お兄ちゃんへキスを贈るようになったのは、いくつくらいの時だったか。お姫様が騎士に授ける報奨を真似したのがはじめだった。ちゃぶ台に腰かけた私の足元にお兄ちゃんがひざまずくから、赤い髪をそっと退けて、生え際に唇を押し当てる。安いシャンプーが香るのが好きだった。お兄ちゃんは妹の遊びに付きあっただけだ、今ならわかる。でも私にとってお兄ちゃんは真実騎士さまだった。額だけじゃない、鼻や頬にキスしたって、お兄ちゃんはだめと言わなかった。

 お兄ちゃんにキスをするようになったのは、どのくらい前のことだったか。お兄ちゃんの作ったパズルが雑誌のアンケートではじめて第一位になった日だったと思う。嬉しいのを隠すのが下手っぴなお兄ちゃん。私まで嬉しくなって、だから、いつも通りひざまずいたお兄ちゃんの少し赤らんだ頬に手を添えて、唇と唇をくっつけた。きょとんとした後に、恥ずかしいからもうやめるんだぞと言ったお兄ちゃんの言葉を、今もきいてあげられないでいる。もうしないなんて、お兄ちゃんは言わなかった。

 そして私は14になった。

 何も言わずに出ていったきりだったお兄ちゃんが、その日しれっと帰ってきた。私はいつも通りのフリをして、でももう決めていた。
「あっ、おかえりなさいお兄ちゃん、いつもより長かったね」
「ああ、わりいなミハル、心配かけてよ」
「うん」
 平気だよ、と嘘をつくのは、私にはまだ難しかった。
「つうかまだ起きてんのか、もうだいぶ遅いぞ」
「そう?」
「そ・う・だ。この時間はもう寝てねーとおっきくなれねーんだぞ」
「むっ、お兄ちゃんだって起きてるじゃないー」
「俺はいいんだよもうおっきいから」
 お兄ちゃんが屁理屈をこねながら自室に引っ込んでいくのについていく。お兄ちゃんはライダースの上を脱いできちんとハンガーにかけている。疲れているだろうに、いつまでもどこまでもお兄ちゃんはお兄ちゃんだ。ねえ、お兄ちゃんがいないと私、料理どころか掃除も洗濯もうまくできなかったよ。カーペット、シミにしてごめんね。お兄ちゃんが可愛いって言ってくれた服、ぐしゃぐしゃにしちゃってごめんね。私がそんなふうに言ったらお兄ちゃんは、魔法みたいに汚れを落としてきれいにアイロンをかけて、ついでにおやつも作ってくれるんだろうな。
「おいミハル、お兄ちゃん着替えるぞ」
 でもそういうところだけ、お兄ちゃんがお兄ちゃんじゃなくなるから。
「ミハル?」
 お兄ちゃんのベッドにそっと腰かけた私を、お兄ちゃんが訝しげに見ている。今日のパジャマは薄いイエローのワンピースで、ねえ、見て、座ると少し広がって、お姫様みたいでしょ。お兄ちゃんはそれでわかったみたいで、なんの疑いもない様子で私の足元にひざまずいた。おどけて笑う私の騎士さま。
「あーお姫様、お疲れの騎士に褒美ですか?」
「そうです、ごほうびです。凛々しい騎士さま。目を閉じてね」
 今日のは特別だからね。とは言わなかった。素直に目を閉じたお兄ちゃん。私のこと、ぽやぽやしてて危なっかしいとか、変な奴に騙されそうだとかってよく心配するけど、お兄ちゃんだってたいがい危なっかしいよ。
 かがむ。顔を傾けて、鼻がぶつからないようにするのを私は知ってしまっている。熱が触れる――胸が痛いほど鳴っている。でも、いつもはすぐに離れさせる唇をうっすらと開いたら、お兄ちゃんはぱっと目を見開いて逃げだした。大きな手が肩を掴み、強い力で押し退けられて、灰色の瞳が私を見た。
「ミハル」
 たしなめるような声音。眉が寄って、間接照明の作る陰影は薄く拡散する。騎士さまが怖い顔をしたらダメなんだよ。私はお姫様でしょ? 優しくして。何でもいうこときいて。嘘。ひとつだけでいいの。私へ……私に……私と………………。
 ねえ、私の騎士さま。私だけのお兄ちゃん。
「だめっていわないで」
 お兄ちゃんの目が揺れた。鼻にぎゅっとシワがよって、でも、肩を掴んでいた手の力が弱まった。腕がだらりと床に膝に落ちる。うん、ごめんね。ごめんね。お兄ちゃん。お兄ちゃんはとっても良い兄なのに、私は良い妹になれないんだ。ううんこれも嘘。なりたくないんだ。本当にごめんなさい。
 もう一度かがむ。お兄ちゃんの頬に手の平を当てて、指は髪をかきわける。シャンプー、私と一緒のなのに、別のにおいがするのはなんでかな? 人差し指で耳をくすぐると、お兄ちゃんは肩を震わせて息を詰める。そして私たちは唇を合わせた。私が口を開けたのを、お兄ちゃんはもう拒まなかった。

 こうして私は、お兄ちゃんとキスをするようになった。