学術都市トス・パルエ。王国の知識すべてが集まると謳われた、王都に次ぐ大規模都市である。王国最古にして最高学府であるパルエ高等学院を中心に、おびただしい数の研究機関がひしめきあい、渦巻貝のような螺旋構造をなす。それは外界からの干渉を拒むと同時に内部からの流出を許さない、閉鎖的なトス・パルエの性格そのものを表していると言ってもよかった。

 トス・パルエ第二層の門前広場は、人も少なく穏やかな様子だった。同じ門前広場でも、露店が立ち並び様々なモノとヒトが飛び交う第一層のそれとは大違いの静けさだ。石のベンチに腰かけた人間の老夫婦や、植木の木陰にまどろむ親子連れなどがのんびりとくつろいでいる。それらを一瞥した後、ブロントは黒いローブの人物を振り返った。
「フードは脱がなくていいのか?」
「ええ、このままで。その方があちらも仕事がしやすいでしょうから」
 目深にかぶったフードの奥の暗がりから涼やかな声が転がり出た。その言葉に軽く頷いて、ブロントは前に向き直る。
 壁。遥か頭上へ伸びる壁。びっしりと積まれた灰色の石群に太い蔦が這っている。いや、頭上のみではない。左右どちらに視線を移しても壁、壁壁、壁。
 トス・パルエは層ごとの境が非常にはっきりとした都市である。すなわち、壁が層を完全に分断しているのだ。壁は中心部に迫れば迫るほど厚く頑丈になり、比例するように出入りの検問も厳しくなっていく。それはひとえに王国の知識の粋を守るため……と、云われている。
 ブロントらが向かうのは、合法的に壁を越える唯一の通り道「三門」である。馬車二台が楽にすれ違うことのできる両開きの扉は今は大きく開け放たれており、簡易的な柵と数人の検問官が通行を監視しているのみだ。ブロントは端にいる検問官にすたすたと歩み寄り、二言、三言、会話を重ねる。いくらも経たないうちに、金髪の頭が振り返ってローブの人物を呼びつけた。
「行くぞ」
 検問官は深く腰を折って二人を見送る。

 それからもうひとつ門を越え、二人は奇妙な形の巨大建造物群がひしめく区画に入った。おそらく元はもっと小さい建物だったものにむちゃくちゃな増築を繰り返したのだろう。木、石、煉瓦、金属、その他様々な材質の壁と屋根と通路がそれらを繋いでいた。階段ばかりの街路や建物同士を繋ぐ細い橋通路を、ゆったりとしたローブの人々が忙しく行き来している。ここはいくつかの研究施設が寄せ集まった場所らしかった。二人はどこを目指しているのか、建造物群の奥へと潜っていく。
「もっと先の層に行かせろってゴネるかと思ったぜ」
「おや、何故ですか?」
「お前が専門にしてる分野の施設は、ここの層にはないからな」
「よくご存知で」
 影を免れた薄い桜の唇がゆるく弧を描く。ふわり、彼が自らフードを取り払うと、透き通る薄氷の髪が溢れ出た。彼はその長い一房をサラリと耳にかける――細長に尖がった、ヒトならざるものの耳に。
 彼は名をルファという。エルフという種の、ヒトとは異なる生物だ。その象徴は言わずもがなその耳である。一見してヒトでないとわかる”異質”な耳。
彼は普段なら第三層までしか入れないこと、第四層まで来られてとても嬉しいことをつらつらと述べ、最後に
「研究者でもなければ、エルフは第二層に入るのも一苦労ですから……いやまあ、私の同胞にそんな物好きは滅多に居りませんが」
 と結んだ。
 ほんと、"ルファ"は見かけによらずキッツいな。ブロントは左の米神を揉んだ。このエルフの研究者の言葉を冗談で済ますには場所が悪すぎる。なにせここは天下のトス・パルエなのだ。
「おや、ヒトには"ウケ"ませんかね? それは失礼しました」
 ルファは今度も作り物のように美しく微笑んだ。
 灰煉瓦の橋をくぐった先、木製のドアを開く。ドアだけを見ると民家のようだったが、その背後には石造りの巨大な施設の姿があった。どうやら通用口らしい。扉の先には左右に通路が伸びていた。天井の低い、圧迫感のある場所だ。
「あなたは習俗学にも通じておいででしょう」
 確信のあるような口ぶりだ。
「んー、ま、たしなむ程度みたいな?」
「下手な嘘は"エルフの地獄耳"にすぐばれてしまいますよ」
「そりゃ便利な耳だな」
 数日前に顔を合わせたばかりの二人が、気のおけない友人にそうするように棘のある言葉選びをする。それはまったく奇妙な光景だった。
 擦りきれかかった絨毯の道が途切れ、まだ模様の読み取れる敷物に切り替わったあたりで、ブロントは足を止めた。彼の左、金属の補強を施された扉はさほど年季が入っていない。輪を引くと、扉はキッと軽い音を立てて開いた。
「ああ……ここが」
 埃よりも先に、古いもののにおいが鼻孔を満たした。案内人のブロントよりも先に部屋へ滑り込んだルファが、感嘆をにじませた声を漏らす。その後に続いてそっと扉を閉めたブロントは、既にふらふらと書架に向かっているエルフの背中にじっとりとした視線を突き刺した。
「全部承知の上だろうが……ここにいる時点で何個かヤバい規則やぶってるからな」
 もしバレたら俺のトモダチの首がとぶんだぜ、という事実は呑んでおく。ルファにそういう確証を与えてはならないと直観していたからだ。当のルファは浮かれきっていて話を聞いていないのかもしれないが。
「ええ、わかっています。持ち出しは?」
「できると思うかぁ?」
「それは残念」
 部屋いっぱいにならぶ本棚は上下を完全に固定されている。ブロントの身長よりも少し高い程度の天井と、木目の美しい床を無愛想に貫く形で後から据えられたようだ。びくともしないその棚たちは、まるで齢を重ねた樹のように頑なだ。
 ここは主に王国の文化史や習俗史に関する資料を集めた書庫だった。ブロントの言いようからわかるように、普段は閉架、もとい閲覧を禁じられた場所である。ルファはその列のひとつにふらりと入りこむと、数冊の本をみつくろって出てきた。そして出入り口付近に設置された魔術灯の下に座り込むと、一心不乱にそれらを読み漁り始めた。ブロントはその様子をまじまじと見ていたが、ルファはまったく意に介さない。やがてブロントもその斜め向かいに腰をおろし、ルファの白い指先がページを繰るのを眺めはじめた。

