具とかも売ってんだってな」
 確かイタリアだったか、あるいは別の国か。そこまで詳しく話してはいなかったかもしれない。もう少し注意して聞いていれば良かった。そうすればもっと……もっと、なんだ?
「そう!」
「おわっ」
「そうなのー!!」
「どわあ?!」
 アナの感情は驚きから喜びにシフトしたようだ。紙袋を抱えたまま、叫び、ギャモンに飛びついてくる。ぎょっとしつつ軽い体を受け止めたギャモンだったが、すぐにここが屋外で商店街で、とどのつまり公衆の面前であることを思い出す。二人をカップルと勘違いしたらしいどこかの誰かがヒュウッと口笛をふいたのが聞こえたような気がして、ギャモンの頬にかっと赤みが差す。
「アアアアアナ! はしたのうございますわよ?!」
「ほえ、ギャモン変なのー」
「いいから! 降ろすぞ!」
 すとんと降りたアナはまだ、跳ねだしそうな喜びのオーラをまとっている。
「マイマイのはー、いつも届けてもらうのー。でもでも、今日は待ちきれなかった!」
「はーん、そうまでして描きてえってか」
 先の供述と合わせると、普段は通販か何かで購入しているものが足りなくなって(おそらくは珍しい部類のものだ)、急きょ買いに来たということのようだ。待っていれば届くものを買いにこの寒い中わざわざ隣町まで出てくるということは、本当にどうしてもどうしても待ちきれなかったのだろう。アナの奴は本当に絵が好きだな。……ん?
 そこでギャモンはふと、得られた情報の矛盾に気が付いた。画材をそろえるという目的は既に達成されたのだから、すぐにでも帰って絵を描こうとするのがアナ・グラムではないか? なぜこの場に留まっているのだろう? なぜギャモンの元に歩み寄ってきてあまつさえ長話に興じている? 芸術に愛され芸術を愛するアナが。描きたい絵をひとまずは放って。ギャモンのところへ。その理由は? その行動の意味は?
「……」
 なんだか、ものすごく大変なことが、起こっている、気が、する。アナを見る。アナもギャモンを見ている。アンティックゴールドの瞳が優しい。優しく、ギャモンを見ている。ギャモンは胸の奥がグッと詰まったような心地がした。とてもとても大事なことに気付きかけたギャモンだったが、
「ふえっくしゅん!」
「ぅおう!?」
 アナがくしゃみをしたのに気をとられ、その思考は"大事なこと"になる前に霧散した。
「へへへー、アナが思うにー、ずびっ、ギャモン、びっくりしてるー」
「あんなデケエくしゃみされたら誰だってびっくりするわ!」
 アナの鼻の頭は少し赤らんでいて、体が冷えてきているらしいことがうかがえる。ギャモンも擦り合わせた手が冷たくなってきていた。ここはとりあえず、暖をとれる場所に非難しなければならないだろう。一番近いのはもちろん、さっきギャモンが出たばかりのあの珈琲店だ。あそこはカフェも兼ねている。
「……おらアナ! とりあえず店行くぞォ!」
「ほえ?」
「俺もお前も体冷え冷えだろが」
「それってギャモンの好きなお店かな、ふ、ひ、ふえっくしゅん!」
「あーもうちり紙ねえのかよ?! ほれ!」
「ぎゃぼんあびがどー」
「洟かんでから言えって……ちなみに店は当たりな」
 店に入ったら、オススメのコーヒーを飲んで温まって、その後はアナの気に入る店を見に行くのも良い。それから少し寒いだろうが、アナを乗せて帰ろう。そうして、そうして……。
「ギャモン」
「ん? ぁんだよ」
「今度ギャモンの好きなお店に来るとき、アナもつれてきてほしいなぁ」
 赤っ鼻のアナ・グラムが女神のように微笑む。
「だからそのつもりだって言ってんじゃねえか」
「そうじゃないんだなー」
 来週とか、来月とかの話。アナのその言葉の意味を理解したギャモンは、また頬が熱くなるのを感じた。さっきの羞恥心からくるそれとはわけが違う。いやもちろん羞恥心もある。あるけれど、今はもっと別の気持ちが強い。
「……しょうがねえな、乗せてきてやんよ」
「ほんと? やったー!」
 それはおそらく、きっと、ぜったい、楽しくて嬉しくて"とても大事"だ。