太陽が中天を通りすぎようかという頃。夏の到来に応じて硬く強くなり始めた若葉をさくさくと踏み分け、その男は川辺に姿を現した。木漏れ日を反射して輝く黄金の髪、深い海を思わせる群青の瞳。森のマントをなびかせ歩く彼は、魔王討伐隊隊長――「勇者」であった。彼以外の隊員の姿は見えない。不用心にも1人でこのあたりを散策しているらしい。
 彼は川岸に膝をつくと、淵を覗き込んだ。
「キレイだな……見た限りじゃ飲めそうだ」
 彼は飲み水を探していたようだ。立ち寄る予定だった集落が魔物の襲撃にあって廃れ、やむなく通り過ぎてきたところなのだろう。
「んー、一応、あいつらに訊いて……」
 だが彼がこの水を口にすることはない。彼はここで死ぬのだから。深淵が彼を見つめ返す――僕は彼を見つめ返す。
 ゴポポ……。
「?!」
 水鏡が揺らぎ、映っていた美しい顔が見る間に壊れていく。彼ははっとしたように身を引いたが、もう遅い。僕は水と同化した薄黒い腕を彼の顔や首や肩へめちゃくちゃに巻きつける。
「クソ、……っ!!」
 勇者らしからぬ罵倒は半ばで途切れた。水泡がこぽっと小さく音を立て、温い呼気が僕の腕の間をすり抜けて昇って行く。彼の口と鼻が完全に水へ没したのを確かめ、僕はその体を川へ引きずり込み始めた。このまま溺死させることもできるが、より確実な方法を採りたい。
 剣に伸びた手を押さえ込み、踏ん張る力をより強い力でねじ伏せる。彼の体はすぐに倒れ、上半身がほとんど川に沈み――しかしそこでぴたりと止まった。おそろしい力で岸に引っ張られている。いや違う、引っかかっている! 勇者の足元の若葉が彼の足に膝に絡まっているのだ。一株ならばすぐにでも引き抜けたかもしれない。しかし違う、彼の周囲すべての草が、彼を岸辺に縫い止めるように絡んでいる。異常だ。ぞわりと悪寒が走る。偶然で片付けるにはあまりに出来すぎている。

 僕は思わず、彼の目を覗き込んだ。(彼は目を見開いて、必死に抵抗していた。)彼の群青は深海の冷たさに似て、そこに勇者というものの運命が呪いのように刻まれている。今彼を深淵に引きずり込もうとしているのは僕のはずなのに、それなのに、その運命に呑まれて深海に沈む絶望と恐怖が、一気に僕の胸を侵した。

 水が震える。魚? 魚だ。僕の体をすり抜け泳ぐ魚たちが、一斉に勇者に向かって進み始めた。一匹一匹の力は弱い、でも、なんだ、この数は。まるで彼の体を岸へ押し上げようとしているかのようだ。はっと気が付く。いけない、はやく彼をこちらに引きずり込まなければ……。僕は彼を捕まえる腕を一瞬だけ引きはがし、魚を散らそうと振り回した。
 それがいけなかった。
「……!!」
 引きずり込む力が緩んだ一瞬を、彼が逃すはずがなかった。腰元に留まっていた腕が無理矢理剣の柄を掴む。抜刀一閃。ああ、僕の腕。ばらり、砕ける。腕を再構成するのには一秒とかからないが、しかし、その間に彼は転がるようにして川岸を離れていた。
「ゲホッ、ゲホ! かはッ……」
 彼は激しくせき込みながらも、剣を構えたままじりじりと後退していた。そんなことをしなくたって、こっちには追撃するつもりなんかない。時間をかけすぎた。不信に思った他の隊員が彼を探しに来るだろう、そうすればもはや勝機はないのだから。

 ……いや、最初から勝機なんて……。

 絶望が囁く。岸辺の若葉は柔らかく風に揺れ、魚たちは岩陰に息を潜めている。偶然か? あの現象たちは? 明らかに異常だ。勇者という運命をつつがなく進めるための、異常な偶然。僕は、魔王はこの偶然に抗えない――。
 異常の気配をすっかりひそめた自然物たちから逃れるように、僕は空にとける。ああ、今日も勇者を殺せなかった。