 それからいくらの時が経っただろう。書物を持ってきては読み持ってきては読みを繰り返していたルファが、不意にブロントを視界にいれた。
「すばらしい場所ですね」
 ルファは興奮を隠しもしない。ラベンダーの瞳はきらきらと輝いて、まるで無邪気な幼児のようだ。
 書庫に入ったときからわかっていたことだった。彼は、ルファという生きものの正体はこれなのだ。愛想や皮肉や冷徹、そのどれもが彼の無垢を閉じ込めておく牢獄に過ぎない。学者たちが膨大な知識をこの学術都市に閉じ込めておくのとまったく同じ様式で、ルファは自らの本性をその身のうちに幽閉している。しかし何故、彼はそうまでして彼自身を牢に捕えているのか?
 そこで突然、ルファが立ち上がった。
「まあ、私とあなたでは物事の捉え方がまるで異なりますので」
 文字通りブロントを見下しながら、ルファは言い放った。さきほど垣間見えた彼の無垢は既に跡形もなかった。
「……悔しいが俺もここを宝の山だと思う」
「ああ、もうそこから違うのですよ。あなたのはあくまで……利用価値があるという意味でのそれでしょう。私の感じるすばらしさとはまったく異質です」
 同じにされては困ると冷やかに言いながら、ルファは抜き出した資料を棚に戻している。そろそろ刻限であることが彼にもわかるのだろう。もろそうな紙束をつまみあげる指先は、汚れて少し黒くなっていた。
 ブロントは壁にもたれ、目の前で動くエルフを眺めながら今後を考えていた。ルファの正体がなんとなくわかっただけでも収穫だ。わからないことも増えたが、それはこれから明らかにしていけばいい。大丈夫だ、俺にできないはずがない――そう結論付け、さてそろそろ出るかと立ち上がりかけたところで、魔術灯の光がさっとかげった。
「でも私たちにはひとつ、共通点がありますね」
 ルファがブロントの上に屈みこんでいた。長い髪がさらさらと水のように彼の肩を流れ落ち、ひさしのように光を遮る。影の中、瞳は色を失い、薄い唇がふたたび弧をえがく。張り出した長い耳が少しだけ動いたのをブロントは見た。
「あなたもまた、獄囚だ」
 ルファが声を潜めて言ったその意味を、ブロントはまだ知らない。