「リン?」
 自信なく呼びかけると、つややかな黒髪の頭がこちらを振り仰いだ。
「ブルース」
「やっぱりリンだ」
 髪ほどいてるの珍しいね、後ろからだとわかんなかった。そんなことを言いながら僕は階段を降りる。
 魔王討伐隊は王都に立ち寄っていた。宿屋は中央通りから二つ東にずれた路に建つごく普通のもの。リンはその裏を流れる水路の、側面に作られた階段を降りた先、水面ぎりぎりのスペースに立っていた。我らが隊長さまのやんごとなき用事のため王都入りしたもののお金もろくに持っていない僕はすっかり暇を持て余し、散歩でもするかと宿から出てぼんやり辺りをうろついていたところで、彼女を見つけたのである。きっと彼女も暇だったのだろう。
 予想を口にすると、リンはニマッと猫のような笑みを作った。
「べつに、暇ってほど暇でもなかったよう」
「そう? じゃあなんでこんなとこに?」
 水路を流れる水ははお世辞にもキレイとはいえない。茶色っぽい水草が濁った流れに押し流されるまま揺れて、時折ごみか何かが水面に顔を出す。臭いもあまりよくないから、石の階段を降りてまで近付きたい場所ではないはずだ。
 リンが立つスペースは二人で並ぶに狭すぎる気がして、少し後ろの段で止まる。リンはうーん、とうなりながら水面に顔を向けてしまったので、つむじがよく見えた。
「私、ずっと田舎にいたから、王都ってどんなのかなってよく考えてて」
「うん」
 田舎という言葉を聞いてどきりとした。そういう話になるのか、ちょっとまずいことしたかな、なんて焦りながらそれを誤魔化すように相槌を打つ。リンの、そういう話を聞くのはこれが初めてだった。
「なんだろ、なんとなく、王都の人って悪者ばっかりだと思ってたの」
「悪者?」
「そう悪者。みーんな他人を騙すことしか考えてなくて、怖いところ」
 言ってから、リンはまた笑みを作った。思ってたというなら、今は違うのだろうか。問いへの答えはイエスだった。そうだね、そんなことなかった。宿屋のおばさんが朝食にパンおまけしてくれたもん。少しおどけてリンは言う。
「思ったよりずーっと、普通? みたいな、そういうの考えちゃって……」
 語尾を濁し、俯いた。耳にかかっていた黒髪がさらりと落ちて、彼女の丸い頬を覆う。小さな声で、拍子抜けしちゃった、と言うのが聞こえた。
 僕は彼女の故郷を思い、焼けた家々を思い、立ち尽くすリンの姿を思った。
「あのさ――」
 声を出してから、何と続けていいかわからなくなってしまった。リンが半分振り返って、髪よりももっと黒い瞳で僕を見ていた。僕は彼女の心を知らない。容易に踏み込んでいいものではないし、意図して暴くべきとも思えない。だから今まで積極的に話そうとは思わなかった。
「……悪者ばっかりのほうが、よかった?」
 少しだけ考えて、おどけてみることにした。首を傾げてリンの顔をうかがって、ちょっと笑いながら。
 リンは一回、大きくまばたきした。ゴボン。水路でにぶく水がはじけた。そしてその音が耳に残っているうちに、彼女はくしゃっと笑った。
「うーん、わかんないや」
「わかんないのかぁ」
「うん、わかんない!」
 でもいつかわかるかも。そんなふうに言った彼女の笑みは、もういつも通りの猫みたいなそれになっていた。
 魔王討伐隊は、明日の朝にはもう王都を発つ。けれどまた来ることもあるだろう。一か月後か二か月後か、それとも魔王を倒した後か、わからないけれど、その時はまたこの水路に降りてこよう。
 と、こっそり誓った僕が足を滑らせて水路に落っこち、助けようと続けて飛び込んだリンのカナヅチが発覚、逆に僕が彼女を助けることになるとは、この時の僕らはまだ知る由もないのだった。


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ついったでリプをくださった武田部さんに捧げます!
ブルリンっていいもんですね……。